平 清盛_1702 
                      2008/2/1更新

  目 次

 平 清盛
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  1.1
平氏の棟梁
  1.2
保元の乱、平治の乱
  1.3
全盛期
  1.4
平氏に対する不満
  1.5
反乱の狼煙
  1.6
最期
  2
死後と評価
  3
年表(官歴)
  4
墓所
  5
系譜

 
建礼門院
 
桓武平氏高棟流
 
平正度流
 
その他平氏
 
平家方の侍
 
悪七兵衛景清
 
平 維茂



平清盛 たいら きよもり (1118〜1181)
       出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

時代  平安時代末期
生誕  元永元年(1118年)
死没  治承5年閏2月4日(1181年3月20日)
改名  清盛、浄海
別名  平大相国、六波羅殿、福原殿、清盛入道
官位  従五位下左兵衛佐、従四位下中務大輔、安芸守、播磨守、大宰大弐、参議、検非違使別当、内大臣、従一位太政大臣
氏族  桓武平氏維衡流
父母  平忠盛、祇園女御の妹
兄弟  清盛、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度
妻    高階基章娘、平時信娘時子、常盤御前、厳島内侍
子    重盛、基盛、宗盛、知盛、重衡、徳子 盛子、寛子、知度、清房、廊御方

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将。公卿。 伊勢平氏棟梁忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で源義朝を討ち、武士では初めて太政大臣に任ぜられ、「平氏にあらずんば人にあらず」と
言われる時代を築き、不和となった後白河法皇を幽閉するも、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
平氏の棟梁
元永元年(1118年)、伊勢平氏の頭領である平忠盛の嫡子として伊勢産品で生まれる。生母は不明だが祇園女御の妹という説が有力である。母の死後、祇園女御の猶子になったという。大治4年(1129年)正月に12歳で従五位下左兵衛佐に叙任されたことについて、藤原宗忠は「人耳目を驚かすか、言ふに足らず」と驚愕している(『中右記』)。武士の任官は三等官の尉から始まるのが通常で、二等官の佐に任じられるのは極めて異例だったためである。
清盛は3月に石清水臨時祭の舞人に選ばれるが、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・源有仁の随身が勤めていることか、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと思われる。 若い頃は、鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成の邸に出入りしていたという。
藤原家成は、清盛の継母・池禅尼の従兄弟だった。高階基章の女との間に重盛・基盛が生まれるが、死別したと推測される。保延3年1137年)忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられる。久安3年(1147年)平時子との間に宗盛が生まれる。時子の父・時信は鳥羽法皇の判官代として、藤原顕頼・高階通憲(藤原信西)とともに院庁の実務を担当していた。
この年6月15日、清盛は祇園社に赴くが郎等の武具を咎めた神人と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した(祇園闘乱事件)。祇園社を末社とする延暦寺は忠盛・清盛の流罪を要求して強訴するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から
忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を贖銅三十斤という罰金刑にとどめた。その後、清盛に代わり異母弟の家盛が常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現す。しかし、久安5年(1149年)家盛は急死したため、清盛の嫡流としての地位は磐石となる。安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国への勢力を拡大した。またその頃より宮島の厳島神社を信仰するようになり、仁平3年(1153年)には、忠盛の死後に京都の伊勢平氏一門の頭領となる。
保元の乱、平治の乱
保元元年(1156年)の保元の乱では池禅尼が崇徳上皇の子・重仁の乳母だったことから、清盛の立場は難しいものであったが一門の結束につとめ、後白河天皇側について勝利をもたらし播磨守、大宰大弐となる。藤原信西(通憲)と藤原信頼・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、平治元年(1159年)の平治の乱で政権を握った藤原信頼・経宗・惟方などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。この過程で源義朝・源重成・源季実・源光保といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握した。これにより、清盛は武家政権樹立の礎を築くにいたったのである。

全盛期
 厳島神社 仁安3年(1168年)清盛の援助によって今日のような海上社殿が造られた。清盛は二条天皇の乳父、室の時子は乳母となり天皇の後見役をつとめて検非違使別当・中納言になる一方、後白河院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。応保元年(1161年)9月後白河と平滋子の間に皇子(憲仁)が生まれると、平教盛・時忠が立太子を画策した。二条はこの動きに激怒し、教盛・時忠・藤原成親・藤原信隆を解官して後白河院政を停止した。清盛は天皇の皇居に武士を宿直させて警護することで、二条支持の姿勢を明確にした。翌年3月には平治の乱で配流されていた二条親政派の藤原経宗が帰京を許され、6月には時忠・源資賢が二条を賀茂社で呪詛した罪で配流された。清盛は二条の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。さらに関白・藤原基実に娘・盛子を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。院政を停止させられた後白河への配慮も怠りなく、長寛2年(1164年)蓮華王院を後白河のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河の経済基盤も強化された。二条は後白河の動きに警戒心を抱き、長寛3年(1165年)重盛を参議に任じて平氏への依存を深めるが、7月28日死去した。
 後継者の六条天皇は幼少であり基実が摂政として政治を主導して、清盛は大納言に昇進して基実を補佐した。9月時忠が帰京を許され、12月25日憲仁が親王宣旨を受けると、清盛は勅別当になった。後白河院政派は次第に勢力を盛り返していたが、清盛は後白河の行動・性格に不安を覚え、院政復活を望まなかったという。永万2年(1166年)7月26日摂政・氏長者の基実が急死して後白河院政が復活すると、基実の子・基通が幼少であることから弟・基房が摂政となる。基房は後白河の近臣として信頼が厚く、基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば平氏にとって大打撃となる。清盛は藤原邦綱の助言により、殿下渡領・勧学院領・御堂流寺院領を除いた私的家領を後家の盛子に相続させることで、摂関家領の管轄に成功した。10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には内大臣となった。翌仁安2年(1167年)2月に太政大臣になるが、太政大臣は白河天皇の治世に藤原師実と摂関を争って敗れた信長が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から引退し、嫡子・重盛は仁安2年5月宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。
 仁安3年(1168年)清盛は病に倒れ、出家する。原因は「寸白(すびゃく)」(寄生虫の病)だったとされる。清盛の病状が政情不安をもたらすことを危惧した後白河は、当初の予定を早めて六条天皇から憲仁親王に譲位させることで(高倉天皇)、体制の安定を図った。病から回復した清盛は福原に別荘を造営して、かねてからの念願だった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。嘉応元年(1169年)後白河は出家して法皇となるが、清盛は後白河とともに東大寺で受戒して協調につとめた。これは、鳥羽法皇と藤原忠実が同日に受戒した例に倣ったものであった。この頃は、後白河が福原を訪れ宋人に面会、清盛の娘・徳子が高倉に入内、福原で後白河と清盛が千僧供養を行うなど両者の関係は友好的に推移していた。この間、平氏一門は隆盛を極め、一族で主要官位を独占し、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易を推進して莫大な財貨を手にし、平時忠をして「平氏にあらざれば人にあらず」といわしめた。

平氏に対する不満
ところが、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河をはじめとする院政勢力は不快を感じるようになり、建春門院の死を契機に次第に清盛と対立を深めていく。
 治承元年(1177年)6月には鹿ケ谷の陰謀事件が起こる。これは多田行綱の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。藤原師光(西光)は処刑とし、藤原成親は備前へ流罪(7月9日に食物を与えられず殺害される)俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処した。ただし清盛もさすがに後白河に対しては罪を問わなかった。
 治承3年(1179年)、この年は清盛にとって不幸の連続であった。まず6月に、娘の盛子が死去する。ところが盛子が死去すると、法皇は直ちに盛子の荘園を清盛と相談もせずに没収するにいたった。さらに7月には清盛の嫡男で、清盛が後継者として期待していた重盛が42歳で病死してしまった。これには清盛もさすがに落胆の色を隠せなかったが、後白河は重盛の死去と同時に、またも清盛に何の相談もなく重盛の知行国であった越前国を没収してしまった。さらに、法皇は20歳の基通(室は清盛女・寛子)をさしおいて、8歳の師家を権中納言に任じた。この人事によって摂関家嫡流の地位を松殿家が継承することが明白となった。近衛家を支援していた清盛にとっては、見逃せることではなかった。
 清盛はこの後白河の自分を無視する施策に遂に激怒し、11月14日、福原(現在の神戸)から軍勢を率いて自ら上洛し、翌15日にクーデターを決行した。いわゆる治承三年の政変であるが、清盛は関白・基房、権中納言・師家を手始めに、藤原師長など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官するにいたったのである。これに対して後白河は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後白河院政は完全に停止された。清盛は、後の処置を宗盛に委ね福原に引き上げた。このクーデターは発端が後白河の挑発であったため、院政停止後の政権構想がしっかりと準備されていなかった。高倉天皇・近衛基通・平宗盛の三人はいずれも政治的経験が未熟であり、結局は清盛が表に出てこざるを得なかった。清盛は、解官していた平頼盛・花山院兼雅の処分を解除するなど一門の結束につとめ、基通の補佐のため藤原氏の有力者である左大臣・経宗、右大臣・九条兼実の懐柔を図った。実際の政務に関しては、平時忠・藤原隆季・土御門通親などの能吏が清盛の代弁者となった。治承4年(1180年)2月、高倉天皇が譲位、言仁親王が践祚した(安徳天皇)。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である。名目上は高倉上皇の院政だったが、平氏の傀儡政権であることは誰の目にも明らかだった。さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことになる。

