兼 平 (かねひら)
●あらすじ
木曽の山家の僧が、江州粟津の原で討死した木曾義仲の跡を弔いたく思い、日をついで矢橋の浦までやって来ます。するとそこへ一人の老人が紫舟に棹さして通りかかるので、僧が便船を頼むと、老人は渡し船ではないと一度は乗船をこばみますが、出家だからと舟に乗せることにします。老人は僧の尋ねるままにあたりの名所など教えていたのですが、やがて舟が粟津の浦へ着いた時にはもうその姿は見あたりませんでした。夜に入り、僧が木曽義仲の亡き跡を弔っていると、そこに颯爽とした一人の武者が現れて今井の四郎兼平と名乗ります。武者は先程の舟の老人も自分であると言い、義仲の討死した当時の様子などを詳しく物語ります。そして主君の跡を弔ってほしいと頼んだ後、自分の悲壮で凄惨な最期の有様を僧に語って聞かせたのでした。 (「宝生の能」平成12年2月号より)
●宝生流謡本 内二巻の二 二番目 (太鼓なし)
季節=春 場所=前・近江国矢橋の浦 後・近江国粟津原
稽古順=入門 素謡素謡時間=44分 作者=世阿弥元清
素謡(座席順 ワキ=旅 僧
シテ=前
老翁・後今井兼平
●今井兼平の略歴
今井 兼平(いまい
かねひら)は平安時代末期の武将。正式な名のりは中原兼平(なかはら
の
かねひら)。父は中原兼遠。木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人。兄に樋口兼光、姉妹に巴御前がいる。信濃国筑摩郡今井(現長野県松本市)の地を領して今井を称した。
義仲の乳母子として共に育ち、兄兼光と共に側近として仕える。治承・寿永の乱では治承4年(1180年)の義仲挙兵に従い、養和元年(1181年)5月、横田河原の戦いで城助職を破る。寿永2年(1183年)、般若野の戦い・倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平氏軍を破り、7月には平氏を都落ちさせて義仲と共に入京。10月、福隆寺縄手の戦いで妹尾兼康を破る。11月、後白河法皇と義仲が対立した法住寺合戦では、兼平・兼光兄弟の活躍が著しかった。元暦元年(1184年)正月、鎌倉軍に追われ敗走する義仲に従い、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害した。享年33才。その壮絶な最期は、乳兄弟の絆の強さを示すエピソードとして知られる。
生誕 仁平2年(1152年) 死没 寿永3年1月20日(1184年3月4日)享年33才
別名 四郎(通称)、中原兼平(別名)
時代 平安時代末期
墓所
徳音寺、 北橘村、大津市、木祖村、長野市、川中島
主君 源義仲 氏族 中原氏 父母
父:中原兼遠 兄弟 樋口兼光、兼平、巴御前
●謡蹟めぐり
今井兼平の墓 兼平庵の碑 滋賀県大津市晴嵐 (平
3.4) 高橋春雄 記
今井兼平は、源(木曽)義仲の寵臣の武将。寿永3年(1184)正月、源義経、範頼の軍と近江の粟津で戦い、討死した義仲のあとを追って自害した。その最後は、口に刀をふくんで馬から飛びおりるという壮絶なものであった。寛文元年(1661)、膳所藩主本多俊次は、今井兼平の戦死の地をもとめ、中庄の墨黒(すぐろ)谷(篠津川の上流)に墓碑を建立して、兼平の義勇をたたえた。墨黒谷には、兼平の塚があったといわれその塚のところに建碑したのであった。その後、寛文6年、次代の藩主康将のとき、参拝の便を考えて、東海道の粟津の松並木に近い現在地に、兼平の墓を移設したという。碑は、明治44年、その兼平の墓を再改修したときのものである。碑文によれば、滋賀県知事川島純幹、膳所町長馬杉庄平、兼平の末裔で信州諏訪の人今井千尋らが発起して、旧跡の規模を拡張し、その参道を改修したものという。 東海道線石山駅の近くに現在でも粟津町の地名が残っており、この碑はここから線路を隔てた晴嵐町にある。
今井神社、兼平の墓 (松本市今井)
