郷土安積の歴史のページ

目  次                                              2016/5/14更新

郡山(安積)地方の支配者(古代の郡山      
     

郡山(安積)地方関連の古代歴史考察
郡山(安積)地方関連の中世歴史考察
郡山(安積)地方関連の近世歴史考察












                        JR郡山駅前ビル22Fより北西市街地と安達太良山を望む (H17,127写)



郡山(安積)の歴史に現れたリーダー                   小原隆夫
 郡山(安積)地方の古代郷土の歴史は、石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代など未だ解らない事が多い。しかし,先人も今も,これらを調査研究されている方々が、次々と成果を発表されている。郡山市に於いても各先輩が編纂された郡山市史始め多くの書籍等がある。叉郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団による発掘で出土する品々を見ると、古代の夢は益々膨らむのは、私一人だけではないだろう。郷土の歴史に興味をもって郡山市歴史資料館・公民館市民学校等やあさかの学園大学で学んだものうち、支配者の変遷を私なりに纏めてみた。


郡山(安積)地方の支配者(古代の郡山)
 古代の郡山(安積)地方を支配する人物は、家長的な人以外石器時代・縄文時代にはいないと考える。西歴紀元前500年頃、稲作文化や金属文化が東北に入ってくる弥生時代は、共同作業等に一族のリーダー的支配者がいたと考えられる。しかし考古学的発掘等に、まだ支配者を証明できる具体的な事実は聞いていない。
 古墳時代に、卑弥呼・壱与時代から成立する群小国家は、中国・古代朝鮮の政治文化を移入してゆき、飛鳥・奈良時代になって大和朝は、諸制度を確立して、漸く郡山(安積)地方の支配者の名が、記録されてくることがわかる。
 出雲族の国譲り神話にある、大国主命(大黒様)の子供の事代主命(えびす様)信仰や耕高彦根命と建御名方命の三兄弟が郡山(安積)地方の支配者に関係してるのではないかと思われる。
 建御名方命(諏訪神社)は信濃、北陸地方に多くありますが、福島県にも、会津地方や郡山(安積)地方にも存在します。耕高彦根命(都々古別神社 近津神社)が、東北南部、福島県の久慈川源流に近い、棚倉町近津山岡にあります。甲子大黒信仰は、福島県の太平洋岸浜通り地方や茨城県北部大子町近隣にみられます。郡山市安積町に所在する「安倍近津神社」の祭神は、耕高彦根命安部継守です。神話の神様と地元の豪族安部氏が、この地の開拓リーダー的存在ではないがと考えるてみると古代のロマンで面白い。天孫族が、大和朝に、続くとすれば、古代安積を開拓した、我母神・白翁神は、渡来人に関係があるのではないかと疑問視もできる。


安倍近津神社
 所在地は、福島県郡山市安積町荒井字安倍の北井部落にあります。祭神は耕高彦根命と安部継守 の二神がまつられている。江戸時代「安倍近津神社」について、二本松藩地誌の「相生集(大石良種著)天保12年(1841)」によると、祭神の安部継守が延暦10年(791)9月5日安積郡大領(郡司)に糧納献上して、外正8位から外従5位下叙任」とある。神話の耕高彦根と地元の豪族安部氏が、この地の開拓リーダー的存在ではと、考えると面白い。
すぐ近所の東北井に我母神社がある。
 
 我母神 「女神で伊勢7回 熊野7回 湯殿山48回参拝し、北井を開拓したと伝える」
 白翁神 「我母神と夫婦神といわれ、共に北井を開拓したと伝えられる」   左我母神社  右安倍近津神社




