水の輪

左の薬指が痛い。
ひたひたと、心にさざ波寄せるたび、いろいろな理由を探しては自分慰めてきたが、もう自分の言葉に耳を貸すのに疲れ果てた。

午後三時。黄ばんだ木綿のソファに横たわる、世界中の誰からも忘れ去られた漂流者。
いつの間にか板張りの床が水をたたえている。ソファにうつ伏せそっと手を浸せば月の輪郭のような水の輪が、幾重にも静かにどこまでもあとを追い広がる。

片腕で水を軽くかけばソファはすい、と霧の中へ漕ぎ出す。
柳の枝が揺れている。薄もやのかかる方向から吹いてくる微風は眠りをさそう甘い香り。ゆらりゆらり水面を揺れてさまようだけで、目的地はわからない。

目が覚めるとやはり薬指は痛かった。夢ではない。老医は首をひねる。
昔、バレーボールでくじいた事はありませんか…? 見当違いの問いかけだった。あの水の輪が広がり、今度は輪の淵はパチリとはじけて消えてしまった。言葉を捜しうつむく。老医はしびれをきらしたように、まぁ今は如何ともし難い、様子を見ましょうとメガネに手をやる。

…もっと新式の技術のある新しい整形外科を選べばよかった。
後悔しつつ会計を待っていると、お手洗と書かれたドアの奥に、らせん形にカーブした階段がある。立ち入り禁止と書いたボール紙がぶら下がっている。すすけた階段に色つきの影が映っていた気がしてもう一度覗き込むと、高いところに大きくて古いステンドグラスが見えた。

表の駐車場に面していたなら目に入っていたはずだが記憶にない。
幼い頃、読んだ異国の教会にもこんなのがあったと思う。確か白い魔女と黒い魔女が出てくる絵本。支払いしながらほの暗いその空間を見あげていると、化粧のきれいな老いた看護婦が「昔そちらは入院棟だったの」と優しく教えてくれた。

駐車場には三色の矢車草があふれるように植えられていた。
ステンドグラスのむこうにある異国の教会にも咲いていたろうか。花の色は、あいまいで懐かしい、記憶の底に流れているような青、透き通る薄紫、そしてベビーピンクたち。妖精の格好をして踊っているかもしれない。あのもやのかかった柳の水路のむこうで? いやいやそれは考えすぎだろう。

しかし、お昼過ぎにソファの上で柳を揺らしていた、あの甘い香りが鼻先によみがえり、車のキーを差し込むまでの間、胸には安らぎの感覚が溢れていた。そういえばしばらく左の薬指の痛みも忘れていた。

そうだ、自分に言い聞かせる。
指の痛みなど初めから気のせいだったのかもしれない。矢車草達は、左折して走り出す車のほうを黙って眺めながらあどけなく夕方の風に揺れている。