張 良(ちょう りょう)

●あらすじ
漢の高祖に仕える張良は夢の中で老翁と出会う。兵法を伝授してもらう約束をし、夢の中で約束した五日後に橋のほとりに行く。しかし、老翁は約束の時間に遅れた事を咎め、また五日後に来いと言い去っていく。これが第一回の試みであった。五日後、張良は正装をし早暁に行くと威儀を正した老翁が馬に乗って現れた。そして自らを黄石公と名乗り、履いていた沓を川へ落とした。張良は急いで川に飛び込んだが、大蛇が現れ威嚇し沓を取られる。張良はすばやく剣を抜き立ち向かい大蛇から沓を奪い返した。黄石公は張良の働きを認め、兵法の奥義秘伝を授けるのだった。

●宝生流謡本(参考)     外十五巻の三   四五番目    (太鼓あり)
       季節=秋  場所=唐土 下?
       素謡 : 稽古順=入門  素謡時間25分
       素謡座席順  ツレ=龍 神
シテ=前・老翁 後・黄石公   
ワキ=張 良   

●場面解説
中国の故事に取材した観世小次郎信光の作品で、信光らしい劇的な演出が随所に見られる。後場の、シテ黄石公が沓を脱いで飛ばし、それを張良が取りに川瀬の中に入って龍神と闘う場面は、信光らしい演出の一つである。また、張良が兵法の奥義書を黄石公から授けられる場面も、眼目の一つである。本作品での黄石公は一畳台を降りているが、後場のほとんどは一畳台上に座り、動きもほぼ無い。一方の張良は、川の激流に流される様、龍神との闘いなど、シテとは対照的に動きが多い。そのため、ワキ方の重習物となっている。「静」のシテと「動」のワキの対比も面白い作品である。

●演能記       「張良(ちょうりょう)」 観世流      2006年 01月 28日
この「張良」は、漢の高祖の臣張良が、黄石公(こうせきこう)から兵法を授けられたという「史記」にある故事を能に仕立て上げられたものです。張良がワキ、黄石公がシテ。とてもショー的要素の強い娯楽性をもった作品です。常と違って、ワキが大活躍します。見所は黄石公が激流の川に沓を投げ入れ、張良が身を流されながら沓を捕りに行く場面。身をそらしながら、クルクル、クルクルとまわる様はシテ方顔まけの技です。張良のワキは、ワキ方の特に重い習い物とされているようです。 今回のワキは宝生欣哉さん。風邪引いてだめだぁとぼやいていましたが、なんのなんの見事なものでした。 シテは「黄石公」。ほとんど動きがないものの、超人的なスケールの大きさを要求されます。使用する面は、「鼻瘤悪尉(はなこぶあくじょう)」という眼光の鋭い怖い顔をしたものを使います。今回のシテは観世榮夫師。貫禄あります!周りでだれかが、面付けなくても素顔で大丈夫だねと言っていました。 張良はある橋の上で一人のり老人と出会い、その老人は張良の前でわざと川に沓(くつ)を投げ捨て、あれを捕ってこいといいます。快く思わない張良はでも、老人の頼みだ、と仕方なく川に沓を捕りに行き老人に差し出しますが、さらに老人はその沓を私に履かせよといいます。さすがに張良も我慢できず殺してやろうと思うのですが、老人の言うこととてここも気持ちをこらえ素直に従います。老人は嬉しく思い、お前にいい物をやろうと言って、五日後再開の約束をし、その場を立ち去るのでした。五日後、張良は約束の場へ赴くが、時すでに遅し、すでに老人は着ていました。遅刻です!老人は叱責し、出直して来い!と新たに五日後の約束をとり立ち去ります。しかしそれも、またもや張良は遅刻をしてしまいます。またまた老人は叱責するものの、また五日後の約束をして立ち去りました。三度目の正直です。今度は間に合いました。その褒美に兵法の秘伝が書かれた巻物一巻を与えられます。老人の名を聞くと、十三年後お前は黄色い石を手にする、それがワシだといって姿を消します。はたして十三年後、張良は黄色い石を手にし、「黄石公」として祀ったということです。        by shibata-minoru
柴田稔日記 |