(平7・5記)
松本市といっても塩尻市に近い松本空港のあたりである。中央高速を塩尻北インターで降りる。地図にも載っていないので土地の人に聞きながら車を進める。なかなか見つからない。バス通りから少し横に入るらしいのだが、その曲がる場所が分からない。とうとう郵便局に車をとめて局の方に聞いてみた。ちょうどその方が郵便配達に出かけるところで、私のあとについてきなさいという。親切な方に案内していただいてようやく辿りつくことが出来た。神社は考えていたよりもずうっと立派で境内も広い。鉄製の柱のようなものが何本も建っているので土地の方に聞いてみたら、お祭りの時に幕を垂らすためのものだそうである。それはみごとなものだそうである。境内の一隅には兼平公の墓が立派に手入れして保存されていた。神社の由緒が記されていたので紹介する。
今井神社由緒今井神社はまたの名を兼平神社ともいい、旭将軍木曽義仲四天王の一人、今井四郎兼平を祭神とする。伝うるに兼平公は元来本村に住し義仲公義兵を木曽に起こすや主君に従って信州より北越を略し京都に上る。江州粟津ケ原の戦に討死をとげた。足利尊氏義仲の遠孫家村を木曽に封じ義仲の祀りを起こさせた時に、今井村は木曽家村に属していたので、有志の者応永年間兼平公の霊を祀ることを木曽家に請い社を建てて祀った。爾来上下今井村民氏子として祭を絶やさず、特に50年忌ごとには大祭を行って今日に至った。元文5年、東方にあった若宮社を合祀した。この地はもと兼平公の館のあったところ、社の前の道は兼平公が尊崇した西洗馬薬師堂への参詣道といわれている。 」またの名を兼平神社ともいい、今井四郎兼平を祭神とする。もと兼平公の館のあったところといわれる。
宝生流には「木曽」という曲はないが、三読物の一つとして「願書」という曲があり、義仲が出陣に際し奉納した願書をその内容としている。三読物とは、「安宅」の「勧進帳」、「正尊」の「起請文」とこの「願書」のことである。「願書」は義仲に関する曲ではあるが、特に重く扱われているので、このシリーズで単独の曲として取り上げることはせず、便宜上ここでとりあげることとする。「願書」の内容は「何々帰命頂礼八幡大菩薩は、日域朝廷の本主・・・平相国といふ者あって、四海を掌にし、萬民を、悩乱せしむ、これ、仏法の仇・・・希はくは、神明納受垂れ給ひ、勝つ事を究めつつ、仇を四方に退け給へ・・・」と、かなり長い名文である。
源氏 関係 13曲(源 義経関係を除く)
小原隆夫調べ
コード 曲 目
概 説
習順 季節 謡時間
内04巻5 融 895旅僧源融(822〜855)ノ塩竈風情ヲ夢見る
入門 秋 45分
外10巻4 満 仲 957多田満仲ノ子ノ身代リトナル家人ノ子僧ニ諭サレル 初序
不 50分
外15巻5 大 江 山 981源
頼光大江山ノ鬼退治
入門 夏 35分
外04巻2 羅 生 門 990源 頼光家来羅生門の鬼退治
平物 春 22分
内07巻2 鵺 991源
頼光京都御所のぬえ退治 入門
秋 37分
外14巻2 土 蜘 991源頼光(948-1021)土蜘蛛退治(満仲ノ子)
平物 夏 23分
内06巻2 朝 長 1159平治の乱源
朝長ノ戦物語ト女(観音懺法) 中奥 春
65分
内03巻2 頼 政 1180宇治ノ平等院ニテ源頼政ノ幽霊
戦物語ス 初序 夏 45分
外12巻2 七 騎 落 1180源頼朝石橋山ノ戦ニ負ケ再起スル実平ノ苦心談
初序 秋 40分
外01巻2 箙 1184源氏ノ若武者梶原景季梅ヲ笠印ニ生田川戦ウ
平物 春 40分
内02巻2 兼 平 1184粟津原で戦死した今井四郎兼平の話
入門 夏 44分
外11巻2 巴 1184木曽義仲の女武者巴物語(修羅物)
入門 春 40分
内08巻5 藤 戸 1184藤戸合戦ニ佐々木盛綱ニ殺サレタ子ヲ母親供養 初奥 春
50分
あさかのユーユークラブ
謡曲研究会 平成24年10月19日(金)
