冬のカナリア
 
 
 
 
 夜半過ぎ、小さな呟きが聞こえたような気がして、夢のがけの淵にいた私は、現実に引き戻される。それは隣で寝ている愛犬のため息のようにも聞こえたけれど、頭の上から再び聞こえたので窓辺のカナリアのものだとわかった。ひとすじ薄く冷たい光が差し込んでいた。カナリアは厚いカーテンの隙間から、北風に吹かれて澄み切った空に浮かぶ月を見ている。「喉に砂粒がつまって歌えません」。飲み込んでも、飲み込んでも、喉の砂粒が消えません。

 

 翌朝、カナリアは居なかった。夢だった。私は喉に違和感を覚えた。嫌な予感、いや今朝のトーストがつっかえただけだ。台所で、残った紅茶を飲み干す。それからは、喉のつかえが気になり家事も仕事も手につかなくなった。

 

 数日後、カナリアはまた呟いた。「胸に砂粒がつかえて歌えません。もう、呟く事も出来ません」私はいつからカナリアを飼い始めたのか…。顔の両側に目がついているものは鳥に限らず、全て嫌いだったはずだ。自分の目が両耳の辺りについていたらと想像するだけで気が狂いそうになる。

 

 朝になると肋骨が痛んだ。カナリアのみかん色に震える毛を思った。胸のつかえは取れず、水を飲めるだけ飲んでみた。2リットルペットを日に1本、次の日は耐え切れず2本飲んだ。水は私の喉を通り抜ける時、窮屈そうに身を縮めた。苦しくなるまで飲んでも、喉と胸の砂粒は消えなかった。コップを握りしめたままで一日を過ごした。水は私の中いっぱいに溜まり、私の身体は大きな水瓶になったようだった。砂粒はといえば、流れ出るどころか水瓶の底で、かえって身を固くしてじっと留まっていた。

 

 夜を待つ。知らぬ間に堆積した私の中の砂粒の、あまりの苦しさに夢に現れたカナリア。でもわかって。誰にも言えないのだ。言ってはいけない。生きる為の暗黙のルール。時計の針が静かに右から左へ動く間にひっそり積もる。拭いきれない、目には見えない生活の澱であって、心の向きと現実世界のズレの間から滲み出る。生きていれば仕方なく溜まるものだと諦めていた。そんな時、いつでも空を見上げてきた。空は何も言わず、行き場のなくなった私の想いを吸いとってくれたのに。

 

 カナリアはもう黙っていた。顔の両側についたまるい目で悲しそうに夜の月を見ていた。私は居ても立ってもいられなくなり、かごを抱えると、扉を開け何度も揺すった。カナリアは扉の前で戸惑うようにしばらく左右に揺れるがままにしていたが、ふと、思い切ったように飛び出すと、ガラス窓のすきまから月明かりのきらめく闇へ飛び去った。あっという間のことだった。

 

 厚いカーテンを揺らし夜風が頬に吹き、夢から覚めた。ベッドに座りカナリアのことを考える。明け方には、凍った朝露に濡れて命は絶えてしまうだろうか。あなたが私の身代わりに死ぬことで、水でいっぱいの私の水瓶は割れるか倒れるかして、砂粒とともに、すべてが流れ去るのだろうか。朝が来たら私の胸のつかえも、喉のつかえも取れているのだろうか。