top pageへ戻る

kotono‐ha …ことのは

2007年09月 22日 土曜日  ココロ持ちとか、帰る場所、とか

ヒトのココロは、光に照らした多面体のようで、様々に反射する、それがココロ持ちなんだと思う。

ヒトのタイプとして、前向きに、前向きに考えるヒトと、なんでも後ろ向きに考えるヒトといるそうだ。でも…好き好んで後ろ向き思考する趣味があるヒトなんて、ホントにいる? 誰もが出来れば、それはもちろんアカルイホウヘ進めたらと思っているのでは…。

「ひとつ ひとつ ものごとをそんなに 深く 考えなくっていいんだよ」って。 それで 「性分なのかな」と答えたらきっと、呆れた顔されるか、「損な性分だね…」、とか言われると思う。

確かに…寂しさや色んな想いなんて、考えればホント、大したことではないんだ。身の回りから小さなエコを、ノーレジ袋運動とか…考えるべき事は他に山のようにある。 どうどうめぐりの割り切れないココロ持ちなんて、ホント大したことなんてない。
そう、少し強めの風がサラリと吹き払った、テーブルの上の砂のようなもの。

秋の初めの黄色いチョウチョがたどたどしく、でも懸命に左右に揺れて蜜を探してる。カワイイと思ったり、哀しいと思ったり…黄色のチョウチョを見ては自分で自分を慰めている。でも、それでいいのかなとも、思う。今だけは…。

だって…少しだけ弱くなった日差しも、時とともに照らす場所を変える。目を上げれば葉がキラキラとまぶしいけど、もうじきここも陽が翳る。
いつまでも、玄関先の鉢花の前で、しゃがんでいるわけにもいかないんだろうし。結局は食べたり、作ったり、片付けたり…「暮らし」は、時計の針とともに動いているんだから。

Gパンの裾をはらって独り言。「自分の心が少しだけ安らかでいられたら、それから小さな居場所があれば、いいのかな。」

多面体のココロは、外からの光を受けて様々に反射するけど。外からの光で、ココロ持ちは揺れるけれど。ひとまず、それはそれとして。
時には…内側に、きっと灯ってる自分自身のアカリを見つめよう。

そこに自分の居場所(棲家みたいなトコロ)がある気がするから。今日一日を思い返したりする…静かなしずかな場所。時には毛布かぶってフテ寝したりも出来る場所…。

2007年05月 24日 木曜日 病院にて

…わかっています。ハイ。わかっています…繰り返すしかなかった。改装したての病院は、もともと何十年も前からここにある病院だ。以前は古いカビの混ざった空気が、薄暗い廊下を漂うような年代物の病院だったのが、豪華吹き抜けがまぶしい5階建て、別にある検査棟と入院棟は8階建て、という真っ白な大病院になった。廊下はすべて歩きやすく、カーペットのようなものが敷いてある。

「あなたはね、こんなに長時間待つ必要なかったの。」…そうですね…(もう3時間以上になります。予約を入れないからこうなりますね…)

待合に並ぶシャレたカタチと色をしたソファの列を思い出す。……目を閉じて、静かすぎる息をしている車椅子のおばあさん。介護のおばさんも、慣れているのか眠ったままで順番を待っていた。窓口と座席を往復し、看護婦さんに何度も「まだなのかしら?」と繰り返すご夫人。点滴をさげ新聞を読む寝巻きのおじいさん。ソファに溶け込むように隣に座る老夫婦。斜め後ろの席で、お互い気を使いあう年取った母娘…。

待合には、独特の空気が流れている。ここに座ったら、もう、身を任せるしかないのだ。お医者さんの片袖をつかみ、または懐に入り込んだことになる。そこには、すべて委ねて観念したというような、妙にしんとした空気がゆっくりゆっくり流れているように感じた。

…「近所の病院でいいの、ね。今回のぶんは薬出しておくからね、それがなくなる前に近所の先生に行ってね!」 先生は朝からお昼も食べていないだろうし、きっと休憩もしていないのだろう。なのに精いっぱいの穏やかさを保ちながら語りかけてくれる。…はい。すみません…。頭を下げ扉を出る…ふう。なぜか顔が上げられない。お隣の科の前にも、黙って座るたくさんのお年寄りたち…同じ方向を見て、番号の呼び出しをじっと待っている。

