千葉県松戸市に住んで22年。関東で人気の街は横浜。
昭和の末期、就職で関東に来て、大田区多摩川、東急目蒲線矢口渡駅近くの会社寮、二人部屋から関東の生活が始まった。会社の新人イベントが茨城県日立市であり、その移動バスの隣に座った同僚から「関東はもう、都内は住めないよ。地価も高騰して一戸建てなんて無理。」長崎では英彦山の中腹に住んでいたため、そうと知っていたら田舎が良かったなと一瞬思ったが、まあ自分が決めた道。それからも真っ直ぐ4K(キツイ、・・・)と言われたシステムエンジニア業に猛進した。会社で家内と出会い、茨城県土浦市の家内の実家から、東京を結んでどこまで近づけるかと、常磐線沿線の分譲マンションを模索した。天王台、我孫子、北柏、柏、南柏、松戸。選んだのは千葉大園芸学部近く、徳川15代将軍慶喜の弟、昭武が明治まで住んでいた戸定邸の近くの高台。窓から、隣の部屋が見えるのは嫌だ。長崎人のこだわり。眺望、隣の家があっても見えるのは屋根。住んで気付いたが、夕暮れは富士山が浮かび上がる。東京タワーも見え、スカイツリーも建設され、夏場は江戸川、荒川、隅田川、各所での花火大会が見える。交通も格段に進化し、通勤には始発も魅力だったが、つくばエクスプレス、上野東京ライン開通で混雑も緩和され、この6月には外観自動車道松戸ICが開通する。ゴルフへの移動も楽しみだ。
長崎の実家は、父が20年ほど前に他界し、実家の周囲、親戚はほとんどの男性が先立ち、70-80代のおばあちゃんばかりとなった。弟も北九州に所帯を持ち、母独りである。母の姉妹、友達が多いが、英彦山の中腹に訪問できる体力が皆無くなった。電話するたび、話し相手が減ったためか、キレが無くなり、いよいよ下界(マチ)への引越を3年前に決断した。同じ境遇の方も多いと思うが、古い家、荷物整理も大変だった。今は長崎の中心街で元気にしている。
さて松戸の我が家は、息子二人も成人、まだ同居だが、次のスタイルの模索が始まる。そもそもマンションって何年持つの? まさか軍艦島みたいになって行かないよね。77戸8割方が同世代で高齢化が進む。時間は余裕が出て来ているが、20年後?は思考停止しがちである。その内、片方が先立ち、高齢者一人暮らしが増え、賃貸や空き家が増え、管理費、修繕積立金も集まりづらくなる。マンションは管理組合員で集めた修繕積立金で、建物の老朽化に対処するが、年次を重ねると費用もかさみ、コミュニティの劣化もより心配材料である。
景気が回復し始め、共働き世帯も増え、23区、山手線圏内への都心回帰が始まっている。一生に一度レジデンス、タワマン、ヒルズもイイねと一瞬憧れる。1か月くらいなら折角の東京、住んでみたい。
家内のご両親も80前後となり、今度の車検でクルマ生活も終了しようとしている。長崎の母を見ていると、高齢者は街中で生活した方が元気に暮らせる。荒川沖駅近くか、松戸駅近くか。コンパクトな長崎市内での引越しと、県を跨る引っ越しはコミュニティを作り直す必要もある。関東は交通機関が高度に発達しているだけに広い。元気な高齢者でいてもらいたい願いは共通だが、心配はつのる。年金制度、住宅、墓地等、50~100年レンジのテーマは自身が元気なうちは良いが、その次世代、親とのコミュニティを考えると見通すのは難しい。その分、変化を受け入れ、その都度柔軟に考えることが大切と感じる。思考停止にならないようしたい。
この記事は、関東同窓会の方には普通に共感をいただけると思う。一方、若いうちは都会に憧れたが、長崎をずっと住まいにしている方には、違う感じ方になるのかもしれない。それでも、その時々のご縁を大切に、前向き、一生懸命生き、楽しめること、これさえできれば、どこでも住めば都、貴重な人生を積み上げていくことができると感じている。カナダ人の奥様と出会ったり、ドイツ駐在の同級生に比べれば大したことない(笑)

21回生 横井 慎一

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 JRは「電車」じゃなか、「汽車」!
           会長代理 小岩寿樹
 「どうして長崎の人は、JRの列車を汽車って言うの?」。
素朴な次女の質問に答えられない私。確かに、JR山手線は電車です。
長崎本線は何十年も前に電化されましたので、「かもめ」も電車の筈ですが、長崎では「汽車」と呼びます。電化前がディーゼル車で、その前が蒸気機関車ですから、「汽車」と読んでもおかしくはなかったのでしょうが、
長崎人にとっては「電車」と言えば、やはり「蛍茶屋」から出ているあのチンチン電車で、「かもめ」は汽車かな・・・?
母の一周忌法要で、今年の四月に長崎に帰郷しましたが、その時「赤迫」行の電車に乗り、中吊り広告を見ました。
なんと、今年の八月一日から、13もの電停名が変わるそうです。
そう言えば、昔は「浦上車庫前」行きは「西町」行きでした。「桜町」も「小川町」でしたよね。新地バスターミナルの前には「入江町」という電停がありました。
今回は「賑橋」が「めがね橋」に、「市民病院前」が「メディカルセンター」になるそうです。
「正覚寺下」が「崇福寺」になったら、電車の行先名も変わるのでしょう。それならバス停の名前も変わるのでしょうか?高校時代に通学していた時。目にしていた停留所の名前が変わるのも、ちょっと寂しいですね。
でも、一番ガッカリしたのは、「築町」が
「新地中華街」に変わってしまうことです。
最近、外壁が?げて落ちてニュースになった
「メルカ築町」は、昔は魚の匂いのする築町市場でした。『あの場所こそ「築町」とに、なして十八銀行の前に電停のあっと?』。
私の素朴な疑問で、しかも、今のあの場所の住所表示は「銅座町」ですが、『なして「築町」って言うと?』
 それは、「出島表門橋」まで巻き込んだ、長崎の歴史の中の大きな出来事に由来しているからなのです。
その経緯を聴きたい人は、ぜひ、七月七日の関東同窓会に来て下さい。たっぷりと蘊蓄を話したいと思います。
みんなで、「ああ懐かしかねー」という話をしましょう。昔の「織姫」と「彦星」に会えるかもしれません。そして、十八歳の時の長崎の街と、そこで輝いていたあなたに会って下さい。
               〈了〉 

