宝生流謡曲 難 波

●あらすじ
山は霞み、春の浦は波風も穏やかです。三熊野を信仰するある一人の臣下が、年籠りを終えて摂津の難波の里まで帰ってきました。見るとそこに老人と若者が、しきりに梅の木陰を掃き清めているのに出会います。その様子がいかにもすがすがしい風情であるので、臣下は老人にその梅は名木であるかと尋ねます。すると老人は、難波の里に於てこの花を名木かと尋ねるのはいかにも心ないことであると、名高い難波の梅について、仁徳天皇と縁の深いことなどを教えます。老人はさらに、仁徳帝の仁政について詳しく物語り、最後に梅に縁のある春鶯囀(しゅんのうでん)(雅楽名)を奏して慰めようといい、若い男は梅の精、老いたる自分は難波津の歌を詠んだ百済国の王仁であると明かし、臣下を残して消え失せます。 夜になると、梅の精である木花咲耶姫とと王仁が現れ、姫の舞に続いて王仁が舞楽を奏し、天下泰平を祝福します。  (『宝生の能」平成12年2月号より)

●宝生流謡本    内二巻の一     脇 能  (太鼓あり)
  季節=春  場所=摂津国難波 作者=世阿弥  稽古順=入門  素謡素謡時間=35分
  素謡座席順   ツレ=天女   ツレ=男
             シテ=前 老翁 ・ 後 王仁
             ワキ=臣下
●曲 趣
 この曲は高砂、弓八幡などと共に本脇能物である。曲の内容は極めて単純であって、構想の上からも作曲の上からも、取り立てて言うほどのことはないが、春の梅をかたり、天皇のご聖徳、ご仁政の有難さを讃えた点と云い、何れも目出度い事柄が綴られてある。元来本脇能物は気品が第一であって、この曲も前半は高砂と同様に、荘厳であり、清浄であり、清々しい気韻に満ちているところを、そのまま曲位とし、曲想として謡うのである。後半は木花咲耶姫の神体と、王仁の本体が現れて、様々の舞楽を奏して天下泰平を祝うもので、総じて後の方は高砂や弓八幡などとは趣を異にし、扮装に於いても他の脇能物とは自羅相違がある。これらの点から見ても特に位があり、確りと謡うべき所為が窺われるであろう。

●古代史の旅(難波津編)                         (by ふでひげ)
関西に住んでいたら、神戸港や大阪の港に船で帰ってきたことがあるという方も多いかもしれません。伊丹空港に夕方帰ってくるとき、着陸前に見える、大阪の町が夕日に染まる景色も素敵なのですが、大阪湾に入ってくる船のデッキから見る六甲や北摂の山並みの美しさには勝てないでしょう。関西に帰ってきたんだという実感がします。しかし、1500年前に、この景色を見た人たちのことも想像して下さい。 ここは、大陸や朝鮮半島から倭に来訪する、あるいは、彼の地から帰ってくる倭人たちが感激しながら目にした景色でもあるのです。海のシルクロードの最後の航路は、瀬戸内から大阪湾に入ってくるこの景色の中にあったのです。

※住之江津
海の神様である住吉さんは、元々、九州の海人(あま)の神様を大阪の住之江津で祭るようになったものです。九州から運ばれてきた、古代の一番大きな荷物は阿蘇の花崗岩です。大阪府立「近つ・飛鳥博物館」には、古墳から発掘された、巨大な石の棺桶である、「石棺」が展示されていますが、畿内の多くの石棺は、九州から運ばれてきたものだそうです。浮力を利用して、船の底から縄で海中に浮かせて運んできたのでしょうが、あんな大きな岩の塊をぶら下げて、よく瀬戸内を航海できたものだと思います。そんな船も、住之江に着いたのでしょう。河内王朝は倭の五王として、大陸の歴史にも登場し、半島までも侵略するような武力を持っていたのですから、倭軍の軍港でもあったはずです。
※難波津
仁徳天皇の難波高津宮はどこにあったのか(仁徳の実在も証明されていない)わからないのですが、飛鳥時代には、上町台地の北端、今の大阪城の南に難波宮がありました。都が上町台地の突端にあったことは、倭の玄関である港が、このあたりに築かれたこととも、関係がありそうです。「堀江」というのは、人工的に掘削した水路のことでしょうが、物部氏が蘇我氏が祭っていた仏像を投げ込んだ「難波の堀江」は今の天満橋あたりだとされています。ちょうど、大阪城のすぐ西です。難波津とは、この、難波の堀江のあたりの港ではないでしょうか。近世の海運の中心であった北浜もこのあたりですから、堀江掘削以降、千数百年間、大阪は水の都であり、日本最大級の港だったのです。