…そのまままっすぐカーペットの上を歩き、大きな柱の角を曲がり、会計窓口へのエスカレーターに乗る。心は、長い待ち時間から開放された安心感と、ここに来た後悔とでぐるぐるまわる。…でも診てくださったこと、感謝してます。ソファの車椅子のおばあちゃん、ごめんね。

2007年03月 22日 木曜日 どこから…音の迷い子

めうめう…猫の鳴く声と、うす水色の空の彼方から、ピーチュルチュチュ…とこれは軽やかに春を伝える多分…ヒバリの空中飛行の声。猫はわたしと目が会うと歩みを加速し、そそくさと音のしない駆け足で去っていった。ところで、扉をあけたり閉めたり…これはどこから聞こえるのだろうか、眉毛の上にそっと止まる風のような、余程注意していないと聞き逃してしまうような、カラカラカラ…と消えそうな音。

右斜め上から聞こえるような気もする、ベッドに横たわると左下の建物にあるはずの無い古いサッシ…(昭和の後半に作られたような)…を静かに引きずり閉めるような、ホコリっぽく軽い音のようでもあるし。その音がするたびに窓辺に歩み寄ってみたり、水遣りの青ホースの手元を緩めたりして、空を仰いだりもするけれど、わからない。そして夜は街頭の明かりに揺れる街路樹の影を追ったり。

そうだあの古いマンションに居るのは誰なんだろう、人のベランダをのぞくのはとても気が引ける思いがしたが、カエデの芽吹きを眺めるようにして何気なく左向こうのビルを見上げる。洗濯物の出ている部屋はごくわずかで、働いているからか、衣類は部屋干しにしているのだろう、子供の声などひとつも聞こえたことのない、すすけた壁の地味なビル。ただ一番の利点と思われるのは、やや高台に立っているため視界をさえぎるものが少なく、すこぶる眺めが良いだろうと思われること。

あの西向きの窓たちから見る夕焼けはどんなに素晴らしいだろう…! 実際に登ったことが無いので想像だけれど…。それにしても、こんなに近くにあるビルなのに、今まで、そして多分これからも、一度もあの階段を昇る事はないだろうと思う。
何十年もそこにある古いマンションには幾人かの生活が、長い時間をかけて熟成され、今もそれは静かに進行しているだろうに、そこに暮らす本人以外はそのことを意識することも、認識することもない、ということに今更のように気がつく。その部屋の住人以外にとっては、その空間は、ただの古ぼけた風景の一部にしかすぎないのだ。空間を切り取った建物に息づく、認識されない湿った重たい時間の堆積、思えば不思議な話だけれど。

カラカラカラ…朝に夕に響く音。いつも同じ音なのかそれさえわからない。朝はカラスが隣のトタン屋根を跳ねる音かもしれないし、昼はあのマンションの一人暮らしの老人が西側の古ぼけたサッシを開けたり閉めたりして、時代遅れの花模様の魔法瓶から固まったインスタントコーヒーの粉をかき出しお湯をそそぎ、いつもの空を眺めているのかもしれない。ひょっとして私の犬がほえるのに腹を立てているのかしら。

夜は…闇を渡る黒い風が洗濯干し場のカゴの網目を競って通り抜ける音なのか。それとも、と考えてしまう。私のそばにいるらしい、それは音の迷い子。

ずっと幼かった頃、チョコレートの箱に描かれたピノキオやダンボの笑顔が夜空いっぱいに映しだされ、特に巨大なジミニー・クリケットが星にかたどられて輝いていた思い出や、青い空の白い雲の上によその国があるんだと思っていたように、すべてが私の想像で、どこからかのこの音は、夜ならば漆黒の空に浮かぶお月様が小さく笑っている声かも知れない、と無理やりに思ったりしてみる。

人の耳に届く音や気配は、本当はほんの少しだけで、気持ちや眼差しにとらえられず、その辺にまだまだ聴こえない音や見えないだけの存在が転がっているのかもしれない。あの迷い子…カラカラという音は私の古いサッシの記憶に引っかかると思ったのかな。

2006年09月 25日 月曜日 里犬里猫探し会場にて

仔犬達を見に行った。今日は11匹、連れて来られたそうだが、私が到着した時はもう4匹だけだった。そう、駐車場から歩いてくる途中、ちびわんこを嬉しそうに抱っこしたり連れたりして帰っていく人達を何人か見ていたから…。