兼 平(かねひら)
【分類】二番目物 (修羅物) 季 春
【作者】世阿弥元清 所 前 近江国矢橋の浦 後 近江国粟津原
【当場人物】前シテ:老翁、後シテ:今井兼平 ワキ 旅僧
【詞章】
(胡山文庫)
次第
ワキ 上 始めて旅を信濃路や。始めて旅を信濃路や。木曾のゆくへを尋ねん
ワキ 詞 「是は木曾の山家より出でたる僧にて候。さても木曾殿は。
江州粟津が原にて果て給いたる由承り及び候程に。彼の御跡を弔い申さばやと思い。
唯今粟津が原えと急ぎ候
道行上 信濃路や木曾の掛け橋名にしおう。信濃路や木曾の掛け橋名にしおう。
その跡とうや道の辺の草の陰のの仮枕。夜を重ねつつ日を添えて。
行けば程なく近江路や。矢橋の浦に着きにけり矢橋の浦に着きにけり
シテ 上 世の業の。憂ききを身に積む柴舟や。焚ksぬ先より。かがるらん
ワキ 詞 「なうなう其の舟に便船申さうなう
シテ 詞 「これは山田矢橋の渡し船にたもなし。御覧候へ柴積みたる舟にて候程に。
便船は叶い候まじ
ワキ 詞 「こなたも柴舟にと見申して候えども。折りふし渡り舟もなし。
出家の事にて候えば別の語利益に。」
上 舟を渡してたび給え
シテ 上
げにもげにも出家の御身なれば。
シテ 詞 「世の人には変わり給うべし。げに御経にも如度特舟」
ワキ 上 舟待ち得たる旅行の暮れ
シテ 上 かかる折りにも近江の海の
シテワキ 上
矢橋を渡る舟ならば。それは捨て人の渡し舟なり
地 上 これはまた浮世を渡る柴船の。浮世を渡る柴船の。ほされぬ袖も見馴れ竿の
みなれぬ人にてましませば。
舟をばいかで惜しむべきとくとく召され候へとくとく召され候へ
ワキ 詞 「いかに船頭殿に申すべき事の候。見え渡りたる浦山は皆名所にてぞ候らん御教え候へ
シテ 詞 「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教え申し候べし
ワキ 詞 「先ず向いに当たって大山の見えて候は比叡山候か
シテ 詞 「さん候あれこそ比叡山にて御入り候へ。麓に山王二十一社。茂りたる森は八王子。
戸津坂本の人家まで残りなく見えて候
ワキ 詞 「さてあの比叡山は王城より丑寅に当たって候ろなう
シテ 詞 「なかなかの事それ我が山は。王城の鬼門を守り。悪魔を払うのみならず」
シテ 上
一佛一乗の嶺と申すは。伝え聞く鷲の御山をかたどれり。又天台山と号するは。
震旦の四明の洞をうつせり
シテ 詞 「伝教大師桓武天皇と御心を一つにして。延暦年中の御草創。我が立つ杣と詠じ給いし。
シテ 上
根本中堂の山上まで。残りなく見えて候
ワキ 詞 「さてさて大宮の御在所橋殿とやらんも。あな坂本のうちにて候か
シテ 詞 「さん候麓に当たって。少し木深き陰の見えて候こそ。
大宮の御在所橋殿んいて御入り候へ
ワキ 詞 「有難や一切衆生悉有佛性如来と聞くときは。我等が身までも頼もしうこそ候へ
シテ 詞 「仰せの如く佛衆生通ずる身なれば。お僧も我も隔てはあらじ。
シテ 上 一佛乗の
ワキ 上 嶺には遮那の梢をならべ
シテ 詞 「麓に止観の海をたたえ
ワキ 上 又戒定恵の三学を見せ
シテ 上 三塔と名づけ
ワキ 上 人は
シテ 上 また
地 上 一念三千人の。衆徒をおき園融の法も曇りなき。月の横川も見えたりや。
さてまた麓はさざ波や。志賀辛崎の一つ松。七社の神輿の御幸の梢なるべし。
さざ波の見馴れ竿こがれ行く程に。遠かりし。向の浦波の。
粟津の森は近くなりて跡は遠きさざ波の。昔ながらの山桜は青葉にて。
面影も夏山のうつりゆくや青海の。柴舟のしばしばも。
暇ぞ惜しきさざなみの寄せよ寄せよ磯際の粟津に早く着きにけり粟津に早く着きにけり
中入り
ワキ 待謡上 露を片敷く草むしろ。露を片敷く草むしろ。日も暮れ夜にもなりしかば。
粟津の原のあわれ世の。なきかげいざや弔らわんなきかげいざや弔らわん
後シテ 上 白刃骨を砕く苦しみ。眼精をを破り。紅波楯を流すよそおい。