●難波津 (なにわつ、旧:なにはつ)
 古代大阪湾に存在した港湾施設の名称である。現在の大阪市中央区付近に位置していたと考えられている。 瀬戸内海が現在のような形になったのは縄文時代のことであるが、当初の海岸線は生駒山の麓、現在の東大阪市まで入り込んでいた。この湾を河内湾と呼ぶ。河内湾の入り口に南から突き出ていたのが現在で言う上町台地である。その後、河内湾の入り口は堆積した土砂で埋まり(天満砂州)、2世紀から3世紀にかけて、河内湾は完全に瀬戸内海から切り離されて草香江と呼ばれる湖となった(河内湖)。古墳時代に入ると、人々は水運の利便性を考えて瀬戸内海と河内湖の間に運河を掘削し、これを難波堀江(なにわのほりえ)と名付けた。河内湖の最奥部には草香津と呼ばれる港湾施設があり、瀬戸内海から難波堀江を通過して河内湖に入った船は、そのまま東進して草香津に向かった。また難波堀江の途中にも港湾施設が建設された。これが難波津である。
また難波津の東、上町台地の先端からは16棟もの倉庫群の遺構が発掘されており、難波津が当時の物流の一大拠点であったことが明らかになっている。なお、文献史料には「難波館(なにわのむろつみ)」と呼ばれる商館の存在も示されているが、こちらの遺構はいまだ発見されていない。
大化の改新の後には、難波津の南東に難波長柄豊碕宮(前期難波宮)が造営され、都が移された。しかし654年に孝徳天皇が死ぬと都は明日香に戻り、686年には難波長柄豊碕宮は焼失してしまう。奈良時代にはいわゆる後期難波宮が再建されたが、長岡遷都時に施設は解体され、難波津は土砂の堆積によって港湾施設としての機能を失っていった。
難波津を詠んだ歌
難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花(王仁)
難波潟みじかき葦の節の間も会はでこの世をすごしてよとや(伊勢)
侘びぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしてあわむとぞ思ふ(元良親王)
難波江の葦のかりねの一夜ゆゑ身を尽くしてや恋渡るべき(皇嘉門院別当)

●難波津の位置
 難波津が現在の大阪市のどのあたりに位置していたのかは長年不明であったが、1984年頃から難波津の位置についての論争が本格化し、いくつかの地点に絞り込まれている。ただいずれの説も決定的な根拠を欠いており、位置の確定には至っていない。有力なものとして中央区三津寺町付近とする千田稔の説と同じく中央区高麗橋付近とする日下雅義の説があり、近年では後者が有力視されている。 ところが2010年になって、以下の史料解釈を根拠に難波津の位置を豊中市南部に求める新説が提示された。 (中略)
 以上から、難波津は上町台地から三国川河口の沖合を挟んだ位置、つまり大阪市淀川区・豊中市・尼崎市南部一帯がその候補地となる。、各候補地の状況をふまえると、難波津の位置は豊中市南部の上津島・名神口に展開する上津島遺跡群に求めるのが、最も合理的である。

謡曲研究会 平成24年10月19日(金)


昔の「古事記」や「古今集」に拠る物語由来からつくられたと言われてる目出度い、ご存知の名曲です。色変わりの文字の個所は福島県郡山市に存在する地名「あさかやま」の文言が詠みこまている。