会場に入ると、ネットで見たお目当ての茶色い仔犬はまだ残って居た。みんなに触られて疲れ果てたのか、隅っこでウトウトしたりして大人しい。まだ残っていた4匹の内訳は、白い仔犬が2匹、お目当ての茶色が1匹、それらの犬たちは3ヶ月程度の仔犬だ。それと大き目の黒茶の子。黒茶のはもう2才だそう。人なつこい目をしている。何度も里犬探し会場に連れてこられては、「私のご主人は誰になるんだろう?」と思ってきたのだろうか。

私が見ている間に白い2匹はそれぞれ2家族に抱かれ、あっという間に決まっていった。大勢の人の中、ボランティアのお世話の人たちは大忙し。次々と決まってくれてほっとしているみたい。そうだよね、幸せになって。

残ったのはお目当ての茶の子と2才の黒茶の子。何度も茶の子を抱っこしてみる。こんなに愛らしいのに…どうして残っちゃったのかな。うちの初老の犬とやっていけるだろうか。特にうちの犬のほうが…。神経質に育ててしまったから、この仔犬とどんな風に接するのだろう。老犬の精神状態を想像してみる。無邪気なこの茶色い子とのこれからの毎日を…。

反省した。
心を100%決めてからでないと、ここに来ちゃいけなかった。仔犬達の目を見たら、抱っこせずにはいられなくなるのだから。そんなことわかっていたはず。もう中途半端な気持ちで様子だけ見に来るのはやめよう。私もツライし、犬も、きっと…。

低学年ぐらいの男の子とお母さんが、しきりにこの茶色い子を見ている。
お母さんが男の子に聞いている。 どう? どう?
ボランティアの人 抱っこしてみますか? うん!

あぁ、きっとこの親子に決まってしまうな。
残念だけど、私は今、ちゃんと気持ちが決まっていないから仕方ない。

じゃ、アンケートに答えて手続きを…
はぁい!

立ち耳のまあるい目の茶色い子。良かったね!幸せになるんだよ。ほんと良かった。

家に帰って、うちの老犬をながめて思う。混じりけのない真っ直ぐな瞳で私を見ている。今日一日の、私の行動が全部わかっているような目をしている。大丈夫だよ。ずっと一緒に居るから…新しい子を迎えるかどうかは、もう少し考えてからにするからね。
今頃、茶色の仔犬はどうしているだろう…、あの親子に連れられ、愛情いっぱいの家族に囲まれ、明るく新しい生活が始まっているのだろうな。

2006年 08月 04日 金曜日 ひとつの夢…あの頃の自分に会いに

今朝のテレビ。ぼんやりつけていたら代々木公園の暑い日差しの中に立っていたのは南こうせつ氏。…朝から30℃近い太陽の中で歌っているその曲、「夏の少女」…!私は洗濯を干すのも忘れ、こうせつ氏の姿に釘付けになった。

かぐや姫時代の懐かしい曲がオープニングに流れ始める。曲名を思い出そうとするが…その前に歌詞だけが、放送で流れる歌声を飛び越え、頭の中から一度にあふれ出て来る♪鳥がないて…そうだ「ひとりきり」だ。

ナント、この秋にかぐや姫を再結成させ、拓郎氏と再度、つま恋にてコンサートをするそうだ。「観客の人達も自分達と同じオトシだろうから〜」と笑わせる。(1975年の吉田拓郎とのつま恋コンサートの映像もながれた。)

番組の中でこうせつ氏はこう語っていました。
「みんなあの頃の自分に会いに来るんですよ」… 

今年10月のつま恋チケットはもう売切れだそう。「中年パワーだよ〜!」7月の北海道岩見沢市のコンサートでの中年女性。「こうせつ氏の語りを聞くと優しくなれる…」と中年男性。
10月つま恋のかぐや姫の再結成はハイビジョンで中継するそう。それまでにハイビジョン、うちでも見れるようにしたいなぁ…

番組が終わるまでに心が何度もつぶやく。「来年、行ってみたい。」初めての北海道、そして岩見沢市でのフォークジャンボリー。頭の中の来年のカレンダーにさっそくメモ…。もちろんそれは夢で終わってもいい(もちろん実現できれば最高です)。