郡山の古墳文化と阿尺国造
 弥生人の信仰は、稲作りに関連して、蛇神信仰や植物再生観が、麓山信仰・先祖崇敬となったと思われる。稲作が発展して、水の重要性が大切にされ、水路等土木工事も進み、労働力の集中と支配者の権力が増し、各地に地方豪族が発生する。豪族の墳墓は、権威の象徴又勢力のシンボルとなって居る。安積地方の古墳は、首長クラスの墓と思はれる。本県(安積)の場合、己の支配が、一望の場所である山頂部を選び、築いている。(西紀前から350年頃まで) その後、山麓部に移り(400年中) 平坦地には(550-700年中)合葬形態や横穴式の古墳があらわれ、安積地方には、古墳群が集中している。大槻町に約180 ケ所、外に約150ケ所の、古墳が有るのは県内一で、郡山は、この時代から稲作りが、盛んな農業生産地であり、古墳の多くあるのは豪族がいる、豊かな象徴ともいえる。郡山の赤木古墳は、大正時代に逢瀬川堤防改修工事で壊されたが、これが阿尺国造の墳墓ではないかと言われている。


田村町の大安場古墳
 田村町大善寺の大安場古墳は、誰の墳墓だろうか、古代ロマンの謎だと思うと興味深々だ。
 時代が移り、個人墓が、共同墓に、巨大墳墓から小規模墳墓に変わり、大化の改新(646)以後、天皇勢力の薄墓令による中央権力や仏教渡来で、火葬が流行し古墳は無くなって行く。


郡山地方の遺跡
 現存の遺跡に御代田、琵琶沢、川田白旗、成田延命寺、駒屋一人子、富田腰巻等があり、富岡、成山、笹川、大槻町の柏山遺跡や、福楽沢遺跡から籾痕のついた土器が、出土している。これらの遺跡から、郡山地方では、稲作農耕が、数千年前から、始まっていた事が解る。  水稲栽培は弥生時代における、郡山市の沖積原沿(阿久津・阿久土・安子島など) 湿地・谷地・河川上流岸に多く、用水堰も作られた。 郡山の古い地名には、大蔵壇原(久留米)、名倉、針生、小原田、香久池等、岩代国府が設された時代の地名が、現在も残っている。安積地方には、第22代清寧天皇が、この地に住んだと言う説があり、白翁神=白髪部(シラカベ)の名が神社(480-484)の時に、渡来人として残っている。
 陸奥の朝廷領は、国府を設定して、安積国造の管掌下に置かれた。三蔵制(朝廷用年貢蔵) 内蔵・斎蔵・大蔵の名残や、采女白丁制(地方豪族の司祭権、女の司祭巫女)等、中央勢力の増大は信仰統一策までも、郡山(安積)地方でも行なわれ(飛鳥時代)ていたと考えられる。
 安積軍団・安積釆女 (奈良時代)


坂上田村麻呂
 8・9世紀頃は、毎年陸奥の国各地で蝦夷が、中央政権に反乱する。大和政権は鎮定将軍を定めて、大伴駿河麻呂・藤原小黒丸・大伴家持・弟麻呂・坂上田村麻呂(758-811)等に命じて、蝦夷征伐は数多く行っていたとれるが、宝亀配し11年(780)の坂上田村麻呂以外成功しているとは言い難く、地方豪族が各地で、それぞれ支ていたものと考えられる。
 758〜811(天平宝字2〜弘仁2)平安初期の武将刈田麻呂の子。その家は東漢(やまと)麻呂は「赤面黄鬚」(せきめんおうしゅ,赤ら顔に黄色のひげ),腕力人に優れ,怒ってはったとにらめば猛獣も倒れるが,にっことほほえめば赤子もなつくと称された。桓武天皇はその将帥の器たるを認め,折から進行中の北辺のエゾ経営戦の指揮官に起用した。 田村麻呂は、初代征夷大将軍大伴弟麻呂のもとで副将軍として,自ら10万の兵をひきいて794年(延暦13),胆沢の会戦に大勝したと言われ,803年(延暦20)には自ら征夷大将軍として,再び胆沢に出兵,完全勝利をおさめ胆沢城を造り,鎮守府をここに移し,北方経営の基地とした。エゾ経営はかれのもとで最終的に安定するので,かれは「北天の化現」(北方守護神の生まれかわり)と仰がれた。
                               〔参考文献〕高橋崇『坂上田村麻呂』吉川弘文館