   難 波   
      脇能(太鼓あり)                    季 春
              ツレ   男
              ツレ   天 女
             シテ   前・老翁 後・王仁        所 摂津国難波
              ワキ   臣 下


ワキ 次第 「山もかすみて浦の春。山もかすみて浦の春。浪静かなりけり
      「抑も是は当今に仕え奉る臣下なり。我三熊野を信じ。
       毎年年籠もりし。立ち返る春にもなり候へば。唯今都に下向仕り候」
   道行 春立つやげにも長閑きかざなぎの。げにも長閑きかざなぎの。
       濱の真砂も吹上げの浦伝いして行く程に。早くも紀路の関越えて。
       これも都か津の国の。難波の里に着きにけり難波の里に着きにけり。
シテツレ 「君が代の。長柄の橋も造るなり。難波の春も。幾久し
ツレ    「雪にも梅の冬籠もり
シテツレ 「今は春辺の。景色かな
シテ    「それ天長く地久しくして。神代の風長閑に伝わり
シテツレ 「皇のかしこき御代の道広く。国を恵み民を撫でて。
       四方に治まる八嶋の波静に照らす日の本の。影ゆたかなる時とかや
    下歌 春日野に若菜摘みつつ万代を
    上歌 祝うなる心ぞしるき曇りなき
ツレ    「心ぞしるき曇りなき
シテツレ 「天津日嗣の御調物運ぶ巷や都路の直ぐなる御代を仰がんと。
       関の戸ささで千里まで。普く照らす日影かな普く照らす日影かな
ワキ    「いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候」
シテ   「此方の事にて候か何事にて候ぞ」
ワキ    「不思議やな諸木こそ多き中に。これなる梅の木陰を立ち去らずして。
       陰を清め賞翫したもう事不審にこそ候へ。若此の梅は名木にて候か」
シテ   「御姿を見たてまつれば。都の人にて御座候が。此の難波の浦に於いて。
       色異なる梅花を御覧じて名木かとのお尋ねは。
       恐れながら御心なき様にこそ候へ」 
ツレ   「それ大方の春の花。木々の盛りは多けれども。
      花の中にも始めなれば。梅花を花の兄とも云えり
シテ   「その外梅の名所名所。国々所は多かれども。
       六義の始めの添歌にも。難波の梅こそ詠まれたれ」
ツレ    「御代も開けし栄花といひ
シテ   「あまねき花の嘉例といひ」
シテツレ 「とにもかくにも津の国の。こや都路の難波津に。名を得て咲くやこの花を。
      名木かなとのお尋ねは。事あたらしき御錠かな
ワキ   「げにげに難波の梅の事。名木やらんと尋ねしは。愚かなりける問い事かな。
      然れば歌にも難波津に。咲くやこの花冬籠り。
      今は春べと咲くやこの。花の春冬かけてよめる」
      歌の心はいかなるぞ
シテ   「それこそ君をそへ歌の。心詞は顕はれたれ。難波の御子は皇子ながら。
      未だ位につき給はねば。冬咲く梅の花の如し」
ワキ   「御即位ありて難波の君の・位に備はり給いし時は
シテ   「今こそ時の花の如し」
ワキ   「天下の春を知ろし召せば
シテ   「今は春べと咲くやこの
ワキ   「花も盛りは大さざきの
シテ   「帝を花にそえ歌の
ワキ   「風も治まり
シテワキ 「立つ波も
地     「難波津に咲くやこの花冬ごもり。咲くやこの花冬ごもり。
       今は春べに匂い来て。吹けども梅の風。枝を鳴らさぬ御代とかや。
       げにや津の国の。難波の事に至るまで。豊かなる代の例こそ。
       げに道広き治めなれげに道広き治めなれ
ワキ  ○「猶々難波に梅の謂れ懇ろに申し候へ」○
地 クリ     「そもそも難波津の歌は帝の御始め。又
