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武田二十四将騎馬行列


書いているのが6月15日。
この出来事は、4月12日のことだから、
3ヶ月も経っていることになる。
3ヶ月も前のことを、こうして思い返すのは、
まったく大変なことだ。
よくぞ、その日のうちにメモをしておいたものだ。

仕事のできる人がメモ魔が多いと聞くが、
こんなところで、メモするだけではなく、
仕事でも生かすようにしよう…
とよくわからない前フリであったが、
とにもかくにも、「武田二十四将騎馬行列」である。

武田とは、いわずと知れた山梨の有名人
武田信玄のことであり、彼の命日4月12日前後
の土曜日・日曜日は、信玄公祭りや何やらで、
甲府は活気づく。

この信玄公祭りは、役者を招いたりして、
かなり大掛かりなものだが、
次の週にやる「武田二十四将騎馬行列」は、
全国から志望者を募って、一般人が参加する。
そして、鎧兜に身を包み、馬に乗って
甲府の町を練り歩くのである。

実は、歴史好き、特に日本の戦国時代や
中国の三国志の時代などが、特に大好きで、
その影響からか、高校時代には日本史・世界史は
強力な得点源であった。

よくあることだが、コーエーが出している
「信長の野望」「三国志」の影響をもろに
受けているのだが、ゲームから吉川英治の小説、
果ては、歴史書の本文まで読んだという
熱の入れようで、個人的にはずいぶん精通したつもりでいる。

日本の戦国時代では、特にこの「武田信玄」が
気に入っている。書き出すと止まらないので
少しだけにしておくが、信玄という人間は、
この人についていこうこの人の下で働こう、
という気にさせることが非常にうまい、
リーダーであったように思う。

勝手に考えているだけだが、
彼は、究極の利己主義が、利他主義であることを
なにより理解していたような気がする。
世界が、他者という存在で構成されている以上、
他者を自分の目的に沿うように、
うまく利用するのが、一番の利己主義の近道であるはずだ。

こういう言い方は、すこし冷たいように聞こえるが、
自分の利益を他人の利益と結びつけて、
実現していくことは、自分だけではなく、
他社にとってもハッピーなことであり、
「思いやり」が大切であることの、
論理的な解答にもなると思うのだ。
だから、現代から見ても、
武田信玄は魅力的に映るのだ、ような気がする。

まぁ、薀蓄はこのくらいにして…
今年は、4月12日がちょうど土曜日で、
騎馬行列の日が命日の日になっていて、
こんな偶然はめったにないということで、
外れてもいいから、応募だけしておこう
と思ったのだが、当選したのだ。

ただ、土曜日開催で集合は、
武田神社(信玄居住の館が神社になっている)
近くの相川小学校、時間はAM8:00。

土曜日に出発したのでは、
東京からはどうがんばっても、8時には間に合わない。
というわけで、会社が終わってから、
直で前日入りである。

参加費だけでも1万円、
さらにはスーパーあずさ(新宿〜甲府)の往復も、
かかっているのに、宿泊費まで…
そんなに何度もできることではないから、
まぁよしとして、甲府駅前のホテルに泊まる。

さて、当日。
疲れるであろう事を予想して、
集合場所までは、タクシーを飛ばす。
集合場所兼着替え場所の相川小学校では、
すでに三分の一位の参加者が、来ていた。

びっくりしたのは、参加者に女性がいること。
しかも、大学生くらいの女の子や
外国人の方までいて、なんか想像したよりも、
多彩な顔ぶれであった。
背の低い女の子が、甲冑を着ているのも、
意外にさまになっていて、かわいかったりするものだ。

ボーっとしていても仕方がないので、
早速、着替えに入る。
男性も女性も、だだっ広い体育館で、
専門の着付師(?)に着せてもらう。
女性はそんでいいのか、と思いつつも…

甲冑を着るのは、当然ながら非常に面倒だ。
しかも、重い。首が回らない。
これでも、撮影用か何かのもので、
当時の甲冑よりは、マシなのだろうが、
相当体力がいるだろうな、という感じだった。
というか、現代人がそれだけ体力がない
ということなんだろう。

よく100年後の未来を予想したりするのに、
そのころは、人間は手足が退化して
頭ばっかりがでかくなったような図を想像するが、
当時の人間が、もし現代人を見たら
同じような、感覚を持つのかもしれない。

本当ならば、あたりをうろちょろしたい
ところなのだが、重くてそんなどころではなく、
出発の時間まで、えらそうに椅子に
座ってるしかなかった。

じっとしておきたいのに、
はしゃいでいる女性が一人から、
写真を撮らしてくれとのこと。

さっきから、仲間のグループの人間と
キャアキャア言いながら、
写真を撮ったりしているのだが…
福岡出身なのに、信玄好きが高じて、
なんと甲府に移住。
参加者には、「真田殿〜」とか「一条殿〜」
などと呼んでいる始末。
ハマるのはいいけどちょっとねぇ…。