郡山(安積)地方の歴代領主(中世の郡山)
 中世の奥州(出羽・陸奥)は、京都政治の動きに影響を大きく受けていたものと考える。平安時代の郡山(安積)地方は、天皇領をはじめ、朝廷・摂関家・寺院・貴族等が荘園所領として、管理を国司に遥任制で代官に、支配させていた。
 鎌倉から室町時代までの政権は、源氏の鎌倉幕府から、北条氏が幕府執権として権力が移り、天皇家が、南朝大覚寺派と北朝持明院派に、分かれて争った、南北朝時代を経て、足利氏の京都室町幕府時代の戦乱に、全国が巻き込まれて行く。
 安積地方は、約400年にわたり騒乱の場になる。 安積伊東氏は、代々親子親族に別れて、南北朝以後の戦乱に巻き込まれてゆき、近隣の葦名氏、田村氏 大内氏 二階堂氏 岩城氏石川氏等豪族の争奪場となる。このため安積地方の中世期時代は古文書等遺跡は焼失して少ない。


八幡太郎義家
 父親の源 頼義は平喜元年(1053)陸奥守に任命(任期4年)され、宮城県多賀城に本拠を置き、親子は陸奥に赴任する。頼義の長男で八幡太郎義家は、石清水八幡宮で元服したと言う。武家棟梁として、平喜4年(1053)源頼義から陸奥守引継ぎ任命される。
 奥州奥六郡は胆沢城を本拠に、安部頼良(頼時)が中央政府外の独立地域として単一政権支配していた。源頼義親子は中央政府の命により、蝦夷征伐を永承六年(1051)前九年の役の争いをして、善戦苦戦を繰り返し講和停戦した。平喜5年(1054)には、阿久利河合戦厨川柵河崎柵の合戦に敗走し、多賀城も占領され、親子六人福島県内を、5年あまり逃げて兵募集・食糧確保・武器調達して再起、康平五年(1062)出羽清原武則の助けを借り安部氏を倒す。
 後三年の役(1083-1086)に介入し再度陸奥守(1083)となったが、朝廷から帰任を命ぜられ京都に戻ったけど功認められず、伊予守に左遷される。


奥州 藤原三代
 奥州 藤原清衡・基衡・秀衡の三代約100年間平泉文化と言われる黄金時代であったが、当時の安積地方は、県北地方、飯坂大鳥城の国司、佐藤氏が支配をまかされていたと思われるが詳細は解からない。
 所領管理の委任を受けて、力を付けた各地の地方豪族に、蝦夷征伐を命じ「夷を以って夷を征す」政策を再々実行している。しかし、国司は転んでも只起きないで財力戦力を貯えて行く。地方豪族は是により不輸地の私有田 墾田・治田・門田を所有し、地方の社会不安、輸送手段不安、年貢促進確実にし治安維持、開拓等を任され財力戦力は豊かになってゆく。王朝政治と言われた藤原氏の摂関政治権力はやがて上皇の院政に移り源平両氏の起用等武士集団が生まれ、その棟梁と上皇の院政側の対立となり戦乱が起こり戦国時代入る。京都政治の記録よれば、数多くの事項が残っている。


平家と奥州 藤原を倒した頼朝兄弟
 保元(1156)平治の乱(1159)により、朝廷から権力を握った平清盛は、源氏を倒して繁栄したが、平清盛の死後、源氏の遺児等により、寿永年間、壇ノ浦において安徳天皇を巻き添えに、平家一族は滅亡(1185)した。
 権力を得た鎌倉の源 頼朝が起す奥州合戦(1189)で、弟義経と奥州藤原氏を倒し勝利した。源 頼朝は、 陸奥地下管領となり(文治5年1189)鎌倉幕府を興し、安積地方は、源 頼朝の平泉藤原氏征伐后の報奨として、鎌倉武士に配分した。
  白河=結城       岩瀬=二階堂    安積=伊東     安達=小野田
  会津=佐原(葦名)    南会=河原田    宇田=相馬氏    伊達=中村(伊達氏)
  田村氏、石川氏、佐藤氏(福島)の三氏は本領安堵