反乱の狼煙
平氏の専横に対して反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第2皇子以仁王の挙兵だった。以仁王は優秀であったが建春門院の圧力で親王宣下も受けられず、八条院の猶子となって即位の機会を伺っていたものの、今回のクーデターでその望みは絶望的なものとなっていた。以仁王には、八条院直属の武力ともいえる源頼政・下河辺行義・足利義清・源仲家などが付き従い、平氏に反発する興福寺・園城寺(三井寺)もこの動きに同調した。しかし計画は未然に発覚、清盛の手早い対策により検非違使の藤原景高・藤原忠綱が300あまりの兵で追撃して、以仁王と源頼政らを討ち取った。しかし寺社勢力、特に園城寺と同じ天台宗で親平氏の延暦寺でも反平氏勢力の動きがあり、清盛は有力寺社に囲まれ平氏にとって地勢的に不利な京都を放棄、治承4年(1180年)6月、平氏の拠点である国際貿易港の大輪田泊を望む福原(現在の兵庫県神戸市)への遷都を一門の反対を押し切り強行する。
 しかし以仁王の令旨が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流していた源頼朝が北条氏と手を結んで挙兵する。9月には信濃国において源義仲が挙兵する。これに対して清盛は頼朝の勢力拡大を防ぐため、嫡孫の平維盛を総大将とした大軍を関東に派遣したが、富士川の戦いで水鳥の羽音に驚いて撤退するという醜態を晒し、平氏軍の弱体化を露呈するに至ってしまった。
 この敗戦を契機として寺社勢力、特に以仁王の反乱に協力的であった園城寺・興福寺が不穏な動きを見せ始める。高倉や公家衆、さらに平氏一門や延暦寺からも都を戻す声が高まり、11月23日に清盛は京都に還都するにいたった。京都に戻った清盛を待っていたのは各地の反平氏勢力、特に近江源氏の蜂起だった。近江源氏は園城寺・延暦寺の反平氏分子を味方に引き入れて、還都以前にすでに戦端が開かれていた。12月になると清盛は、知盛を総大将とした軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏の山本義経・柏木義兼を打ち破って、近江の平定に成功する。次に清盛が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺だった。清盛は反乱鎮圧の前に背後の脅威を一掃することを決意して、重衡を総大将とした大軍を南都に派遣した。12月28日、興福寺・東大寺など南都の諸寺は炎上した。確かにこれにより都周辺の反平氏勢力の動きは鎮静化したが、南都焼き討ちは清盛に仏敵の汚名を着せるにいたってしまった。

最 期
翌治承5年(1181年)に入ると、平氏の勢力基盤である西国においても伊予の河野通清・河野通信父子、豊後の緒方惟能・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵するにいたった。さらに東国においても平氏方であった佐竹氏などが頼朝によって討伐されるなど、反乱がいよいよ深刻化してくる。
 このような中で、清盛は京都を中心に新体制を築こうと、畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じた。天平3年(731年)に京・畿内を対象に兵馬の権を与えられた新田部(にいたべ)親王の例に倣ったものであり、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。また丹波に諸荘園総下司職を設けて、平盛俊を任じた。さらに越後の城資永、鎮守府将軍・藤原秀衡に頼朝追討の宣旨を与えている。2月26日には重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に向かう事が決められていたが、清盛は27日に熱病に倒れた。死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、閏2月4日に九条河原口の平盛国の屋敷で死去した。享年64。
 病状の記録から、恐らくは大陸から伝来して流行していた風土病であるマラリアに罹ったものと思われる。当時の日本は現在よりも気候が温暖で熱帯性の伝染病であるマラリアが存在したと言われる。清盛の死により、平氏の新体制作りは計画倒れに終わってしまうのである。なお、『平家物語』では清盛が死に臨んで「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したとしている。これは平安時代末期の武士の感覚からはありえない遺言であり、後年の創作であるとも言われている。しかし『玉葉』によると、死去した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れると、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べてこれを拒否している事から、頼朝への激しい憎悪があった事は史実と思われる。
死後と評価
清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の基盛も早世していたため、平氏の棟梁の座は三男の宗盛が継いだが、凡庸な宗盛は清盛のような器量もなく、全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、後白河の奇謀に翻弄され院政勢力も勢力を盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていった。しかも折からの飢饉(養和の大飢饉)という悪条件なども重なって、寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅した後、源義仲の攻勢の前に成す術無く都落ちする。そして元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いに敗れて平氏は滅亡した。
 これを見てもわかるように、平氏の繁栄は清盛という一個人の非凡な才能と強烈な個性で支えられていた部分が強く、確固たる体制が築かれていなかった。清盛もそれを最晩年にようやく気づいて体制確立に努めていたが、その清盛自身が体制確立の最中に病死したため、計画倒れに終わったのである。そして清盛が反乱が相次ぐという悪い時期の中で死去したことも平氏滅亡の遠因となった。また、平氏には清盛以外に優れた人材がほとんどいなかったこともあり、清盛が死去した時点で平氏の繁栄も終焉したと言えるのである。しかし、日本初の武家政権を築き上げ、海千山千の朝廷や寺社勢力を相手に互角以上に渡りあい、さらには諸外国との貿易にも着目した清盛は、日本における大政治家の一人と言えるであろう。
 『平家物語』における悪虐、非道、非情の描写から、平清盛は古来成り上がり者の暴君、という評価が定着していたが、一方で実際の清盛の人物像は温厚で情け深いものだったともいわれている。例えば清盛の非道を示す有名なエピソードである「殿下乗合事件」であるが、清盛が松殿基房に報復したというのは平家物語のフィクションであって、実際には(『玉葉』や『百錬抄』の記述によると)非道な報復を行ったのは平重盛であり、清盛はむしろ松殿基房に謝罪的な行為を示したと言われる(その情け深さ故に平治の乱の際、頼朝や義経を助命し、結果的に平家滅亡の原因を作ったともいえる)。平治の乱前後の清盛について『愚管抄』に「ヨクヨク謹ミテ、イミジク計ラヒテ、彼方此方シケル」とあり、如才なく諸方に気を配る人物であった。しかし大きな権力を持つようになり、それを維持するために院や藤原氏と対立していく過程で強引な手段に出るようになり、評判も悪くなったのである。
 『源平盛衰記』では僧侶の祈祷によって雨を降らせた事を偶然に過ぎないと一蹴したり、経が島では清盛が人柱を廃止したという伝説があるなど、迷信に囚われない開明的な考え方の逸話が見られる。また、政治的には日宋貿易に見られるような財政基盤の開拓、経が島築造に見られるような公共事業の推進など、時代の矛盾に行き詰まりつつあった貴族政治に新生面を切り開いたとする肯定的評価もされている。


年表(官歴) 和暦 西暦 月日(旧暦) 内容 出典
元永元 1118年 生誕
大治4  1129年  1月6日 従五位下。   1月24日、左兵衛佐。 公卿補任
大治6  1131年  1月5日 従五位上 公卿補任
長承4  1135年  1月5日 正五位下。   8月21日、従四位下。 公卿補任
保延2  1136年  4月7日 中務大輔 公卿補任
保延3  1137年  1月30日 肥後守兼任 公卿補任
保延6  1140年  11月14日 従四位上 公卿補任
久安2  1146年  2月1日 正四位下。   2月2日、安芸守兼任。肥後守任替。 公卿補任
保元元 1156年  7月6〜11日 保元の乱 公卿補任  7月11日 播磨守 公卿補任
保元3  1158年  8月10日 大宰大弐 公卿補任
平治元 1159年  12月9〜26日 平治の乱
永暦元 1160年  6月20日 正三位。  8月11日、参議。大宰大弐如元。9月2日、右衛門督兼任。
           12月30日、大宰大弐辞任。 公卿補任
永暦2  1161年  1月23日 検非違使別当兼職。近江権守兼任。9月13日、権中納言。検非違使別当・右衛門督如元。 公卿補任
応保2 1162年  1月9日 検非違使別当・右衛門督両官職辞任。
           閏2月9日、検非違使別当・右衛門督兼職。   4月7日、皇太后宮権大夫兼任。
           8月20日、従二位。   9月、検非違使別当・右衛門督両官職辞任。 公卿補任
長寛3  1165年  1月23日 兵部卿兼任。   8月17日、権大納言。兵部卿・皇太后権大夫如元。 公卿補任
永万2  1166年  6月6日 正二位。  10月1日、春宮大夫兼任。兵部卿・皇太后宮権大夫両官止む。
           11月11日、内大臣。 公卿補任
仁安2  1167年  2月11日 従一位太政大臣。   5月17日、太政大臣辞任。 公卿補任
仁安3  1168年  2月11日 出家 公卿補任
承安元  1171年 娘徳子入内
治承元  1177年 鹿ケ谷の陰謀
治承3   1179年 後白河法皇幽閉
治承4  1180年  4月22日 安徳天皇即位  4月 以仁王が平家追討の令旨を発する 吾妻鏡
            8月17日 源頼朝挙兵 吾妻鏡   養和元 1181年 閏2月4日 薨去 玉葉

墓 所
能福寺 平相國廟以下が清盛の墓所として伝わっている。
神戸市兵庫区北逆瀬川の宝積山能福寺
神戸市兵庫区切戸町の清盛塚(供養搭)
京都市東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町の補陀洛山六波羅蜜寺の平清盛塚
京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町の嵯峨山大覚寺(旧嵯峨御所大覚寺門跡)の搭頭寺院である祇王寺の供養搭
山口県下関市彦島の清盛塚