今日、テレビでこうせつ氏の言葉と歌を聴いて「あの頃の自分」に少しだけ会えた。そして来年の夏の岩見沢を思う時、こうせつ氏の言う「あの頃の自分」と、「来年の自分」の姿が、仲良く手をつないで立っているのです。きっと…北海道の緑の芝生と青い空の下で。

2006年 06月 09日 金曜日 小さな心の中の小さな宇宙

スーパーのレジ横のカードゲームの前で、小さな女の子がじいっと画面を見つめています…。キラキラとまぁるいお目めが、私には輝いてみえました。お母さんはどこなんだろう…?カードゲームの画面に吸い込まれてしまいそうなほど、じいっと見つめています…。おなじみのキャラクターが「おれと一緒にたたかおう!今度は負けないぞ!」と繰り返しています。彼女にとってはこの画像が今のすべて、なのかな…。

坂道を小さな女の子が登っています。私でさえ息がきれるほど長い坂道。彼女はひと足ずつ、坂の長さを気にやむ事もなさそうに、何ごとかつぶやきながら登ってゆきます。

紺色の柔らかそうな帽子、紺色のリュック。お道具用の手提げかばんでしょうか、それに紺色の重そうな上着とスカートに黒い靴。オマケに紺色の靴下…。まだ小さいのに、なんと多くのものを抱えているのでしょう…。いったい通学時間と距離はどれだけになるのでしょう…。でも、彼女はそれらをありのままに飲み込んでいるように見えます。つややかな黒髪に覆われた後姿は、小さな宇宙が動いているようにも思えます。

カードゲームの女の子も、紺色ずくめの女の子も…きっとその心の中に小さな玉手箱を持っています。彼女達は、その玉手箱のフタを開けては入り込み、とりどりの色に塗られた出会いや思いや、言葉や記憶たちを取り出し、手のひらで暖める…。時の流れの止まった彼女達の小宇宙。玉手箱の中に限りなく広がる想像の空間で、自由にのびやかに泳いでいるのではないかと思います。

小さな心の中の小さな宇宙…幼き心のはてしなく限りない広がり。
いつか彼女達が大人になり…気付かぬうちに玉手箱を見失ってしまったとしても、きっと心のどこかに、まだ玉手箱の扉のカギはポツリととり残されているのではないでしょうか…。忘れ去られたまま…。

2006年 02月 15日 水曜日 風を待つ

日々の暮らしの中では、風の吹く日とそうでない日(つまり凪の日…)があるように思います。
風の吹く日…風通しのよい気持ちの時は、前向きに考え、足元も軽く、テキパキと順調にこなします。
逆に風が止まった時は、小さな事で迷い、後ろ向きな思考になり、そこからなかなか抜け出せません。

凪の時…自分を鏡に映したら、私は何か透明の、薄い殻のようなもので包まれているのでしょう。

舵を取れなくなった船が、凪の海にポツンと取り残され、浮かんでいる。
そんな時はそのまま…風が吹くのを待ちます。
あらがう事もせず待っていると…フトした事でまた風が吹き、私を包んでいたものが吹き消されます。

そして再び太陽の光を浴び、雨の日なら雨粒をながめ、一歩ずつ、歩いていけるようなのです。
風を待つ事を知ってからは、凪の日の過ごし方も少し上手になったかな、と、ひとりごちです。

風は、暮らしを楽しむ気持ちを運んできてくれます。風の吹いてくる方向は未来からのようでもあり、
過去の過ぎた時間達が、私の背中を押してくれているようにも感じます。

2005年 10月 04日 火曜日 いつかの空につながっている

朝、カーテンを開けると曇り空です。しっとりした雨と、しめった土のにおいがします。
重く濃い灰色の雲がどんより厚くたちこめ、スキマにうす灰黄色した空が少しだけ見える今朝の景色は
すでに冬の訪れさえ感じさせます。
朝の風が冷たくなり、暖かい紅茶をいれたマグカップを両手で包む時の安らぎを…思います。

空を見ると、もちろんそれは今現在の空ですが、これはいつの空だろう…と、スグに記憶を掘り返したくなるのです。

この灰色の空は、いつかの空につながっている。
その糸をたぐり寄せていけば、過去の自分にどこかでつながっているような気がします。
「糸」、という名前の、細く長い時間。