郡山市域の合戦と城  
城と舘が多い郡山市域
 郡山市には歴史がない、城がないと言われて久しい。しかし、このことは江戸時代(近世)に城が置かれなかったことであり、中世に城が築かれなかったことではない。 郡山市域に城館跡と確認できるものは、鎌倉時代から江戸時代初頭(約四〇〇年間)までに180余にものぼる。県内ではいわき市に次いで多い。阿津賀志山と藤田宿の問に築いた防塁であった。 このことは、この地域が地理・交通・経済上いかに重要な位置にあったかを示し、この地域をめぐり諸将がいかに激しく攻防したかを物語っている。  以下、企画展「郡山市域の合戦と城」をご覧いただき、郡山の歴史について再認識していただければ幸いです。     平成22年度文化財企画展より


安積の鎌倉仏教
この時代は、仏教文化が盛んになった時であり、親鸞一族を擁護した安積門徒は、富田町音路の太子堂あたりが、活動拠点と言われているけれども詳細は不明である。その他建築物・文書等は焼失し、残っている資料は少なく、燃えない石仏石碑等が、現存している。
 郡山市内の如法寺にある石碑は、国の重要文化財に指定されている。鎌倉時代の石碑は、郡山市に、数多く散在するのも仏教文化が盛んである証拠になる。


安積町荒井猫田遺跡
 郡山市教育委員会が「第7回市内遺跡発掘調査成果展」を開催した中で、青山学園大学の藤原良章教授が、安積町荒井猫田遺跡は「奥大道」と考えられると言っている。道路と町跡は規模の大きさから「宿」か「市」ではないだろうか、近江の野路岡田遺跡「宿」(鎌倉街道)に匹敵する遺跡と思われるとも講演している。



戦乱時代
 鎌倉から室町時代までの政権は、源氏の鎌倉幕府から北条氏が幕府執権として権力が移り、天皇家が南朝大覚寺派と北朝持明院派に分かれて争う南北朝時代を経て足利氏の京都室町幕府時代の戦乱に全国が巻き込まれて行く。安積地方は約400年にわたり伊東氏は、代々親子親族に別れて南北朝以後の戦乱に巻き込まれてゆき、近隣の葦名氏、田村氏 大内氏 二階堂氏 岩城氏石川氏等豪族の争奪場となる。このため安積地方の中世期時代の古文書等遺跡は焼失して少ない。


鎌倉幕府と佐々河城
  関屋(石那坂)合戦・阿津賀志山合戦


室町時代の笹川御所 (郡山市安積町)
 足利基氏は、京都から正平4年(1349)9月9日初代関東公方に就任し、高 師冬が執事になる。鎌倉幕府の三代公方足利満兼は、明徳2年(1391)から奥羽を2回支配した。 (足利満兼 応永16年1409/7/22没享年32才) 
鎌倉公方足利満兼は、応永6年(1399)弟 足利満直を笹川御所、足利満貞を稲村御所(須賀川市)に派遣して陸奥の諸侍に所領安堵を実施する。足利満直は、笹川御所を居城に北朝側の拠点として、南朝側の宇津峰舘と対立し争う。約40年間所在したと言う。永亨の乱(永亨10年1438)で滅亡した。
  安積郡の笹川御所(篠川城)跡といわれる場所は、現在字名で笹川の篠川・東館・高瀬・御所前・熊野前・経壇・経蔵・高石坊等が残っている。笹川御所(篠川城)は、堀跡や川が現存している。
 天正年間にも二階堂氏の家臣須田某の居館になったと、地元古老から聞いたことがある。城跡の大部分は、江戸時代に奥州街道になり、その両側に住家が建てられて、安積町笹川に所在する「天性寺」は明治時代に、現在地の東側にあったそうだが、東北線が開通して、汽車の煙突から出た火の粉が寺の茅屋根に移り火事となる。その折持ち出した過去帳に、15世紀頃と見られるものがあると言う。
    安積の一揆連署状   笹川御所の命令を遵守しますと一揆連署状が応永11年の文書が残っている。