系 譜
平清盛は、伊勢の産品の生まれとされる。葛原親王の子の高見王の子平高望(たいらのたかもち)の子孫で、坂東の桓武平氏の流れを汲む伊勢平氏の一族。

桓武天皇−葛原親王−高見王−平高望−平国香−平貞盛−平維衡−平正度−平正衡−平正盛−平忠盛−平清盛

平忠盛の長子。『公卿補任』の記事から逆算すると、元永元年(1118年)の誕生となる。『平家物語』では白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御が、忠盛に下賜されて清盛が生まれたとなっているが、『平家物語』の成立は鎌倉時代以降であり、祇園女御は当時40歳を越えていたと推測されることから信憑性は薄い。明治26年(1893年)になって、滋賀県・胡宮神社所蔵の文暦2年(1235年)の日付を持つ『仏舎利相承系図』が発見されたことで、祇園女御の妹が白河法皇の寵愛を受けて懐妊後に、忠盛に下賜されて生まれたのが清盛であり、母が亡くなったので姉の祇園女御が猶子として養育したという説が有力となった。ただし、これも後世の記事であり当時の記録から確かめることはできず、事実と断定はできない。
 『中右記』保安元年(1120年)7月12日条には「伯耆守忠盛妻俄に卒去すと云々。是仙院の辺なり」という記事があり、忠盛の妻が仙院(白河法皇)の周辺に仕えた女房だったことがわかる。名や出自が記されておらず身分は高くないと思われるものの、この女性が清盛の母の可能性がある。
 この当時、大臣になることができたのは、摂関家・その同族とみなされた村上源氏・新たに天皇の外戚となった閑院流に限定されていて、功績があったとはいえ清盛が大臣に昇進したことは極めて異例だった。常識では考えられない昇進を説明するために、父・忠盛が白河法皇に仕え母も院女房であったことから、白河法皇落胤説が生まれたと思われる。


系図凡例 太字は嫡流、=は婚姻、─は実子、--は養子

白河天皇 池禅尼====忠盛=======祇園女御?
  |     |    |      |
  |    ┌┴┐  ┌┴┬──┐  |
  |   家盛 頼盛 経盛 教盛 忠度 |
鳥羽天皇               |
  |    ┌─┬─┐     ┏━┷━┓
後白河天皇=滋子 時忠 時子====┃ 清盛 ┃====高階基章女
     |       |   ┗━┯┯┛   |
     |    ┌─┬┴┬──┐ |U   ┌┴┐
    高倉天皇=徳子 宗盛 知盛 重衡 |清貞  重盛 基盛
        |   | |  ┌─┴┬─┐ | |
      安徳天皇  清宗 知章 維俊 知度 清房 | 行盛
            ┌──┬─┬──┬─┬─┼──┐
            維盛 資盛 清経 有盛 師盛 忠房 宗実
            |
            六代


平忠盛:父
祇園女御:母?  池禅尼:継母
兄弟 平家盛  平経盛  平教盛  平頼盛  平忠度
高階基章娘:妻
       平重盛:長男   平基盛:次男
平時子(二位尼)平時信娘、時忠姉:妻
       平宗盛:三男  平知盛:四男  平重衡:五男
       平徳子(建礼門院):高倉天皇中宮  平盛子:三女、近衛基実室  平寛子:五女、近衛基通室
常盤御前:側室
       女子(廊御方)
生母不明の子女
       平維俊(六男)  平知度(七男)  平清房(八男)
       女子(藤原成憲室、後花山院兼雅室)   女子(藤原信親室、後冷泉隆房室)
       女子(坊門信隆室)
養子     平清貞(実父中原師元)   平清邦(実父藤原邦綱)


建礼門院(1155-1213)
建礼門院は平家の天下を一代で築いた太政大臣・平清盛と、桓武平氏の宗家(堂上平氏)の娘・平時子(二位の尼)の間の娘で、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母です。平清盛は平氏の中ではかなり傍系に属す人ですが、保元の乱・平治の乱で武功をたて、その後二条天皇と後白河上皇の対立をうまく利用して、次第に政治的権力の基盤を確立していきます。


平時信―――平時忠
    |
    +―平時子(二位の尼)
    |  ‖―――平徳子(建礼門院)
    | 平清盛   ‖
    |       ‖――安徳天皇(言仁)
    +―平滋子   ‖
       ‖―――高倉天皇(憲仁)
      後白河上皇(雅仁)


やがて、仁安2年(1167)清盛は太政大臣になり、翌年は甥に当たる憲仁親王が皇位につき(高倉天皇)、承安2年(1172)には、徳子が高倉天皇の中宮となって、清盛の天下は最高潮に達します。『平氏にあらずんば人にあらず』と言ったのは、時子の同母弟・平時忠です。しかしその後滋子(建春門院)がわずか35歳で病没(1176)した後、後白河上皇と清盛の関係は冷え切り、翌年には鹿ヶ谷の変が起きて俊寛らが鬼界ヶ島に流されることになります。
 鹿ヶ谷の変の翌年(1178)11月徳子と高倉天皇の間に言仁親王が生まれますと、1ヶ月後、清盛は親王を皇太子にし、翌年後白河上皇を幽閉するとともにその側近を追放、1180年2月には生まれてわずか15ヶ月の親王を皇位
につけて安徳天皇としました。
 しかしこの時には既に清盛の命の炎が燃え尽きようとしていました。清盛は翌年閏2月病没。それとともに平家自体の炎も燃え尽きていきます。
 安徳天皇が践祚した1180年の4月には以仁王(後白河天皇の皇子)が平家打倒の令旨を出し、8月には伊豆で源頼朝、9月には源義仲(木曾義仲)が木曾で挙兵、10月には源義経が頼朝に合流しました。
 源氏と平氏は北陸と東海で激突、その戦乱のさなかに清盛が没すると、戦いは一気に源氏側の優勢になっていきます。そして1183年7月28日木曾義仲が京都に入り、その直前の25日、平家一門は安徳天皇・二位の尼・建礼門院らとともに西海に落ち延びていきました。
 これに対して源氏は源義経を中心とする軍勢が1184年2月7日一ノ谷、1185年2月19日屋島、同3月24日壇ノ浦の合戦で次々と平氏を打破、平家一門は関門海峡に沈んでいきます。
 この3月24日昼過ぎ、実質的な平氏の大将・平知盛は女たちに敗戦を告げます。二位の尼は天皇家の三種の神器である草薙の剣を腰に帯び、八尺勾玉を脇にはさみ、孫である安徳天皇を抱いて船縁に進みました。数えの8歳の安徳天皇が「尼御前、私をどこに連れていくのか」と問いますと、二位の尼は「波の下にも都はございましょう」と告げ、そのまま海に飛び込みました。
 二位の尼に続いて建礼門院が飛び込み、続いて大納言佐局(平重衡の妻)が三種の神器の内のもうひとつ八咫鏡を持って海に飛び込みました。
 しかしそこに源氏の武士たちが船に飛び移って来ました。武士たちはまだ波間に漂って沈みきっていない二人の女を引き上げ、その一人の女が建礼門院であったことに息を呑みました。八咫鏡も無事回収されます。
 (一説によると建礼門院の衣服に飛んできた矢が刺さり、そのために沈みきれなかったとも。しかしそれは大納言佐局の方であったとも。また大納言佐局はまだ飛び込む前で、建礼門院が助けられたのを見て武士たちに門院の身分を明かして決して粗末に扱わないようにと厳しく言い、次いで飛び込もうとした所を抱え止められたとも)
 (八尺勾玉は波に漂っているのを回収されたが、草薙の剣は見つからなかった。もっとも草薙の剣の本体は元々熱田神宮にあり、この時沈んだものはその分霊として祭られていた剣である。八咫鏡も本体は伊勢神宮にある)
 (剣は武力を表すので、この時剣が失われたことから、天皇家は武力に対するコントロールを失い武家政権が誕生した、と指摘する神秘学者は多い。)
 壇ノ浦で救われた建礼門院は京都に護送され、髪をおろして出家します。時に29歳。そして女房の一人右京太夫の助言で大原の地に庵を結びました。彼女はここで亡くなるまで28年もの年月を静かに念仏三昧で過ごして、平家の人々の霊を弔います。出家の翌年、彼女を気遣った後白河上皇が庵を訪れました。その時建礼門院は涙が止まらなかったといいます。平家物語は、この建礼門院の侍女・横笛の悲恋も併せて伝えています。


桓武平氏高棟流(堂上平氏)と関連する人

平親範(たいらのちかのり,大原)
  [蔵人頭木工頭平範家長男。母、中納言藤原清隆娘]娘、平重衡妻
  保延3年(1137)誕生。保元元年(1156)7/2、崇徳の従者。蔵人。勘解由次官。従五位上。
  保元2年(1157)8/21右少弁。10/22正五位  下。
  保元3年(1158)2/3兼皇后宮大進(統子内親王)。2/21左少弁。8/5正五位上。8/10権右中弁。蔵人止職。11/26従四位下右中弁。
  保元4年(1159)2/13皇后宮大進止職。
  平治2年(1160)8/27従四位上。10/3左中弁。
  応保元年(1161)10/21正四位下。
  応保3年(1163)9/7父喪解。12/20復任。
  長寛2年(1164)1/21兼蔵人頭。
  長寛3年(1165)1/23参議(左中弁離職)。(1168)頃、従三位。民部卿。
  承安4年(1174)6/5、出家。承久2年(1220)9/28没

平清盛妻時子とその実家
京の君
  [父、平時忠]源義経の妻。文冶元年(1185)9/23、平時忠の能登国配流へ同道
建春門院帥局
  [父、平時信or平時忠]寿永4年(1185)3月、壇ノ浦で入水、没
近衛基通妻 
  [父、平信範]建春門院女房(小宰相)。建礼門院内侍。寿永3年(1184)道経出産
平清子(たいらのきよこ,宗子?)
  [父、平時信。猶父、平清盛(兵範記)]平宗盛の妻。平清宗の母。
  従三位(中納言三位と呼ばれる)。治承2年(1178)出家。
平滋子(たいらのしげこ,建春門院,少弁局,東の御方)
  [父、平時信。母、九条民部卿藤原顕頼娘祐子]兄、平時忠。姉、平時子。平清盛の義妹。
  康治元年(1142)誕生。上西門院(後白河と同御所)女房→後白河上皇の後宮に。
  永暦2年(1161)9/3、憲仁親王(高倉)を出産。
  永万2年(1166)従三位。仁安2年(1167)1/20、女御。
  仁安3年(1168)3/20、皇太后。
  嘉応元年(1169)4/12、建春門院の院号宣下。
  安元2年(1176)7/8、法住寺殿で崩御。蓮華王院の東、法華三昧堂下に土葬