この世に生まれてから、ここまで流れてきた「記憶という糸」に触れることで、
その先にある現在の私、「今」、を確認したいのかもしれません。

2005年 9月 13日 火曜日 輪廻転生

 …輪廻転生って信じる? いきなり予想外の質問に、もごもご口ごもってしまった。え〜そう簡単に尋ねられても…と言って時間を稼ぎ、ぼんやりしていた頭にエンジンかけて急発進させようとするけれど、すんなり答えが出る訳も無い。

 結局その時は、「そうだねえ…輪廻転生が事実ではない、という証拠が無い限りは、完全否定も出来ないよね…それに『この風景どこかで見たことある…』なんてデジャヴを感じたという話も聞くし。」とかナントカ答えるのでやっと。
 だってそう簡単には語れないでしょ…そんな質問…。 どう答えたら良かったのか、数日考えてみたけど…

 輪廻転生を考える時って、魂と肉体の存在を、個別に意識する必要があるかもしれない。そして魂を輪廻転生に導く…別の大きな存在も感じるよね。…こんな感じで話せたらチョッとは母の株も上がったかも?

 …輪廻転生があるかないかはわからない。でも、自分で自分を「自分」と認識できる「現在」が確かに今、あるのだとしたら、その「現在」という時間と、意識できる「自分」を、大切に大切にする事がやっぱりイチバンなんだよ。
 なんだそんな答えかぁ〜そんなの分かってるよ〜 と結局、笑われそうだけどね…。

2005年 7月 24日 日曜日 一歩の幅は

 …家庭科が苦手だった。運針やミシンがけがあまりに下手なので、洋裁好きな母が心配し、家庭科の先生に相談しに行った。中学の家庭科ではパジャマとスカート、ブラウスを作ったが、私は母の心配などどこ吹く風で、洋裁が得意な友人にほとんど作ってもらっていた。彼女は本当に器用で私の作品もささっと作ってくれた(アリガトウ…)。

 娘が小5の時、お友達が薄焼き卵を焼き、キュウリやハムを器用に切って冷やし中華をご馳走してくれたそうだ。とても美味しかったって♪ いま娘は中3。やっと冷やし中華の薄焼き卵を焼いている。手順を覚えたら時間もだいぶ短縮されてきた。夏休みに入り何度目の冷やし中華だろう…?最近、少しずつ進んで台所に立つようになった。
その姿を見て私は自分の事を思い出す。25才を過ぎ自分から針を持つようになった私…。我が子の服を作りたいと思った時、あんなに避けていた洋裁を、初めて母に教わろうと思った。裁ち方も縫目もむちゃくちゃだけど一枚二枚と作り始めた。新しい土地で友達が欲しかったから、パッチワークもはじめた。きっかけってそんなものなのかな。

…一歩の幅も、方向も、みんな違う。人の道はひとつじゃない…。歩いていれば出会いもある。自分の気持ちが知らぬ間に動き出す時もある…。ヒナ鳥達には行きたい方向へ、自由に羽ばたいて欲しいけれど、飛び立ちたい羽を押さえているのも、私なのだ。…あの時の母と同じように、心配で仕方ないのも確かだから。
「一歩の幅は誰もが違う…ゆっくり歩こうよ。」自分にも言い聞かせる。
きっとみんなそれぞれの「シアワセのカタチ」を求め、歩いているのだと思う。いままでも、これからも。

2005年 3月 13日 月曜日 白サギ

 細い川が道沿いに流れています。白サギが見えました。この辺りの川でよく見かけます。白く細い容姿。一羽ひっそりと川の中に立つ姿は、どこか寂しげ。どんよりした春先の曇り空の日でしたから、よけいに白い姿が浮き上がるように見えました。

「白サギだ。やっぱり一羽だね。」可愛そうになりそうつぶやくと、思いがけない返事が返ってきました。「いや、二羽いるよ。」「え…?」  よくよく見るともう一羽、灰色のサギがいます。少し離れて白サギのほうを見ていました。気がつかなかった。つがいなの?親子?…サギの事を何も知らない私には解りません。それが春だから、という理由でもいいのです。「ひとりじゃない時があるのなら良かったね。」白サギは、いつでもひとりぽっちで立たずんでいるものだと思っていた私は、暖かな気持ちになりました。
…そんな風に私が勝手に人間の気持ちを重ねたりして、白サギには迷惑かもしれません。でも、やっぱり川を通るたびに、考え深げに立っている美しい白サギの姿を探してしまうのです。

2005年 2月 07日 月曜日 内側に流れる強さ (barairo-tusinより)