室町時代の稲村御所 (須賀川市稻) 
足利満貞に伊東祐充が稲村公方の代官を務めたが、約8年間後 持氏の乱で、足利満貞は、退去して無くなる。


戦国争乱と安積・田村地方
  葦名氏安積へ進出
  天文の乱と安積地方の争乱
  葦名氏と田村氏の激戦
  今泉城二階堂氏に復帰す
  大田原の合戦
  郡山合戦
  安子島城・高玉城の落城と摺上合戦


山(安積)地方の歴代領主(近世の郡山280年間)
 地方史の近世を16世紀後半から18世紀とすると、安土桃山・江戸時代の郡山(安積地方)が近世の郡山と思われる。これは豊臣秀吉が、奥州仕置を天正18年(1590)行なってから戊辰戦争慶応4年(1868)迄が近世の郡山となる。
 伊達政宗が、人取橋の合戦・郡山合戦・摺上原の合戦などで、葦名氏を滅ぼして、葦名氏から奪った会津領(安積地方を含む)を、豊臣秀吉が、奥州仕置きにより蒲生氏に支配を任せて「江戸徳川氏」を牽制したと考えられる。関ヶ原の合戦で徳川の勝利により、権力は豊臣秀吉から徳川家康に移り、江戸幕府が成立する。
 徳川幕府が直轄領の外に、各大名旗本の藩制度をひいて、上杉氏に替えて蒲生氏に会津を再び移封し、その後加藤氏に移り、加藤氏以後は丹羽氏に安達安積地方の支配を任せた。
 安積地方は支配大名の移封交代が比較的に少なく、支配者の居住地にならないので、城下町としての特色はないが、約230年間を「二本松丹羽氏」の支配を受けて過ごしている。
 しかし、交通の便や、米の産地で在った事は変わってなく、経済的に発達する地の利の要因は在ったのである。

近代への始動
  天正の奥州仕置き
  蒲生氏郷の会津入城
  上杉景勝の会津若松入城
  上杉氏の要城浅香城
  蒲生秀行の会津若松入城


伊達政宗安積の争奪戦決着者?)
 人取橋合戦(1585天正13年安達郡本宮町)郡山合戦(1587天正16年郡山市)摺上原合戦(1589天正17年耶麻郡猪苗代町)の戦いによって、「伊達政宗領」になってから、戊辰戦争(1867)まで約280年間、安積地方は、戦乱に巻き込まれたことはない。

    
会津領時代安積が55年間会津領に?)
 伊達氏の会津時代は 天正16年 7月(1588)〜天正18年 8月(1590)    2年間

 豊臣秀吉の奥州仕置より安積は「会津蒲生氏郷領」となる
       天正18年(1590)〜慶長 2年(1597)     7年間   73万石
 豊臣秀吉の采配で蒲生氏郷死亡後会津(安積含む)は「上杉景勝領」となる
       慶長 2年(1597)〜慶長 6年(1601)     3年間   120万石
 徳川幕府は再び会津(安積含む)を「蒲生秀行領」とする
       慶長 6年(1601)〜寛永4年(1627)     26年間   60万石 慶長17年病没
       「蒲生氏郷ー郷成ー秀行-忠郷-弟忠知」  
                   弟忠知は伊予松山24万石に移封(寛永4年1627)
 徳川幕府は松山藩「加藤嘉明」を会津(安積含む)に移す
       寛永 4年 2月(1627)〜寛永20年(1643)  16年間   40万石
       「加藤嘉明ー明成-明友」
                   孫の明友は石見国1万石に移封(寛永20年1643)


二本松藩時代の丹羽氏安積が226年間二本松藩領に
 徳川幕府は白河藩「丹羽光重」を二本松藩(安積を含む)に移す。
寛永20年7月(1643-1868)-慶応4年12月10代丹羽長国まで225年間10万石で安積も支配し明治時代に入る。