梁杭(やなぐい)に残花を乱す。雲水の粟津の原の朝風に
地 上 時つくり添う、声々に
シテ 上 修羅の巷は。騒がしや
ワキ 上 不思議やな粟津の原の草枕に。甲冑を帯し見え給うは。いかなる人にてましますぞ
シテ 詞 「愚かと尋ね給うものかな。御身かれまで来たり給うも。我が亡き跡を弔はんための。
御志にてましまさずや。兼平これまで参りたり
ワキ 上 今井の四郎兼平は。今は此世になき人なり。偖は夢にてあるやらん
シテ 詞 「いや今見る夢のみか。現にもはやみなれ棹の。舟にて見みえし物語。
早くも忘れ給えりや
ワキ 上
そもや舟にて見みえしとは。矢橋の浦の渡守の
シテ 詞 「その舟人こそ兼平が。現に見みえし姿なれ
ワキ 上
さればこそ始めより。様ある人と見えつるが。さては昨日の舟人は
シテ 上 舟人にあらず
ワキ 上 漁夫にも
シテ 上 あらぬ
地 上 武士の矢橋の浦の。渡守。
シテ 上 矢橋の浦の渡守と。見みえしは我ぞかし。同じくはこの舟を。御法の舟に引き替えて。
我をまた彼の岸に。渡してたばせ給えや
地 上 げにや有為生死のちまた来つて去る事はやし。老少もつて前後不動。
夢幻泡影。何れならん
シテ 上 唯是檎花一日の栄
地 下 弓馬の家にすむ月の。わづかに残る兵の。
七騎となりて木曾殿は。此の近江路に下り給うう
シテ 下 兼平瀬田よりまいり合いて
地 下 又三百餘騎になりぬ
シテ 下 その後合戦度々にて。又主従二騎に打ちなさる。
地 下 今は力なし。あの松原に落ち行きて。御腹召され候と。兼平すすめ申せば。
心ぼそくも主従二騎。粟津の松原さしいぇ落ち給う
クセ
兼平申す様。後より御敵。大勢にておっ駆けたり。防ぎ矢仕らんとて。
駒の手綱を返せば。木曾殿御諚ありけるは。多くの。敵を遁れしも。
汝一所にならばやの。所存有りつる故ぞとて同じく返し給えば。
兼平また申す様。こは口惜しき御諚かな。さすがに木曾殿の。
人手にかかり給わんこと。末代の御恥辱。
唯御自害有るべし今井もやがてまいらんとの。兼平に諫められ又引っかえし落ち給う。
さてその語に木曾殿は。心ぼそくもただ一騎。粟津の原のあなたなる松原さて落ち給う。
シテ 上 頃は睦月の末つ方
地 上
春めきながら冴えかえり。比叡の山風の雲行く空もくれはどり。
あやしや通い路の。末白河の薄氷。」深田に馬を駆け落とし。
ひけどもあがらず打てども行かぬ望月の。駒の頭も見えばこそこは何とならん身のはた。
詮方もなくあきれ果て。このまま自害せばやとて。刀に。手を掛け給いしが。
さるにても兼平が。行方いかにと遠方の跡を見返りたまえば、
シテ 上 いづくより来たりけん
地 上
今ぞ命はとき弓の。矢一つ来たつて内兜にからりと射る。痛手にてましませば。
たまりもあえず馬上より。遠近の土のなる。所はここぞ我よりも、主君の御跡を。
まづ弔いてたび給え
地 ロンギ上
げに痛はしき物語。兼平の御最後は何とかならせ給いける
(独吟・仕舞 、つぎの箇所から終わりの
目を驚かす有様なり まで)
シテ 上 兼平はかくぞとも。知らで戦うそのひまにも。御最期の御事を心にかくるばかりなり。
地
上 さてその後に思わずも。敵の方に声立てて。
シテ 上 木曽殿討たれ給いぬと。
地 上 呼ばわる声を聞きしより。
シテ 上 今は何をか期すべきと。
地 上 思い定めて兼平は。
シテ 上 これぞ最期の高言と。
地 上 あぶみふんばり大音上げ。
シテ 上 木曽殿の御内に今井の四郎。
地 上 兼平と名乗りかけて。大勢に割って入れば。もとより一騎当千の秘術を現し大勢を。
粟津の。汀に追っつめて磯打つ波の。まくり切り。蜘手十文字に。
打ち破りかけ通って。その後。自害の手本よとて。
太刀をくわえつつ逆さまに落ちて。貫かれ失せにけり。
兼平が最期のしぎ目を目を驚かす有様なり目を驚かす有様なり。
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