●張 良
張 良(ちょう りょう) 紀元前186年)は秦末期から前漢初期の政治家・謀将。字は子房。諡は文成。軍師として劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に劉邦配下の三傑とされる。劉邦より留(江蘇省徐州市沛県の東南)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。
 祖父・張開地は韓の昭侯・宣恵王・ 襄王の宰相を務め、父・張平は釐王・桓恵王の宰相を務めていた。『史記索隠』では、その祖先は韓の公族であり、周王室と同じ姫姓であったが、秦による賊探索から逃れるために張氏に改名したことになっている。
 父の張平が死んでから20年が経った後、秦が韓を滅ぼした。その時にはまだ張良は年若く、官に就いていなかった。韓が滅びたのは紀元前230年で、普通20歳にもなれば成人であり、父が死ぬ間際に生まれた訳でなければ、張良も官位に就いているはずである。しかし滅亡寸前の国なので、20歳を過ぎてなお官に就けなかったということもあり得るため、韓が滅亡した時点で20代前半とも考えられる。 祖国を滅ぼされた張良は復讐を誓い、全財産を売り払って復讐の資金とした。弟が死んでも、費用を惜しんで葬式を出さなかったという。
 張良は同志を求めて東へ旅をし、倉海君と言う人に出会い、その人と話し合って屈強な力士を借り受け、紀元前218年頃に始皇帝が巡幸の途中で博狼沙(現在の河南省陽武の南)を通った所を狙った。方法は重さ120斤(約30kg)と言う鉄槌を投げつけ、始皇帝が乗った車を潰すというものであった。しかし鉄槌は副車に当たってしまって暗殺は失敗に終わり、張良達は逃亡した。
 始皇帝は自らを暗殺しようとした者に怒り、全国に触れを回して捕らえようとした。そこで張良は偽名を使って下?(現在の江蘇省徐州の東の?州市、?は丕におおざと)に隠れた。
「黄石公」との話は伝説であろうが、張良が誰か師匠に就いて兵法を学んだという事は考えられる。また、太公望の兵法書というものを『六韜』だと考える向きもあるが、現存する『六韜』の成立年代は魏晋代と考えられているので、少なくとも張良が読んだ書物は、現存する『六韜』ではないと見られる。 また、この下?での逃亡生活の時に、項羽の叔父項伯が人を殺して逃げ込んで来たので、これを匿まっている。
劉邦の下で 陳勝・呉広の乱が起こると、張良も兵を集めて参加しようとしたが、100人ほどしか集まらなかった。その頃、陳勝の死後に楚王に擁立された楚の旧王族の景駒が留にいたので、参加しようとした途中、劉邦に出会い、これに合流したという。 これまでも張良は何度か大将達に出会っては自らの兵法を説き、自分を使ってもらえるように希望していたのだが、聞く耳を持つ者はいなかった。しかし劉邦は張良の言う事を素直に聞き容れ、その策を常に採用し、実戦で使ってみた。これに張良は「沛公(劉邦)はまことに天授の英傑だ」と思わず感動したという。
 劉邦はその後、景駒を敗走させた項梁の下に入って一方の軍を任されるようになる。項梁は新しい旗頭として懐王(後の義帝)を立てた。そこで張良は韓の公子であった横陽君の成を韓王に立てるように項梁に進言した。項梁もこれを認めて成を韓王とし、張良をその申徒(『史記集解』に拠れば司徒のこと)に任命した。 その後、韓王成に従い、千人ほどの手勢を引き連れて旧韓の城を攻めて占領するが、すぐに兵力に勝る秦によって奪い返されてしまう。正面から当たる不利を悟った張良は遊撃戦に出た。そこに劉邦が兵を引き連れてやって来たので、これに合流し、旧韓の城を十数城攻め取り、韓を再興した。
 その後、張良は主君の韓王成を城の1つに留めると、自らは劉邦に従って秦へ攻め上り、秦の東南の関である武関に至った。劉邦はすぐに攻めかかろうとしたが、張良は守将が商人出身であることに目をつけ、買収して関を開かせ、相手が油断したところで襲撃して守将を殺し、最小の被害で関中に入った。  (後略)
 

(平成22年5月21日 謡曲研究会)