 初代 丹羽左京大夫光重   寛永20年(1643)より 白河城主から二本松城主
 ニ代 丹羽左京大夫長次   延宝 7年(1679)より 二本松城主
 三代 丹羽越前守 長之    元禄11年(1698)より 二本松城主
 四代 丹羽左京大夫秀延   元禄14年(1701)より 二本松城主
 五代 丹羽左京大夫高寛   享保13年(1728)より 二本松城主
 六代 丹羽若狭守 高庸    延享 2年(1745)より 二本松城主
 七代 丹羽左京大夫長貴   明和 3年(1766)より 二本松城主
 八代 丹羽左京大夫長祥   寛永 8年(1796)より 二本松城主
 九代 丹羽左京大夫長冨   文化10年(1803)より 二本松城主
 十代 丹羽左京大夫長国   安政 5年(1858)より 二本松城主
十一代 丹羽五郎左衛門長裕 明治元年(1868)より 二本松城主

 明治元年(1868)より、丹羽氏の11代二本松藩主についた、丹羽五郎左衛門長裕は、安政6年の生まれ (1856-1886) 明治19年に死亡が最後の二本松藩主 享年31才。
 丹羽氏の菩提寺は、二本松市成田町の大隣寺(住職 高松祖学)この寺に歴代藩主画像 12幅が保存されている。(二本松市有形文化財指定)
 明治以後の二本松藩は、明治2年白河県に編入、戊辰戦争には、東軍に加わったので、安積5万石を、明治政府に没収された。(後年原野部分が安積開拓の土地) 明治4年廃藩置県により、二本松藩は、二本松県となり、福島県(中通り)と改称し、明治9年磐前県(浜通り)と若松県(会津)と合併して今の福島県が成立する。


近代の郡山(安積)地方の行政
 現今の行政は、市町村と都道府県と国(政府)の、三段階から、成り立っている。これは、明治以後の制度であり、郡山(安積)地方の、変遷をたぐってみれば次の通り。
 江戸時代の安積郡郡山村は、明治22年に郡山町となり。大正13年に近隣町村を合併し市制を敷き、昭和40年安積郡全町村と、中田村西田村を合併して、現在の郡山市となる。

(西暦)                明治以後の郡山市
1868慶応4年9月8日  明治に改元
1869明治2年2月30日 安積地方ハ守山藩ノ取締下カラ笠間藩民政局ノ統治下トナル
1869明治2年9月30日 安積郡(湖南地区ヲ除ク)ハ白河県ニ編入トナル
1871明治4年7月14日 二本松藩から安積5万石を没収
1872明治5年4月9日  名主制廃止サレ戸長制トナル 郡山戸長ニ今泉久右衛門
1872明治5年6月12日 大区小区制ヲ施行 安積郡ハ福島県第4大区
1873明治6年1月1日  太陽暦採用 12月3日ヲ新暦 明治6年1月1日ト改定
1874明治7年7月1日  安積地方行政10区となる 区長中条政恒兼務
1875明治8年12月1日 安積郡地方行政区 7大区トナル (人口24、309人・4、194戸)
1876明治9年      福島県(中通り)と年磐前県(浜通り)と若松県(会津)と合併成立する
1877明治10年      郡山村 (人口 5481人・1051戸) 明治11年村会設置
1886明治19年      安積郡役所郡山村ニ新築
1889明治22年      安積郡郡山村 町制施行(人口8,031人・1,392戸)
1924大正13年      郡山町市制施行(人口39,003人・7,163戸)小原田村を合併
1940昭和15年      大槻村・安達郡高川村町制施行 大槻町・安達郡熱海町トナル
1943昭和18年     永盛村町制施行 永盛町トナル
1954昭和29年     熱海町+丸守・永盛町+豊田村=安積町・冨久山町+小泉村・冨田村+郡山市
1955昭和30年     田村町・湖南村・三穂田村・逢瀬村・西田村ノ誕生 郡山市+大槻町の合併
1956昭和31年     町村合併進む 御館村+宮城村=中田村ノ誕生
1965昭和40年5月1日 現在の郡山市の市町村合併成立 (人口224千人)


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東北本線郡山駅前のビックアイ22Fより安達太良山を望む
平成17年1月27日 撮影