…褐色の固い枝に、小さな芽がついています。年末年始から雪もみぞれも降り、今年の冬は例年通りの寒さとなりました。植物達は静かに眠っているようでも、根や枝の中で、確実に春の花を咲かせる準備をしているという事です。娘の生物の教科書でも、植物がどのようにして生きているのかを知ることが出来ます。しかし理屈ではなく芽吹き、葉を茂らせ、花を咲かせ、葉を散らし、北風に吹かれ裸の枝をさらし…また黙って芽吹きはじめる…その生命の繰り返す様は、私に静かな深い感動を与えてくれます。木は黙っているから…余計なのかもしれません。 

 何も言わず陽にあたり風に吹かれる木々の姿は、私にも「そうあるべき」だ、と教えてくれているような気がするのです…。特に冬、黙って冷たい風に裸の枝を広げる姿には「全てを受け入れ、ただするべきことをするのだ」という…この世に生きるもの達の内側に、本来流れているであろう「強さ」を感じ取る事が出来ます。灰色に包まれた冬の木々の姿は、若葉や紅葉のにおとらない姿だ、と思います。…とは言え、早く春が来ると良いですね!木々達も、きっとそう思っている事でしょう!

2004年 12月 03日 水曜日 木造校舎

中学校には二つの校舎があり、一つは鉄筋でしたが、もう一つは化石のような…古い木造校舎が残っていました。廊下も、階段も、歩くとぎしりぎしり。窓も木の枠でした。階段の手すりもモチロン木…今思うとぜいたくな話ですね。
木造校舎のおトイレは水洗ではありませんでした。暗く、寒く、幽霊が出るナンテうわさも立ちました^^。

二年生の時、二つの校舎の間に、立派な三つ目の校舎が完成しました。全校あげてのお引越しのあと…木造校舎は壊されました。その日の放課後、残っていた中学生達は、みな、壊れていく木造校舎を、新校舎の窓から眺めました。ちょうど私は職員室にいました。「あ!」と言う声で、先生も生徒も外を見ました。高い重機に押されて、大きな木の壁がゆっくりと崩れていきました。その場面を、今もよく覚えています。きっとあの時、あの場所で時間を共有した人々は、誰もが今でもその場面を忘れてはいないだろう、と思います。きっと。

2004年 10月 27日 水曜日 しろいばら

白いバラが好きです。青空の下に咲く、春のみずみずしい白バラも好きですが、秋の、ひなびた白バラが好きです。秋の白バラは、灰色の寒々しい空にも映えるようです。…灰色の背景には、白は浮かび上がるのですね。2本の白バラを並べて置いてありますが、一つは調子が悪く、もう、来年の春に咲いてくれるかどうか…ひとえに私の手入れの悪さで…可哀想なことをしました。もう1本は、いくつもの花をつけました。
山茶花の白い花も咲き始めています。うんと冷えた朝、玄関を開けると、目の前には白いバラの花びらと、山茶花の白い花びらとが、ともに秋の冷たい風に集められ、吹き溜まりを作っていました。

2004年 10月 03日 日曜日 雨の朝のキンモクセイ

おフトンの中で目が覚めると、外は雨の音がします。雨の朝。戸を閉めていても、外からほんのりとキンモクセイの香りがしました。昨日おとといの良い気候で、花のつぼみが膨らんだようです。

日曜日の雨の日のキンモクセイ。オレンジ色をした、チイサナ秋の妖精たちも、今朝はまだねむりこけているかも…あくびをしながら。それでも雨戸を開けると…甘い香りが部屋中に広がります。毎年くりかえし、風の中にこの香りを感じた時に、私の秋が始まるのかな。
今日一日、眠っていたら…? 明日はまた良いお天気になるかもしれない。そしたらそのオレンジ色をいっそう濃くして、花を咲かせてね。華やかに、光の中で…。

2004年 9月 03日 金曜日 おしろい花

おしろい花は種からしか咲かないものだと思っていましたが、ここ数年、窓の下の同じ場所から咲いています。特に今年は暑さのせいか、茎が太く、背も高く、おおきく広がって咲いていました。窓辺から部屋の中に、ボタン色の花が「コンニチワ」するぐらいになりました。花色は昨年より多く、白、白とボタン色の絞り、黄色とボタン色の絞りとにぎやか。
子供のころから親しみのある花なので、それなりに楽しんでいたのですが、毎年咲くのが水道メーターの横。特によく育った今年は、先日の雨のおかげで枝が地面を覆い、水道メーターの場所すらわかりません。