平親長(たいらのちかなが)
  [父、平親宗]  正治元年(1199)右衛門権佐。
  安貞2年(1228)治部卿。正三位。天福元年(1233)5/24、出家。
平親国(たいらのちかくに,範国)
  [父、平親宗]永万元年(1165)誕生。蔵人頭皇后宮亮。
  建永元年(1206)平維盛娘と結婚。10月、従三位・散位。
承元2年(1208)1/7、薨去
平親宗(たいらのちかむね)
  [平時信次男(or父、左少弁藤原顕憲)。母、大膳大夫藤原家範娘]
  天養元年(1144)誕生。(1168)頃、伯耆守。
  嘉応2年(1170)1/26、讃岐守。五位蔵人兼勘解由次官離職。正五位下。
  承安2年(1172)2/23右少弁,蔵人。
  承安3年(1173)8/18、兼右衛門権佐。蔵人離職。
  承安5年(1175)12/8、権右中弁・従四位下。治承2年(1178)1/5従四位上。12/15春宮昇殿。
  治承3年(1179)10/9右中弁。10/21修理右宮城使。11/17解職。
  治承4年(1180)9/23左中弁。12/4右大弁兼蔵人頭。
  養和2年(1182)3/8正四位下。
  寿永2年(1183)1/22兼参議。11/28解官。従三位。
  文治3年(1187)5/4還任,左大弁。 
  文治4年(1188)1/23兼丹波権守。
  文治5年(1189)1/5正三位。7/10権中納言(左大弁離職)。
  正治元年(1199)1/5、正二位。6/22、中納言。7/27、没
平時家(たいらのときいえ,信時)
  [平時忠次男]仁安3年(1168)2/19、六位蔵人。美作守。建春門院少進侍従。伯耆守。
  安元2年(1176)1月も、右近衛権少将(兼伯耆守)。
  治承元年(1177)11月、従四位下。
  治承3年(1179)11月、継母藤原領子の讒言により解官。上総広常の娘と結婚。
  養和2年(1182)1/23、源頼朝と対面、鎌倉に仕官。
  元暦2年(1185)頃、信時と改名。
  建久4年(1193)5/10、鎌倉で没
平時兼(たいらのときかね)
  [父、平信国。養父、平時忠](1166)誕生。
  治承2年(1178)春宮権少進。 
  治承4年(1180)伊豆守・従五位下。
  建保4年(1216)兵部権少輔。蔵人。右中弁。
  貞永2年(1234)正月、従三位・非参議。
  暦仁2年(1239)右京大夫。
  建長元年(1249)5/17薨去 (1249)
平時子(たいらのときこ,ニ位尼,帥三位)
  [父、平時信。母、大膳大夫藤原家範娘]妹、平滋子・建春門院。弟、平時忠。平清盛の妻
  天治2年(1125)頃誕生。
  康治2年(1143)二条の乳母に。
  天養2年(1145)頃、平清盛正妻に。
  永暦元年(1160)12月、従三位(師三位)。
  仁安3年(1168)2/11、出家。
  承安元年(1171)従ニ位(ニ位尼,六波羅ニ位)。
  承安5年(1175)3/9、西八条邸に八条堂建立。
  治承4年(1180)准三后。
  寿永2年(1183)7/25、都落ち。
  寿永4年(1185)3月、壇ノ浦で安徳天皇を抱いて入水、没
平時実(たいらのときざね)
  [平時忠長男]妻、吉田経房娘
  仁平元年(1151)誕生。左近衛権少将兼讃岐守(讃岐少将)。
  治承4年(1180)12/6、中原親能捜索。正四位下。
  寿永2年(1183)4月、左近衛中将。
  寿永4年(1185)3月、壇ノ浦で捕虜に。
  文冶元年(1185)周防国配流決定。11月、源義経と逃亡。摂津大物浦で転覆、帰京。村上経業により捕縛、鎌倉へ。
  文治2年(1186)1月、京から上総国配流。
  文治5年(1189)閏4/15、召還。吉田経房娘と結婚。正四位下。
  建暦元年(1211)7月、従三位。建暦3年(1213)1/19薨去
平時忠(たいらのときただ)
  [平時信長男。母、大膳大夫藤原家範娘]姉妹、平時子と平滋子(建春門院)。平清盛の義弟。妻、洞院局
  大治2年(1127or30)誕生。従五位上。右衛門権佐。永暦元年(1160)10/3右少弁。永暦2年(1161)4/1正五位下。
  応保元年(1161)憲仁(高倉)東宮計画失敗,9/15解官→応保2年(1162)6/23、出雲国配流。
  永万元年(1165)9/14、召還。
  永万2年(1166)4/6還任,左少弁。6/6右中弁・左衛門権佐。6/8検非違使。6/19蔵人。
  仁安元年(1166)8/27従四位下(蔵人,左衛門権佐など離職)。7/12修理右宮城使。12/13従四位上。12/16兼蔵人頭。
  仁安2年(1167)1/5正四位下。1/30右大弁。2/11、参議兼右兵衛督(平関白と呼ばれる,右大弁離職)。(1169)、権中納言。
  嘉応元年(1169)12/28、出雲配流決定。
  嘉応2年(1170)1/20配流。2/6、召還。2/8、入洛。
  承安元年(1171)4/22、還任。承安2年(1172)2/10、兼中宮権大夫。右衛門督。
  安元3年(1177)1/24、左衛門督。
  治承2年(1178)7/26、中宮大夫。
  治承4年(1180)頃、検非違使別当。正二位。
  寿永2年(1183)1/22、権大納言。都落ち後、交渉の為解官されず。
  寿永4年(1185)3月、壇ノ浦で捕虜に。保身の為娘を源義経に嫁がせるが、4月、能登国配流決定。
  文冶元年(1185)9/23、配流能登国へ出発。10/1、着。
  文治5年(1189)2/24、没
平時信(たいらのときのぶ)
  [父、平知信]兵部権大輔。民部権大輔。贈左大臣  子、平時忠・時子・滋子
  嘉応元年(1169)12月、後白河法皇により出雲へ配流。間もなく召還。正三位兵部卿。贈左大臣
平知信(たいらのとものぶ)
  [父、平経方。母、藤原雅信娘]藤原忠実家司  従四位上。出羽守
平信国(たいらののぶくに)
  [父、平信範]承安4年(1174)12/1、木工権頭正五位下
平信季(たいらののぶすえ)
  [父、平信範。母、藤原能忠娘]蔵人少納言。関白基実の勾当。左近衛将監。治承3年(1179)6月、没
平信範(たいらののぶのり)
  [平知信次男。母、主殿頭惟信娘]平時信の弟。平時忠・時子・滋子の叔父。
  摂関家の家司、藤原忠実・忠通・基実に出仕。鳥羽・後白河院司。妻、近衛基実乳母。娘、近衛基通妻
  天永3年(1112)誕生。左京権大夫。備後権守。正五位下。
  永万元年(1165)8/17右少弁。永万2年(1166)1/12左京権大夫辞職。
  仁安2年(1167)1/30権右中弁。2/11兼蔵人頭(六条)。4/10従四位上。
  仁安3年(1168)1/6正四位下。2/19蔵人頭(高倉)。
  嘉応元年(1169)12/28、解官,備後配流決定。
  嘉応2年(1170)1/20配流。2/6、召還。2/8、入洛。
  承安3年(1173)1/22、兵部卿・従三位。
  承安4年(1174)8/19、福原の清盛の所へ。少納言。正三位。
  文治3年(1187)2月、薨去   日記『兵範記』
平信基(たいらののぶもと)
  [父、平信範。母、藤原能忠娘]
  嘉応2年(1170)4/21、権中納言左衛門佐。左馬権頭。修理権大夫。同母弟信季の息子親輔を養子に。
  寿永2年(1183)7月、内蔵頭・正四位下。
  寿永4年(1185)3月、壇ノ浦で負傷、捕虜に。備前(後?)国配流。
  文治5年(1189)閏4/15、召還。
能円(のうえん)
  [父、左少弁藤原顕憲。母、藤原家範娘]平時忠・平時子と同母。妻、藤原範子(後鳥羽の乳母)。娘、後鳥羽妻・土御門母の在子
  保延6年(1140)誕生。法勝寺執行。中納言法印と呼ばれる。
  治承3年(1179)4月、法勝寺執行。
  寿永4年(1185)3月、壇ノ浦で捕虜に。
  文冶元年(1185)備中国配流。
  文治5年(1189)閏4/15、召還。
  建久元年(1190)帰洛。
  建久10年(1199)8月、没
藤原領子(ふじわらのむねこ,洞院局,帥典侍)
  [藤原顕時妹or娘。(母、平忠盛娘?)]平時忠の後妻。平滋子女房(民部卿)。平徳子女房(洞院局)。安徳乳母(帥)。
  治承4年(1180)典侍(帥典侍と呼ばれる)