浅香山の詞は。采女の土器。とりどりなり
シテ     「昔唐国の堯舜の御代にも越えつべし
地        「万機の政穏やかはして。慈悲の波四海に普く。治めざるに平かなり。
シテ    「君々たれば臣もまた
地     「水よく船を。浮むとかや
地クセ    「高き屋に。登りて見れば煙立つ。民のかまどは。賑わいけりと。
       叡慮に掛けまくも。かたじけなくぞ聞えける。しかれば此の君の。
       例を引く事も。げに有難き詔。国々に普く。三年の御調ゆるされし。
       その年月も極まれば。濱の真砂の数積りて。雪は豊年の御調物。
       ゆるす故にや中々。いやましに運ぶ御宝の。千秋万歳の。千箱の玉を奉る
シテ   「然れば普き御心の
地     「いつくしみ深うして。八洲の外まで波もなく。広き御恵み筑波山の陰よりも。
       茂き御影は大君の。国なれば土も木も。栄えさこうる津の国の。
       難波の梅の名にしおう。匂いも四方にあまねく一花開くれば天下皆。
       春なれや万代の。猶安全ぞめでたき
地 ロンギ  「げに万代の春の花。げに万代の春の花。栄え久しき難波津の昔語りぞ面白き
シテツレ 「げに名にしおう難波津に。鳥の一声折りしもに。鳴く鶯の春の曲春鶯囀を奏せん
地     「不思議や御身誰なれば。かく心ある花の曲舞楽を奏し給うべき
ツレ    「我は知らずや此の梅の。春年々の花の精
地     「今一人の老人は
シテ   「今ぞ顕はす難波津に。
地     「咲くやこの花と詠じつつ位をすすめ申せし百済国の王仁なれや。
       今もこの花に戯れ百囀りの声立て春の鶯の舞の曲夜もすがら。
       慰め申すべしや下臥して待ち給え花の下臥に待ち給え          (中入)
後シテ  「誰かいつし春の色は。東より来るといえども。
       南枝始めて開く。ここは所も西の海。向ふ難波の春の夜の。
       月雪も澄む浦の波に。よるの舞曲は面白や夢ばし覚まし給ふなよ
後ツレ  「これは難波津の浦に年を経て。開くる代々の恵みを受くる。
       この花咲くや姫の神なり
シテ   「我は又百済国よりころ国に渡り。国を治め君を守る。王仁といつし。相人なり
地    「むかし。仁徳の御宇には。御代の鏡の影を写し
シテ   「治まる御代の。栄花をなししも
地     「此花の匂い
シテ   「又は開くる言の葉の粧い
地    「難波の事か法ならぬ。遊び戯れ。いろいろの舞楽は。おもしろや
後ツレ  「梅が枝に。来いる鶯。春かけて
シテ   「鳴けども雪は。古き鼓の苔むして。打ち鳴らす
地    「打ち鳴らす。人もなければ君が代に。掛けし鼓も
シテ   「時守の眠り
地    「覚むるは難波の
シテ   「鐘も響き
地    「浦はうしほの
シテ   「波の声々
地    「入江の松風
シテ   「むら芦の葉音
地    「いづれを開くも悦びの。諫鼓苔むし難波の鳥も。驚かぬ御代なりありがたや
地 ロンギ 「あら面白の音楽や。時の調子にかたどりて。春鶯囀の楽をば
シテ   「春風と諸共に。花を散らしてどうと打つ
地    「秋風楽はいかにや
シテ   「秋の風諸共に。波を響かしどうど打つ
地    「万歳楽は
シテ   「よろづうつ
地    「青海波とは青海の
シテ   「波立てうつは。採桑老
地    「抜頭の曲は
シテ   「かへり打つ
地    「入日を招き返す手に。入日を招き返す手に。今の太鼓は波なれば。
       よりてはうちかへりてはうち。此の音楽に引かれつつ。聖人御代にまた出で。
      天下を守り治むる天下を守り治むる万歳楽ぞめでたき万歳楽ぞめでたき


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