撮らせてくれという割には、写真は一度きり。
どうやら、今回の騎馬行列の役
小幡豊後守昌盛という、知ってる人でないと
知らないような武将だったからか…

とか何とかしているうちに、出発の時間。
記念写真を撮ってから、
信玄公役の方(この人も一般人)の

「皆の者、出陣じゃ!」

の合図とともに、武田神社内で待つ馬の元へ。

小淵沢から、わざわざこのために輸送してきたらしく、
小淵沢の乗馬クラブの方が、各参加者に一人、
必ずついてくれるようだ。

自分が乗った馬は、なぜかほかの人の馬よりも
一回りでかく、よだれがやたら多い。
乗馬クラブの方が、よだれだらけになっていて、
少々、気の毒であったが、乗ること自体は、
意外と簡単だった。
ただ、体が大きいと、一歩も当然大きいわけで、
すぐに前の馬を追い越しそうになる。
この馬にとっても、さぞ歩きにくかったことだろう。

乗馬は、記憶にある限り初めてなのだが、
普通、乗馬が趣味という人でも、
車道で馬に乗ることはあまりないだろう。
実は、これがかなりよいものだ。

しかも、今日はお祭り。
沿道では、多くの人が注目をしており、
調子に乗って、小さい子供たちに、
手を振ったりしてみた。

事前に、堅い顔にならず、
ニコニコして、手を振ったりしてくださいね、
と言われ、そんなことできるかな
と思っていたが、どうやら人より目線が
高くなると、人間というものは、
調子に乗るものなんだな、と実感した。

小さい子は、お母さんに

「手を振ってくれたよー」

と言われて、手を振らされていることが多いのだが、
じいさん・ばあさんは、自分たちに
声をかけてくれるので、ちょっとうれしくなる。
凱旋パレードというものは、今も昔も、
すごく気分がいいものなんだろうな、と素直に感じ入る。

また、地元のテレビ局も撮影に訪れていて、
カメラがこっちに向けられそうになると、
ニコニコして手を振っている自分に気づくと、
そんな隠れたミーハーぶりに、驚いてみたり(笑)

とはいえ、そんないい調子なのも初めの間だけ。
甲府駅の南口を過ぎたくらいから、
少し疲れ始める。トイレは行けないし、尻が痛くなるし。
途中の休憩で、トイレには行けたが、
平気な顔をしてうろちょろしている女武将に唖然。

スタッフの方は気を利かせてくれているのか、
途中何度か、お茶をくれることがあったが、
おいそれとトイレに行けないのに、
お茶ばかりがぶがぶ飲むこともできず…

半分を過ぎたころからか、今度は足が痛くなる。
馬に乗るとき、足を乗せる馬具を「鐙(あぶみ)」
というが、その位置がちょっと上過ぎて、
足が中途半端に曲がった格好で乗り続けなくてはいけないのだ。

これがつらいのなんの。危ないとは知りながら、
鐙から足を離し、足を伸ばしたりしてみるものの、
やっぱり、中途半端な姿勢はしんどかった。

飯の時間になっても、当然甲冑は着たまま。
重い鎧を身に着けての弁当タイム。
よくよく考えると、公園のいたるところで、
戦国武将が弁当を食べてる姿は、
ちょっと異様なものがあるが、
地元の人たちは、やたらと写真を撮りたがる。
ちょっとゆっくり食べさせてってば。
後から出てきた豚汁が旨かった。

食べ終わってほっとしていると、雨が降り出す。
行きはよいよい、帰りは怖いとはこのことである。
雨で寒いわ、足は痛いわ、散々。
途中、舞鶴城で記念写真を撮るが、
休憩はナシ。がっくり。
ちなみに舞鶴城といっても、京都の舞鶴とは無関係で、
甲府城の別名を舞鶴城という。

やっと、甲府駅にまで戻ってきたとき、
甲府駅南口から北口に渡る陸橋で
大学生くらいの女の子が手を振ってくれていた。

振り返すと「やったー!」っと言いたげに、
さらに勢いよく手を振ってくれた。
「やったー!」と言っていたがどうかは不明であるが、
疲れていたときだけに、めちゃめちゃうれしかった。
今、これを書いてる本人が、あのときの武将だったと
わかるわけないだろうけど、
ていうかこれを読んでるわけないけど、
手を振ってくれて、ありがとね。

神社に戻るまでの休憩中、地元の人に
沿道でおにぎりや飲み物を頂いた。
馬に乗ったままだったが、
ちょうど小腹すいていたころでもあり、
ありがたく頂いた。

神社について、馬に降りてから
境内に行ってみると、神社の中でも
お祭りがクライマックスを迎えていた。
神社に手を合わせ、わいわい騒いでいる
グループを残して、着替えに戻る。

正直、疲れたが非常に貴重な経験ができた。
馬に乗れたこともそうだが、信玄という人間が、
単に観光資源というだけではなく、
地元に愛されている様子を肌で感じられたこと、
それが一番貴重な体験だった。

帰る途中、信玄の墓に立ち寄った。
周りに桜がまだまだ咲いていた。
武士の墓は、総じて質素であるが、
それは、信玄も例外ではない。
軽く手を合わせ、その場を後にした。

2003-4-12(written in 2003-6-15)


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