桓武平氏高望流

印東常茂(いんとうつねしげ,つねもち,次郎)
  [上総常澄次男]上総介。
  治承4年(1180)源頼朝挙兵時、京都大番役。10/20、富士川の合戦に押領使として平家方で参戦。
  鮫島で源氏軍を迎撃、弟上総広常により討死
印東常義(いんとうつねよし)
大庭景親(おおばかげちか,平,三郎)
  [父、大庭太郎景忠(大庭庄司景房,大庭権守景宗)]相模国高座郡鵠沼郡住人 兄、大庭景義。弟、俣野景久
  天承2年(1132)誕生。 
  保元元年(1156)保元の乱では源義朝旗下。額が白い黒馬「望月」を平清盛に献上。
  治承4年(1180)似仁王追討参戦。平清盛により源頼朝誅殺命令。8/2、頼朝追討に下向。
  石橋山合戦では、平家軍の大将で勝利するも、甲斐源氏により退路断たれる。 
  10月、下向中の平家軍に合流途中、捕虜に、上総広常に預けられる。10/26、片瀬川辺で兄景義により斬首
大庭景義(おおばかげよし)
  諸源氏・源氏方の頁を参照
大庭景宗(おおばかげむね)
  諸源氏・源氏方の頁を参照
長田忠致(おさだただむね,平,四郎,忠宗)
  [父、賀茂次郎致俊or行致4男]安楽寿院領尾張国野間郡(知多郡)内海荘長田庄司。壱岐守。
  平治の乱後かくまった源義朝と婿鎌田政清を、永暦元年(1160)1/3、暗殺→寿永4年(1185)源頼朝により梟首
城資国(じょうすけくに,助国,九郎)
  [父、城永基。養父、城永家]妻、清原武衡娘。『白河の御館』と呼ばれる
城資長(じょうすけなが,助長,資永,助永,資元,太郎)  [城資国嫡男]越後豪族(瀬波川流域奥山荘)。越後守。
  伯父宮禅師と乙宝寺の純金三重の塔を建立。
  養和元年(1181)1/16、頼朝追討の宣旨。2/25(or9月)、病死
城資盛(じょうすけもり,小太郎,助盛)
  [父、城資長]建仁元年(1201)1月、叔母板額と共に越後鳥坂城で挙兵。5月、落城後、逐電
城長茂(じょうながもち,永茂,永用,長用←助職,助元,資茂,四郎)
  [城資国4男]越後奥山荘豪族(阿賀野川流域白河荘)
  保延7年(1141)頃(or1152)誕生。
  養和元年(1181)6/14、横田河原の合戦で源義仲軍に敗戦、越後→会津へ敗走、4,50人で越後へ。
  助職から長茂と改名。8/15、従五位下・越後守。文治4年(1188)源頼朝に御家人にと懇願、梶原景時に預けられる。
  文治5年(1189)7月、奥州出兵参戦。
  正治2年(1200)1/20、梶原氏滅亡→御家人になれず。
  建仁元年(1201)1/23、小山朝政を攻撃。関東追討宣旨もらえず。2/22、潜伏先の吉野で討死。
曽我祐信(そがすけのぶ,太郎,助信)
  平良文流。相模国曽我庄。河津祐通の妻を後妻に。曽我祐成・時致の養父。
  治承4年(1180)10/18、源頼朝軍に投降。
平家弘(たいらのいえひろ)
  [父、平正弘]伊勢平氏
  康治元年(1142)6/18防鴨川判官。検非違使左衛門尉。久安7年(1151)1/7、従五位下。
  仁平2年(1152)崇徳院御所に押入った源満義を捕縛。(右衛門大夫)
  保元元年(1156)7月、保元の乱に崇徳上皇方で判官代。散位。敗戦。7/30、大江山辺で源義康により斬首(子の光弘・頼弘も)。
平維繁(たいらのこれしげ,惟繁,惟重)
  [父、隠岐守平繁賢]右衛門尉。
  仁平3年(1153)閏12月検非違使。
  保元元年(1156)7月、保元の乱で後白河天皇方に参戦。惟繁→維繁に改名。
  保元2年(1157)1/24、従五位下。
  仁安2年(1167)没
平繁幹(たいらのしげみき,重幹)  常陸の豪族
多気義幹(たけよしもと,太郎)
  [父、多気直幹。母、千葉常胤娘]常陸大掾家。
秩父重隆(ちちぶしげたか)
  [父、秩父重綱]養子、源義賢。娘、源義賢妻
俣野景久(またのかげひさ,五郎,景尚)
  [父、大庭景忠]大庭景義・大庭景親の弟
  治承4年(1180)8/25、甲斐源氏に攻撃される。10月、平家軍と合流の為上洛。
  寿永2年(1183)5月、倶利加羅峠の合戦敗戦で逃亡中に重傷で自害。

平正度流

安濃津貞清(あのつさだきよ,三郎)
  [父、平貞衡]正六位。安元元年(1175)12/8、(左兵衛)少志。
桑名清綱(くわなきよつな,鷲尾,藤原,富津次郎)
  [父、安濃津貞清]平家家人。伊勢守
桑名維綱(くわなこれつな,鷲尾,惟綱,三郎)
  [父、安濃津貞清or桑名清綱]平家家人(平家盛乳母夫?)。右衛門尉。
  後白河時代に西海海賊鎮圧。右衛門尉。(平家盛乳母夫なら久安5年(1149)出家)
庄田貞房(しょうださだふさ,三郎)
  祖父、平貞季
関信兼(せきののぶかね,関判官代平三郎兵衛,兼行)
  [父、和泉守平盛兼]伊勢平氏。伊勢国鈴鹿郡関谷。
  久安3年(1147)11/14、右兵衛権少尉。
  仁平2年(1152)1/17左衛門少尉。
  任平4年(1154)2/21(久寿2年(1155)2/1)、藤原頼長と乗合事件・狙撃。解官。
  保元元年(1156)5/19、還任。保元の乱に天皇方に参戦。
  保元2年(1157)1/24兼検非違使。
  仁安2年(1167)頃河内守。
  承安4年(1174)頃和泉守。
  治承3年(1179)1/19正五位下。
  治承4年(1180)1/28、出羽守。12/2、近江道追討の平知盛に従軍。正五位下。
  元暦元年(1184)7/19、近江合戦。8/10解官。9月、領地没収。
  元暦2年(1185)初頃病死?
瀬尾兼康(せのおかねやす,妹尾,太郎,兼保,保景,(西市佑平兼康))
  [父、平兼門]平貞季流。平清盛近臣。備中国南部都宇郡妹尾郷豪族。高梁川中流に湛井堰,加陽・窪屋・都宇に12郷開発。
  保安元年(1120)誕生。
  保元元年(1156)7月、保元の乱で平清盛旗下。大和国検非違使。
  治承4年(1180)12月、平家の使者で南都へ、大衆により郎等もとどりを切らる。
  寿永2年(1183)5,6月、篠原合戦で倉光成澄に生け捕られ、倉光成氏旗下に。
          閏10月、故郷備中で嫡男宗康と倉光成氏を殺害逃亡。反源氏挙兵し倉光成澄を討取るも、討死(60余才)
平家清(たいらのいえきよ)
  [父、左衛門少尉平宗清。母、桑名維綱娘]出家。
  元暦元年(1184)7/19、近江合戦で討死。
平家貞(たいらのいえさだ)
  [父、?(平家房,筑後守平範季,平進三郎季房)]平貞季流。筑後住人→北伊賀武士団長。鞆田荘代官。忠盛・清盛郎党
  応徳元年(1084)誕生。平正盛の六条院に鞆田荘寄進し、荘司。
  長承元年(1132)11/23、殿上闇討で平忠盛守護のため庭に待機。兵衛尉(左兵衛尉?)。
  長承3年(1134)海賊追討→閏12/12、左衛門尉(左兵衛尉?)。
  保延元年(1135)海賊追捕。
  任平4年(1154)1/23、検非違使。
  久寿2年(1155)1/6、従五位下。筑後守(平治の乱頃)。平清盛の太宰大弐の目代。(1158)頃には出家?
  永暦元年(1160)5月、肥前豪族日向通良追捕。
  仁安2年(1167)没(一ノ谷戦死説有り)
平家房(たいらのいえふさ,進三郎大夫,季房?)
  [父、平貞光]平家家人
平貞光(たいらのさだみつ)
  [父、平盛光。養父、平貞季]子、平家房。木工右馬允。平家郎等職
平貞能(たいらのさだよし,貞義,肥後入道,以典)
  [父、平家貞]平貞季流。清盛・重盛郎等
  永暦元年(1160)頃には従五位上筑後守。検非違使左衛門少尉。
  仁安2年(1167)8/18復任(以前辞職してた?)。
  仁安4年(1169)筑前守。肥前(肥後)守。
  治承4年(1180)源頼朝旗揚げの為、大番役で在京している宇都宮朝綱・畠山重能・小山田有重の身柄を預かる。
     彼等の助命帰国を(知盛に?)取計らう。
  治承5年(1181)4/14〜寿永2年(1183)6/18、鎮西鎮圧(源為朝息子追討)より帰京。
     7/25、平家都落ちに同道せず平重盛遺骨を高野山へ改葬(太宰府落ち
     後説:九州に留まり後逐電←筑後に父家貞の領があった)。 
  元暦2年(1185)6月頃、宇都宮朝綱を頼り東国に。出家し、塩谷郡山田で余生送る。
平業房(たいらのなりふさ)   北面の武士。妻、高階栄子(後、後白河妾)
  [父、平盛房]浄土寺建立。
  治承元年(1177)6月、鹿ヶ谷事件で、後白河法皇の乞いにより放免。
  治承3年(1179)11/20、治承のクーデターにより伊豆配流。
     途中で逃亡し、12月、清水寺付近で兵衛尉知綱に捕縛、平宗盛により拷問、没。
     子の教成は藤原実教の養子に。
平宗清(たいらのむねきよ,柘植,つげ,弥平左衛門,弥平兵衛)
  [父、右(左)衛門尉平季宗]平貞季流。平家貞の甥。妻、桑名維綱娘。平正盛・池禅尼・頼盛郎等。伊賀住人。
  平治元年(1159)12月、尾張守目代。
  永暦元年(1160)2月、平治の乱で逃亡した源頼朝を捕らえ、京に護送。源頼朝助命を池禅尼に懇願。
  仁安元年(1166)右衛門少尉正六位上。仁安3年(1168)左衛門権少尉。後白河院北面。
  寿永2年(1183)源頼朝挙兵時の恩返しを受諾せず、平家都落ちに同道
平盛兼(たいらのもりかね)
  [父、平兼季]関信兼の父。伊勢平氏。
  保元元年(1156)6月、乱の前鳥羽殿を守護。
平盛国(たいらのもりくに,主馬判官)
  [父、右衛門尉平盛遠or下総守季衡7男]伊勢国壱志郡須可郷。平清盛郎等
  永久元年(1113)誕生。木工允。兵衛尉。
  保元2年(1157)10月、右衛門尉。左衛門尉。
  永万元年(1165)1月、兼検非違使。
  仁安元年(1166)10月、兼東宮主馬署首(主馬判官)。伊勢守。
  承安2年(1172)出家?。
  承安3年(1173)10/19、左衛門尉に還任。
  治承5年(1181)閏2/4、九条河原口の邸で、平清盛没。
  寿永2年(1183)7/25、平家都落ちに同道せず。
  寿永3年(1184)一ノ谷の合戦で子の平盛俊討死の悲報後、3月、源義経軍の捕虜に。
  元暦2年(1185)5月、平宗盛と共に鎌倉へ護送、岡崎義実に預けられる。
  文治2年(1186)7/25、断食・法華経読経し没
平盛嗣(たいらのもりつぐ,盛継,次郎,越中二郎兵衛)
  [父、平盛俊or平盛国]知盛・維盛郎等
  治承5年(1181)3月、墨俣川の合戦で知盛旗下。
  寿永2年(1183)北陸追討従軍。
  寿永4年(1185)2月、屋島の合戦敗戦後、但馬国の気比道弘の所に隠れるが、密告され鎌倉へ送還。
  建久3年(1192)由比が浜で斬首。
平盛綱(たいらのもりつな,高橋)
  [父、平盛国]
  承安4年(1174)1月、左兵衛尉。
  安元元年(1175)12/8、内舎人正六位上。
  治承2年(1178)東宮主馬首。
  治承4年(1180)左衛門尉。讃岐守。
  治承5年(1181)3/10、墨俣川の戦いで源義円を討取る
平盛俊(たいらのもりとし,盛康,次郎兵衛)
  [父、平盛国]重盛郎等。平家侍大将
  平治元年(1159)平治の乱で平重盛旗下。(1173)頃、右衛門志。出羽介。(1169〜1177)頃、越中守。厳島内侍を妻に。
  治承5年(1181)2月、丹波国諸荘園総下司。
  寿永2年(1183)島津荘(平盛子領だった)の荘留守。寿永2年(1183)7/25、都落ち。
  寿永3年(1184)2/7、一ノ谷の合戦で猪俣則綱により討死
平盛久(たいらのもりひさ)
  [父、平盛国]
  仁安2年(1167)紀伊国牟婁郡戸張を高野山に寄進。
  承安4年(1174)1月、右兵衛尉。左衛門尉。壇ノ浦後京に潜伏。
  文治2年(1186)捕縛、鎌倉へ。6/28、処刑できず免罪。帰京。
平田家継(ひらたいえつぐ,家次,太郎)
  [父、平家貞]平貞季流。弟、平貞能 出家。
  治承4年(1180)12/1、多田高頼を討取る。
  元暦元年(1184)7/19、近江合戦。討死。7/21、梟首
山木兼隆(やまきかねたか,平,山木判官,和泉判官,兼高)
  [父、出羽守関信兼] 右衛門尉。
  安元3年(1177)5月頃まで検非違使。父関信兼に勘当され伊豆国配流。
  安元3年(1177)頃、北条政子に婚礼当日に逃げられる。源頼政死後、堤信遠の後見で平時忠知行・伊豆守平時兼の目代に。
  治承4年(1180)8/17、源頼朝挙兵で討死。
鷲尾家衡(わしおいえひら,太郎)
  [父、安濃津貞清]平家家人。