次に検針に回ってくるのはいつだろう…そうでなくてもうっそうとした庭の隅にあるメーターは、きっといつも検針の人に迷惑だとおもう…。そして今朝、思い切って切ることにしました。太いおしろい花の茎は、見かけによらず柔らかくて、簡単に手折れました。私に身をゆだねたかのように。「ごめんね、また、来年ね」と、申し訳なくて声をかけました。

2004年 7月 23日 金曜日 ははむすめ

自分の子供の頃を思い出してみる。母も悲しそうな顔をしていたのだろうか。私はふりむく事などせず、ドアをバタンと開け出て行ったっけ。あの頃は自分の事で精いっぱいだった。今朝、娘とささいな事で言葉の投げ合いになり、彼女は飛び出すように出かけて行った。
心のやり場を失い黙り込む私。あの子は、もう、どの辺まで歩いていったろうか…遅刻しないだろうか…
若い頃の私がよみがえり、そこに寄り添い、一緒に歩いている。いやいやそうではない。あの子は自分の道を歩いている。山越え、谷越え、川を渡り、歩いてる。
『ふりむかなくていいよ。でも、自分をみつめて。』それは母の願い…。私の母もきっと、そう思いながら私が開けっ放しにして行ったドアを、ゆっくり閉めていたのだろうか。ふりむかず歩いていった私にはわからない。

2004年 7月 15日 木曜日 カミナリきらい

遠雷が聞こえる。…ザァッと降って欲しい。わんが遠雷に気がついて、慌てて避難場所に向かう。避難場所には順位や使用目的があるみたい。普段は、PCの下。たいがいここに居ます。PCに座る者に、時につつかれたり(!)足の裏で撫でられたり…。誰かいつも座ってるから安心?次に食卓の下。ここは涼しいらしい。

ピカッ!ドン! わんは右往左往。カミナリの音は、わんにはどんな風に聞こえるのでしょう…早く過ぎるといいね。

2004年 6月 17日 木曜日 Gilbert O' Sullivan

テレビで懐かしい人を見た。ギルバートオサリバン。アロンアゲインがまたヒットしているのかナ。初めてあの曲を聞いたとき中学生だった。夜、文庫本を読んでいてラジオでかかった。あの頃は聞くものといったらラジオ。カセットテープ。CDもMDもビデオもまだない。DVDなど遠い遠い先の話だった。
オサリバンの曲を聴いた中学生の私は、優しい声、優しいメロディに訳もわからず感激…。何の曲…?曲が終わるまで緊張して…耳を傾ける。曲が終わったらすぐ、ラジオのDJが曲名を言う…「曲は、アロンアゲインでした。」急いでエンピツで文庫本の片隅にメモ。

次の日中学校で友人に聞く。(大学生のお兄ちゃんのいる彼女には洋楽について色々教わった…)「あ、それはぎるばーとおさりばんっていう人が歌ってるんだよ」
中学時代、情報はみんなラジオから。深夜放送、セイ〜ヤン〜グ♪オールナイトニッポン。あのねのねの本と、「かもめのジョナサン」の本が、友達の間でイッタリキタリした。かぐや姫の解散。ポールマッカートニー来日問題に友人と大人ぶって気を揉んだ…。今思えば、夢の中を歩いていた中学生。中学校の校舎は木造で涼しく、階段は歩くとギシギシ言った…。

2004年 5月 25日 火曜日 庭のあるじ

実家は相変わらずひっそりしている。ガンコな住人が去ったあと、母が静かに暮らす。庭も同じ。
手入れをするあるじをなくした庭は、母が草取りをする以外は、黙って静かに風に吹かれている。

私も今日、実家の窓から庭を見ていた。『庭の掃除の人をお願いしたの、草がたくさんはえてしまったから…』と母の声。 そう、よかった。そのほうがいいね。 と私。午後2時の乾いた風が、草の生えた庭を吹きぬける。
庭にしてみれば、誰があるじであろうと、草も、樹も…別に構わないみたい。 太陽と雨と、風があれば…。 
雑草も、それなりに、なんだか楽しそうにしているよ…。 庭の草取りを気にする母には言わず、口の中でつぶやいた。

