淋しがり
 
 
 
 
 
 この世、と呼んでみる。ナツノ、と呼んでみる。いま、どうしても意識せざるを得ない存在がある。私には、私がナツノなのだ、という意識がどうしてもある。私という意識は、ナツノという意識とイコールである。別の存在が私とイコールになることは、ないように思う。

ナツノの存在を私だと意識できるあいだは、きっと私はナツノなのだろう。

いったい何がそう思わせるのか。ナツノという名前で呼ばれる、ナツノの意識を持つ肉体が存在する、その、どの部分がナツノを識別しているのか。

この世の森羅万象、見えるもの見えないものを私は私の中にとらえようとする。五感とそして心と呼ばれるものを通じて。なぜだろう。でくのぼうのようにただ肉体として存在しやがて朽ちてゆくだけでは満足できない私という存在とはなんだろう。何十年も肉体の中で繰り広げられる心のつぶやきと対話。

 心はつぶやいている。ナツノの存在を確認したくて。この肉体が朽ちるまで、心は肉体を支配している、たぶん、心は肉体を愛している。ナツノだと意識する心は、心の入っている入れ物、つまり肉体をしっかりと繋ぎ止めたい。私が私の中にこの世の森羅万象をとらえようとするは、その確認作業のため、なのではないか。

心は森羅万象と交信し、柔らかいスポンジのように感覚や感情と呼ばれる意識を内に取り込もうとする。それだけでは飽き足らず、文字と言う記号にその意識を変換しようとさえする。

心はなぜそこまでするのか、心は己を入れる肉体のタイムリミットを知る事は出来ない。少なくとも表立った意識としては。しかし、肉体が朽ち果てる足音だけはわかる。だからいつでも心は存在の確認のための作業に忙しいのか。

心はおろかだ。入れ物が朽ちても心は残るのではないか、それでいいではないか。確証がないから? それも不安? 今のうちに肉体を操り、ナツノの存在を記録しておきたいのか。なぜそのように思うのだろう。

だから詩を書いている、淋しがりで臆病な「ナツノを意識する心」と呼ばれる存在が、己の心がナツノの肉体を借りて、ある時期、この世と呼ばれる場所に存在したのだろうと、「自己確認」するために。あわよくば、己以外の別の心と肉体にまで、ナツノが存在したことを意識の片隅に記してもらえたら、少しだけ、淋しくなくなるから。

この世への未練。肉体の存在への未練。ただ、ナツノの心がナツノの肉体を、愛しているから、私が詩を書く理由はそれだけなのだろう。