その他平氏

伊賀家長(いがいえなが,平,伊賀平内左衛門)
  [父、紀伊次郎兵衛橘為範?]平知盛の乳兄弟。左衛門。一ノ谷と壇ノ浦戦死説あり。
平貞正(たいらのさだまさ,貞政,河田入道蓮智)
伊勢前司
平知康(たいらのともやす,鼓判官,壱岐判官)
  [父、壱岐守平知親]後白河法皇の近臣。北面の武士。 
  生没年不祥。(1173)頃、丹波守・主税頭。五位。検非違使。左衛門尉。
  寿永2年(1183)11/17、源義仲追討で法住寺に兵を集めるが敗戦。後白河法皇の鎌倉への勅使。
  建仁3年(1203)帰洛。(1227)以降没。  鼓の名手
平永衡(たいらのながひら,伊具十郎)  伊具郡司。陸奥守藤原登任郎等、共に陸奥に下向。妻、安倍頼時娘。
  天喜4年(1056)頃、源頼義により斬殺
平直澄(たいらのなおすみ,真澄?)
  肥前国藤津荘の荘司
  元永2年(1119)、鎮西で反乱。12月、正盛の郎等により、鎮圧・斬首。
平永衡(たいらのながひら,伊具十郎)  妻、安倍頼時の娘
平光康(たいらのみつやす)
  保元元年(1156)7月、保元の乱で後白河天皇方に参戦
平盛澄(たいらのもりずみ,摂津判官)
  [父、平盛信?]平家家人。左衛門尉。
  仁安3年(1168)12月、検非違使。
  寿永2年(1183)7/25、平家都落ちに同道。寿永4年(1185)3月、壇ノ浦で捕虜。
  元暦2年(1185)5月、平宗盛と共に鎌倉へ護送。
平師季(たいらのもろすえ)
  [父、平師妙]出羽豪族
平師妙(たいらのもろたえ)  出羽豪族
平康頼(たいらのやすより,性照,聖照)
  [父、信濃権守平(中原)頼季]後白河院北面の武士。
  仁安3年(1168)左衛門尉。
  承安4年(1174)検非違使。
  治承元年(1177)6月、鹿ヶ谷事件で鬼界ヶ島配流。途中摂津狗林(or周防国室戸)で出家。
  治承2年(1178)7/3、大赦召還。
  治承3年(1179)3月、帰京後、双林寺(鳥羽上皇の皇女も入寺)に隠棲。
  文治2年(1186)尾張野間荘源義朝墓に水田30町・小堂寄進→後、阿波国麻殖保保司に猿楽好き。
     今様『梁塵秘抄口伝集』。『宝物集』。
平頼資(たいらのよりすけ)  山城前司