2004年 5月 12日 水曜日 かなわなくてもたくさんある夢

乾燥した風がかさかさと葉を揺らしている木陰。気温は27℃ぐらい。時間は午前11時ぐらいか…木洩れ日が地面の上に、レースのような模様をうつしだす。サラサラ…かさかさ…優しい風が木の葉と歌う。どこかでこんな時間を過ごした事があったような…なかったような…こんな気持ちにしてくれるのは「小野リサ」さんのボサノバのおかげ…いつでも瞳の遠く遠く向こうに広がる海。白い壁の前のベンチで、木洩れ日の風を受けて過ごす。

いつか、ね…これは「かなわなくてもたくさんある夢」のうちのひとつ。どんな夢でも、夢はたくさんあったほうがいいものね。

2004年 5月 3日 月曜日  ハコベの花

ハコベの花。 庭の草取りをしなさいと言われ、庭のすみっこにしゃがみこむ私。
ぐるっと見渡すと、チイサナ私には、狭い庭も広く見えた。 土の上を吹いて来た風が、優しく鼻をくすぐった。

さっきから、ずっと手に握っているハコベはなんだかあったかい。かごの中に入れてあげよう、トリさん食べてネ! いつも、ハコベをたくさん摘んだら、トリさんのエサにする。水差しに無理やり突っ込む。  トリはビックリしてバタバタ騒ぐ。 でもホラ、食べてるよ、ね、食べてる食べてる!…おいしい?  トリカゴをのぞき込む私。そんなハコベの花の思い出。

2004年 4月 30日 金曜日  桐の花

桐の木に花が咲くのを知ったのはハタチぐらいの頃。 いつも駅まで歩く道…古家の庭にずっと前からあった木。
『ねえねえ!上を向いてごらん』って声が掛かったのかどうか… フト上を向くと、花が咲いていました。  うす紫色の花。 桐の花でした。 桐の木はどれも背が高いので、なかなか気付かないものかもしれません。
まして、あわい紫色は、5月の空の水色に、溶けてしまうように咲くのです。

時は過ぎ、今住んでいる駅の側に桐の木があります。 ちょうど5月の連休の頃、ホームから桐の花が良く見えます。

2004年 4月 29日 木曜日  山の花

生まれ育った庭のはじっこに、ウツギが咲いていました。
毎年、5月…誰も気付かずに終わってしまった年だってあったのではないか…それ程、おとなしい花。
山に咲く花は、多くがそうではないか。 上を見上げないと気がつかない花、下にかがみこまないと気がつかない花、そして清楚な色の花…
静かに誰に見られる事もなく、林の上を太陽が通り、 木洩れ日だけを浴びて咲く花。山の緑に溶け込むように咲く花。

昔…山歩きの最中、父は、山の花の名前を私に教えて歩きました。 家族の中で私が、一番そおいう事に興味があり、一番おとなしく話を聞いていたからだと思います。 うちにあったウツギはスイカズラ科のハコネウツギでした。落ち着いた静かな花でした。 ウツギは空木と書くそう、木の枝の中が空洞なんだそうです。 ウツギには数々あり、スイカズラ科、ユキノシタ科、バラ科などに分かれていて、皆ウツギと呼ぶそうです。
先日、ウツギを買いました。 ユキノシタ科のサラサウツギと姫ウツギです。

04.04.26(月)  あんずの花

あんずの花は、昔の庭の真中にありました。毎年毎年、私はその花が咲くのを待ちました。その花が咲くと、やっと冬の終わりが見えてくるからです。たいていは2月の後半に咲きました。二階の窓から、赤いツボミが良く見えました。

やがて、花開いた日には、その事をかならず日記に書き込みました。その頃には、まだ雪も降り、あんずの花びらにも雪が積もりました。寒そうに、心もとなげに、冷たい雪を背負い咲いているあんずを可哀想にと思いつつ
早く春が来る事を願い、眺めていた事を思い出します。

04.04.25(日)  五色ツツジ

私が小さい時、父が連れて行ってくれたお寺の植木市。美味しいくず餅を食べたあと、
めったに子供にモノを買わない父が、これはお前の花にしよう、と買ってくれたのは、五色ツツジのちいさな株でした。
庭の真中で、あまり大きくならずに数年間咲き続けました。白や薄ピンク、濃い目のピンクなど、とりどり清楚に咲く姿が好きでした。