平家方の侍

足利景経(あしかがかげつな)
  [足利忠清?の3男]平宗盛乳母子
足利忠綱(あしかがただつな,藤姓足利,藤原,又太郎)
  [足利俊綱嫡男]藤原北家秀郷流。下野国豪族。上総大夫判官。平宗盛郎等
  長寛2年(1164)誕生。治承4年(1180)5/25、似仁王・源頼政との宇治の合戦に「馬筏」案で平家軍に勝利もたらす。
     源頼朝挙兵後、領地下野国足利郡で反源氏挙兵。
  寿永2年(1183)閏2月、野木宮の合戦に敗戦。京の平家軍へ。4月、源義仲追討軍。
足利俊綱(あしかがとしつな,藤姓足利,太郎)
  [父、足利家綱]藤原北家秀郷流。下野国豪族。
  秩父氏とは不仲女性凶害で足利荘没収されそうなとこを重盛の口添えで安堵→平家家人に。
  治承4年(1180)9/30、武蔵国府焼討。
  養和元年(1181)9/13、郎等桐生六郎により殺害。
阿波重能(あわしげよし,粟田,田口,成良,重良,成能,民部大夫)  紀氏流。阿波豪族、水軍
  永暦元年(1160)大輪田泊修築。
  承安3年(1173)摂津国大輪田泊兵庫島築造。従五位下民部丞。阿波守。
  寿永2年(1183)7月、平家都落ち後阿波へ帰り讃岐を制圧。
  寿永4年(1185)2/18、兄弟桜庭良遠が源義経軍に敗戦し逐電。2/19、
             屋島の合戦で嫡男阿波教能が源氏捕虜に→3/24、壇ノ浦の合戦で、源氏方に寝返る。
  元暦2年(1185)5月、平宗盛と共に鎌倉へ護送。
阿波教能(あわのりよし,田内,教良)
  [父、阿波重能]紀氏流 内舎人。左衛門尉。
  元暦2年(1185)2月、源氏方伊予豪族・河野通信追討に志度寺へ。2/21、源氏軍に投降。
伊東祐清(いとうすけきよ,九郎)
[伊東祐親次男]藤原南家庶流。比企尼の婿。
  安元元年(1175)9月頃、妹と源頼朝の間に子が出来た事を知り怒った父伊東祐親から源頼朝を走湯山へ逃す。
  安元2年(1176)10月の河津祐通没後に生まれた3男を養育。
  寿永2年(1183)6/1、篠原の合戦で討死。
   (養和2年(1182)2/15、父祐親の自害で平家軍へ。源頼朝により誅殺)
伊東祐親(いとうすけちか,祐近,伊藤,河津,二郎)
  [祖父・養父、家次・寂心。父、伊東祐家]藤原南家庶流。伊豆国伊東庄(領主平重盛)・狩野庄
  実叔父伊東祐次没後、子の工藤祐経扶育とし領地横領。
  安元元年(1175)9月頃、京都大番役中にできた3女と源頼朝の子千鶴を殺害。
  安元2年(1176)10月、嫡男河津祐通を工藤祐経に暗殺される→建久4年(1193)曽我兄弟仇討。
  治承4年(1180)10月、天野遠景により捕虜。三浦義澄(娘婿)に預けられる。
  寿永元年(1182)6月(養和2年(1182)2/14)、恩赦(前)後、自害
海重実(うみのしげざね,六大夫)
  肥前国神崎郡神崎荘住人。平家滅亡後でも平家支持、鎌倉支配に抵抗
河津祐通(かわづすけみち,三郎,祐泰)
  [伊東祐親嫡男]藤原南家庶流。
  安元2年(1176)10月、工藤祐経により暗殺→建久4年(1193)曽我兄弟仇討
宇佐大宮司公通(きみみち)  宇佐大宮司。豊後宇佐住人
笠原頼直(かさはらよりなお,平五)  南信濃伊奈谷(諏訪)の豪族。
  治承4年(1180)5月、似仁王・源頼政追討軍に参戦。9月、市原の合戦で源義仲軍に敗戦。
  治承5年(1181)6月、横田河原の合戦に敗戦、出羽に逃亡
菊池隆直(きくちたかなお,高直,次郎,九郎)
  [父、菊池経直]藤原北家真楯・道隆流。肥後国菊池郡
  治承5年(1181)1月頃反乱。肥後権守。
  寿永2年(1183)6/18、平貞能により逮捕、京に護送。8〜10月、太宰府到着の平家を守護。
  寿永4年(1185)3/24、壇ノ浦の合戦に敗戦
菊池隆定(きくちたかさだ)
  [父、菊池隆直]藤原北家庶流。肥後豪族
草刈部定直(くさかべさだなお)  河内住人。保元・平治の乱に参戦  佐伯景弘(さえきかげひろ,平) 厳島神社神主。
  応保2年(1162)には掃部允。
  仁安2年(1167)1月、正六位下民部大夫。閏7月、従五位下。
  仁安3年(1168)厳島社殿完成。従五位上。
  養和2年(1182or83)3月、安芸守。
  寿永2年(1183)平姓に改名。
  文治3年(1187)6/3、行方不明の神器宝剣探査令。
斉藤実盛(さいとうさねもり,長井斉藤別当,真守)
  [父、斉藤実直]藤原北家魚名流(在原氏説有り)。弟、三郎実員。娘、豊島康家妻
  天永2年(1111or1126)誕生。元越前国住人。保元・平治の乱で源義朝旗下。
  久寿2年(1155)源義平に敗戦した源義賢の子駒王丸(義仲)を逃す。
  平治元年(1159)平治の乱で源義朝軍敗戦後、平重盛・宗盛郎等に。武蔵国長井庄住人。
  寿永2年(1183)6月、篠原の合戦で手塚光盛により討死。
斉藤盛房(さいとうもりふさ,斉藤五)
  [父、斉藤実盛]永万元年(1165)誕生。平維盛・六代郎等。
斉藤六(さいとう)
  [父、斉藤実盛]仁安2年(1167)誕生。平維盛・六代郎等。
桜庭良遠(さくらばよしとお,桜間,桜庭介)
  [おじで養父、田口良連]紀氏流。兄弟、阿波重能
  寿永4年(1185)2/18、勝浦郡託羅郷を源義経軍に攻撃され敗戦、逐電
坂井種遠(さかいたねとお)  曽根豪族
佐竹隆義(さたけたかよし,四郎)
  [父、佐竹昌義]清和源氏義光流。常陸国住人。
  治承4年(1180)8月源頼朝挙兵〜11月金砂城合戦時、官位受領上洛中。
  治承5年(1181)平宗盛より従五位下・常陸介、源頼朝追討院宣
佐竹秀義(さたけひでよし,佐竹冠者)
  [父、佐竹隆義]清和源氏義光流。常陸国住人
  仁平2年(1152or53)誕生。
  治承4年(1180)8月、源頼朝挙兵時に父佐竹隆義が官位受領上洛中で参戦せず。 
     11/5、金砂城合戦敗戦→奥州へ逃亡。後、許され太田に帰国。奥州征伐に源頼朝軍宇都宮氏旗下で参軍。
  嘉禄元年(1225)没
佐竹昌義(さたけまさよし)
  [父、源義業。母は大掾氏吉田清幹娘]清和源氏義光流。妻、藤原清衡娘。常陸国住人
佐竹義季(さたけよしき,革島)
  [父、佐竹昌義]清和源氏義光流。八条院蔵人。
  治承4年(1180)11/5、金砂城合戦で源頼朝軍を金砂城搦手諸沢口に案内。恩賞得られず。
  文治3年(1187)3月、駿河国岡辺泰綱の所に幽閉。源頼朝没後上京し、近衛基通の山城国葛野郡河島荘南半の下司職に。
佐竹義政(さたけよしまさ,太郎)
  [父、佐竹隆義]佐竹秀義の兄。清和源氏義光流。常陸国住人。
  治承4年(1180)11/5、金砂城合戦で上総広常により誅殺
佐竹義宗(さたけよしむね,昌成)
  [父、佐竹昌義]清和源氏義光流。常陸住人。八条院判官
瀬尾兼康(せのおかねやす,太郎)  備中国南部都宇郡妹尾郷
千田親正(ちだちかまさ,藤原親政,親雅,智田)
  [父、藤原親隆(親方?)]上総or下総豪族。祖父、藤原親通。妻、平清盛姉。妹、二条院内侍(少輔掌侍(内侍))・平資盛の母。
  下総守。阿波守。(1172)頃、木工頭・皇嘉門院判官代。佐竹氏と組み、千葉氏と対立関係に。
  治承4年(1180)9/14、源頼朝に参戦途中の千葉成胤により捕縛。
滝口入道(たきぐちにゅうどう,斉藤時頼)
  [父、斉藤茂頼(以頼)]藤原北家庶流。藤原領子乳母子。重盛郎等。
  治承4年(1180)頃、滝口。建礼門院雑色横笛に恋し、19才で出家。
  寿永3年(1184)屋島から逃げ出してきた平維盛を高野東禅院智覚上人のもとで出家させる。
武田有義(たけだありよし)
[武田信義の長男]兵衛尉。平宗盛郎等
  元久2年(1205)1月、弟武田信光に梶原景時の陰謀加担したとして訴えられる。
橘公長(たちばなきんなが)  平知盛郎党。右馬允
橘遠茂(たちばなとおしげ,とおもち)  駿河目代
堤信遠(つつみのぶとお,しんえん)
  [父、大江信忠]院下北面。(1171)以前に下野守。伊豆国在庁権守
藤成家(とうのなりいえ) 大夫。平忠盛郎等。祗園女御に毎日鷹狩で食用の鳥を捕る
富田家資(とみたいえすけ,家助) 進士。
  元暦元年(1184)7/19、近江合戦で討死
長狭常伴(ながさつねとも) 安房国長狭郡。外甥、上総一族の伊北常仲。
  治承4年(1180)8or9月、東上総進軍途中の源頼朝軍を襲う→上総氏追討の一因に。
中原清業(なかはらきよなり)  平頼盛の後見の侍。後白河に出仕。
  建久(1190年代)頃、太宰少弐。
中原貞兼(なかはらさだかね)  平家の家司
中原知親(なかはらともちか,史大夫)  山木兼隆の親戚 伊豆国蒲屋御厨住人。山木兼隆以前、長い間、伊豆国目代をしていた。
  治承4年(1180)8/19、源頼朝により解官。
難波経遠(なんばつねとお,次郎,田使,たずかい)
  [父、備前国目代難波四郎大夫経信]弟、難波経房。吉備津彦神社神職の家系。備前国住人。保元・平治の乱に平家軍旗下。
  平治2年(1160)1月、近江逢坂関付近で源義平捕縛
難波経房(なんばつねふさ,三郎,田使,たずかい)
  [父、備前国目代難波四郎大夫経信]兄、難波経遠。吉備津彦神社神職の家系。備前国南部御野・津高郡。
     保元・平治の乱に平家軍旗下。
  平治2年(1160)1月、近江逢坂関付近で源義平捕縛。六条河原で源義平を斬首。
     清盛福原隠遁時(or永万2年(1166)3月,仁安3年(1168)7/7)雷により没
新田義重(にったよししげ,太郎)
  [源義国長男。母、上野介藤原敦基娘or足利荘在地領主足利基綱娘]清和源氏。上野国新田荘。妻、下野兼守源親広娘(義兼の母)
  保延元年(1135)誕生。
  保元2年(1157)平清盛娘婿藤原兼雅の父忠雅を領家として上野国新田荘寄進、新田荘下司に。
     源頼朝の求婚を断り、娘を源義平に嫁がせる。従五位下。大炊助。仁安年間(1166〜9)頃平重盛に出仕。
  嘉応2年(1170)頃、新田荘は新田郡全域に拡大。出家。
  治承4年(1180)平宗盛に仕え、源頼朝挙兵後、追討の為新田荘に戻る→寺尾館で自立挙兵成らず源頼朝旗下に
     (子山名義範・徳川義季、次男孫里見義成は先に旗下)。
  建仁2年(1202)1/14、没
波多野有経(はたのありつね)  弓の名手
波多野義経(はたのつねよし)
原田種直(はらだたねなお,大蔵,四郎)
  [父、大蔵種平]大夫。妻、平頼盛の娘。岩門少卿と呼ばれる。
  治承5年(1181)4月頃、太宰府少弐。筑前守。
藤原景家(ふじわらのかげいえ,伊東六)
  [父、藤原景綱]藤原南家伊藤氏。飛騨守
藤原景清(ふじわらのかげきよ,梶原,平,伊藤,上総悪七兵衛)
  [藤原忠清7男]藤原南家伊藤氏。平維盛・平知盛の郎等。侍大将。娘、人丸姫。愛人、阿古屋(あこや)
  治承4年(1180)安徳の滝口。
  寿永2年(1183)7/25、都落ち。
  寿永4年(1185)3月、壇ノ浦敗戦後逃亡。
  文治5年(1189or94)叔父大日坊能忍殺害。
  建久7年(1196)6月、平知忠挙兵に参戦後逃亡。
   〔建久6年(1195)3月頃、源頼朝に降人。和田義盛・八田知家に預けられ断食し没。諸説あり〕
藤原景高(ふじわらのかげたか,太郎,飛騨大夫判官)
  [父、飛騨守藤原景家]藤原南家伊藤氏。平宗盛と乳兄弟。弟、藤原景経
  承安5年(1175)12/8、内舎人正六位上。五位。検非違使。平維盛郎等
藤原景綱(ふじわらのかげつな,故市伊藤,古市伊藤,ふるいちいとう,伊藤五,伊藤武者)
  [父、左衛門尉藤原基信(その息子季綱?)]祖父基景。藤原南家伊藤氏。伊勢国度会郡住人。
平正盛家人。院の武者所。飛騨守。伊勢守従五位下。
藤原景経(ふじわらのかげつね,飛騨三郎)
  [飛騨守藤原景家3男]藤原南家伊藤氏。平宗盛と乳兄弟。兄、藤原景高 左衛門尉。
  寿永3年(1184)3月、壇ノ浦で捕縛(壇ノ浦で伊勢義盛により討死説有り)
藤原忠清(ふじわらのただきよ,伊藤五,平,忠景)
  [父、藤原景綱]藤原南家伊藤氏。平家侍大将。 忠景から忠清に改名。正六位上。
  治承2年(1178)1月、豊前権介。
  治承3年(1179)11月、従五位下上総介。板東八か国侍奉行。
  寿永2年(1183)7/25、平家都落ちに同道せず、京に留まる。
  元暦元年(1184)7/19、近江合戦。後、
  元暦2年(1185)5/10、志摩国麻生浦で捕らえられ都へ。5/16、六条河原で梟首。
藤原忠綱(ふじわらのただつな,上総太郎判官,上総大夫判官)
  [藤原忠清嫡男]藤原南家伊藤氏。兵衛尉。
  治承4年(1180)従五位下。
  寿永2年(1183)5月、倶利加羅峠の合戦で討死。
藤原忠直(ふじわらのただなお,伊藤六)  藤原南家伊藤氏。兄、藤原忠清。
  保元元年(1156)保元の乱で討死
藤原忠光(ふじわらのただみつ,上総五郎兵衛)
  [藤原忠清5男]藤原南家伊藤氏。
  治承4年(1180)左兵衛尉。
  寿永4年(1185)3月、壇ノ浦敗戦後逃亡。紀伊辺潜伏
藤原能盛(ふじわらのよしもり,義盛,能守)
  [父、藤原盛景]平家の実務家司。
  永暦元年(1160)頃、福原別荘の為、福原・八部郡の土地調査。→北面の武士(後白河上皇と関係深める)。
  安元1年(1175)頃、出雲守。検非違使。安芸守。
  治承3年(1179)11月、平清盛のクーデターで解官
源季貞(みなもとのすえさだ)
  [父、源季遠]清和源氏満政流。平宗盛近習。後白河北面。検非違使。右衛門尉。
  寿永2年(1183)7/25、平家都落ちに同道。
  寿永4年(1185)3月、壇ノ浦で捕虜。
  元暦2年(1185)5月、平宗盛と鎌倉入り
源季遠(みなもとのすえとお)
  [養父、大和守源重時]二条皇太子時代の帯刀。後白河北面。右兵衛尉。安芸守。
源為長(みなもとのためなが) 紀伊守。平家の実務家司。子、太郎為憲
源長清(みなもとのながきよ) 甲斐源氏。兄弟、源光朝。平知盛家人。
源則清(みなもとののりきよ) 平家家人。
  治承3年(1179)11/18、美濃守。
  寿永4年(1185)3/24、壇ノ浦の合戦で、捕虜に。
  元暦2年(1185)5月、平宗盛と共に鎌倉へ護送。
源披(みなもとのひらく)
  [父、源直]嵯峨源氏。10代松浦党。肥前松浦郡。 平家方に水軍を率いて参戦。
源光朝(みなもとのみつとも) 甲斐源氏。兄弟、源長清。平知盛家人
武蔵有国(むさしありくに,三郎,左衛門) 壇ノ浦で戦死と生存説有り
山内首藤経俊(やまうちすどうつねとし,滝口三郎,刑部大夫)
  [父、山内首藤俊通。母、源頼朝乳母摩々]藤原北家魚名・秀郷流。源頼朝乳母子。相模国山内荘住人。刑部丞
  保延3年(1137)誕生。滝口の武士。代々源氏に仕えていたが
  治承4年(1180)8/23、石橋山合戦では平家方大庭景親旗下。10月、源頼朝軍により斬罪を母の懇願で免。
      山内荘没領。伊勢・伊賀守護。元久元年(1204)三日平氏の乱後、解官。
  嘉禄元年(1225)没
山鹿秀遠(やまがひでとお,兵頭次,兵藤次,藤次)
  [父、菊池経遠]藤原北家菊池流。筑前国遠賀郡山鹿荘豪族
  治承5年(1181)菊池氏と反乱。
  寿永2年(1183)6/18、平貞能により逮捕、京に護送。8〜10月、太宰府到着の平家を守護。
  寿永4年(1185)3/24、壇ノ浦の合戦で第一陣として活躍するも敗戦
山田伊行(やまだこれゆき,小三郎,惟行,是行)
  祖父、山田行末(行季)(祖父、山田庄司行秀。山田小太郎維重嫡男)。伊賀国山田の住人。保元の乱で源為朝に射落とされる
山田行末(やまだゆきすえ) 平正盛家人。伊賀国山田庄司。
  嘉承3年(1108)1/26、平正盛の源義親追討帰京の先触れ
湯浅宗重(ゆあさむねしげ)
  藤原氏北家秀郷流or紀氏。紀伊国有田郡湯浅荘の豪族。権守。子上覚坊行慈・孫明恵上人は文覚弟子
  平治元年(1159)12月、平治の乱で熊野詣から引返す平家軍に旗下。
  寿永4年(1185)屋島の合戦後、平忠房を匿うが密告。鎌倉幕府で保田・石垣荘の地頭職に
湯浅宗光(ゆあさむねみつ,次郎兵衛)
  [父、湯浅宗重]紀伊国有田郡湯浅荘の豪族。兄上覚坊行慈・甥明恵上人は文覚弟子
  寿永3年(1184)3月中旬、屋島から逃れてきた平維盛を分かっていて見過ごす。
与三兵衛重景(よそうひょうえしげかげ)
  保元2年(1157or58)誕生。平維盛の乳母子。重盛から大事にされ重の字をもらう。
  寿永3年(1184)3/15、平維盛と屋島を抜け出す。熊野詣後、3/28、那智沖で小舟から平維盛と共に入水自殺
景康(かげやす,景泰,景安) 子、与三兵衛重景。
  保延3年(1137)誕生。
  平治元年(1159)12月、平治の乱で平重盛の身代りで討死。



紅葉狩
平 維茂(これもち)余五将軍
「尊卑分脈」では 鎮守府将軍(或非将軍云々)・信濃守・従五位上
「桓武平氏系図」によれば将軍出羽介(出羽城介)
「今昔物語」では平貞盛の弟陸奥守繁盛の孫で上総介兼忠の子、または繁盛の子とするものもある。
叔父平貞盛の養子となり、貞盛の数多い養子の中で15番目にあたることから余五(よご)、長じて信濃守、
出羽介(秋田城介)、を歴任し鎮守府将軍となったことから余五将軍と呼ばれる。
東国の武者藤原諸任(ふじわらのもろとう)との合戦他一話が「今昔物語」にある。
山城(やましろ)の鬼女退治などの伝承もあるが、それ以外には同時代の記録に見えないことから、
野口実氏他は平兼忠の子鎮守府将軍平維良と同一人物と見る。

紅葉狩 戸隠 鬼女伝説

「今昔物語集」巻第25 第4 「平維茂が郎党、殺され話」 第5 「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」
『中世東国武士団の研究』 「平維茂と平維良」 野口 実
 維茂−繁貞−繁清−惟貞−繁賢



悪七兵衛景清
景清は「平家物語」の「橋合戦」(巻4)に平家方武将として登場、「弓流し」(巻11)の屋島合戦で源氏方の美尾屋十郎のかぶとの錣(しころ)を引きちぎった強力として知られる。同書の「内侍所の都入」(巻11)に平家方の他の武将らとともに「何としてかは遁(のが)れたりけん、
そこをも終(つい)に落ちにけり」とあって、ここから物語は派生する。
 景清の出自や経歴は必ずしも明らかではないが、「景清廟建立由来」によれば、仁平3(1153)年、今の三重県の伊賀国山田庄に生まれ、上総国(千葉)の城主となり、平家滅亡の後日向国へ流されたとある。本来なら死罪となるところだが、捕らえられても平家方への忠誠を誓って豪傑ぶりを発揮したとか、幸若舞曲「景清」にみるような頼朝への復しゅう心を断つため、自ら目をくり抜くという徳行に感じて許されたとか、どうも幻の景清原話の話があったらしい。
 頼朝は宮崎郷に地領300町を与え、景清は土屋、高妻氏らを携え、現在の宮崎市下北方に下ってきた。古城の旧館をあらため、ここでわび住まい。失意の日々を過ごし、建保2(1214)年、62歳の生涯を閉じた。
 さて、景清の伝承を育てた地盤を九州に求めたのは「目一つ五郎考」(「定本柳田国男集」第5巻)にみるように、地神盲僧と深いかかわりがあろう。古くから九州には盲僧琵琶の流儀として玄清法印流と常楽院流の2系があるが、景清統といった一派が平家一門への同情を吟じたのではなかろうか。
 景清没後、長光寺に琵琶を安置、沙汰寺に景清霊廟(れいびょう)を営み、生目神社(活目八幡宮)は祭神として祭り、今も眼病の神とあがめられる。謡曲「大仏供養」では頼朝襲撃の失敗を謡い、「景清」では、盲人となった景清と再会した娘人丸と
の悲哀に満ちた別れが描かれる。
 景清廟には位はい、琵琶を納め、景清公塚、人丸姫墓、景清父母慰霊塔があり、旧8月15日には「景清まつり」を催す。同市生目の亀井山には生目神社が鎮座、観音信仰によって生き返った霊眼を祭ったと伝える。
 眼病平癒祈願には「かげ清く照らす生目の水鏡 末の世までも曇らざりけり」の神詠を3度唱える習わしがある。
社殿背後に景清が目玉をくり抜いて投げ、目が掛かったという景清目掛けの松がある。