10回生 小岩寿樹
 

           

還暦そして帰郷
今年、とうとう還暦を迎える事になった。人生が一巡したのだ。短大卒業後、就職で東京に出てきて三十九年が過ぎたことになる。就職した会社で定年を迎えるとは思わなかった。この三十九年間が長かったのか短かったのか。二十代は、不安と期待の中必死に働き、ダンスに夢中になった。三十代は、海外へ旅行することを覚えた。四十代に掛けて日本芸能全般特に歌舞伎にはまった。毎月歌舞伎座に通いつめた。その合間に寄席・文楽・狂言と忙しい日々を過ごす事になった。五十代は、同窓会幹事回生の時に再会した多くの十四回生と旧交を温めた。定期的に催されるハイキング・花見・バーベキュー・忘年会と飲み会、本当に楽しい時を過ごした。振り返ってみれば、いろいろ辛く苦しいこともあったはずだが、思い出すのは楽しい出来事と、友人達と過ごした多くの時間だ。関東同窓会を通じて出会った先輩、東京で新たに知り合った友人、長崎にいる友人、多くの友人達との親交が、私のこれまでの人生をこころ豊かにしてくれたと思う。出会った多くの方々に心よりの感謝を伝えたい。さて、話は変わるが、定年退職を機に長崎に帰郷することにした。高齢の母と暮らすためだ。足が弱った母は、あの坂道と階段が辛いと言う。まだ元気に暮らしているので傍に居て多少手助けできれば私も安心できる。東京は、多くの文化的情報に溢れ、いつでも何かに触れられるのが魅力的だが、歳か、あり過ぎることに疲れて来た。長崎は何もないと言う友人もいるが、それはそれで楽しみ方があるだろう。いざ住み始めるといろいろあるのだろうが、その時はその時だ。学業終了と同時に長崎を出た私は、あまり長崎を知らない。一番遊び回るときに居なかったのだから仕方ない。帰郷後は、ゆっくりと長崎をさるきたいと思う。たがまずは、今年長崎で行われる、高校・短大の還暦同窓会を楽しみたいと思う。

14回生 黒岩ヒトミ

「日本史と西郷どん、そして長崎」
高校時代の選択で今でも悔やんでいることがある。それは3年生の時に日本史の授業を選択しなかったことだ。まずそのせいで男子クラスになってしまった。それまでの2年間は男女クラスだったので、男子クラスの味気なさは正直こたえた。社会人になってからも日本史を良く知らないことは常識がないことと同義であり、コンプレックスとなった。
昨年、書店で「いっきに学び直す日本史」という書籍を見つけた。表紙には元外務省の佐藤優氏の大げさな推薦文が踊っている。曰く「外務省時代肌身離さず読んだ。1冊で200冊分の教養が得られる」などと素晴らしい宣伝となっている。冒頭に書いたようなコンプレックスを抱いている身としてはひとたまりもない。思わず購入してしまった。時間はかかったが今年に入って分厚い上下巻をようやく読み終えた。これでやっと普通の人の常識に追いついたのかと思うと、ほっとすると同時に知らない(忘れてしまった?)ことが多いことにも驚いた。
さて今年の大河はご存じのとおり「西郷どん」である。幕末の活躍を毎回楽しみにしている。「西郷どん」を見ながら、幕末から明治維新にかけての偉人が薩摩・長州・土佐からは多数輩出しているのに、何故長崎からは出なかったのか?疑問に感じた。早速「いっきに学び直す日本史」の長崎の記述を読直したり、ネットで調べたりしたが、肝心のところが良く分からない。手柄を全部隣の肥前藩に取られたのか?長崎人はお調子者で政治には向いていないのか?などと迷想していた。
たまたま4月28日のハタ揚げ大会で前会長の小岩先輩と会話する機会があったので私の疑問をぶつけてみた。小岩さん「それは簡単。長崎には武士がいなかったからね。むしろ長崎の商売人は幕府体制のおかげで得られる利益を守っていたと思うよ。」と嬉しそうに教えていただいた。確かに一理ある。小岩さんは日本史にも長崎の歴史にも詳しいので、このようなことは常識らしい。どうやら参考書を1冊読んだくらいでは、歴史の常識を構築するのは難しいようだ。まだまだ学習することは多いと考えたら少し楽しくなってきた。定年後の趣味として歴史研究しようかと思うこの頃である。

11回生 江 勝弘

 長崎で生まれ育った時間よりも関西での生活が長くなりました。関西にいると同級生と会うことも少なくなっていたのですが、五年位前にFBで同級生と繋がってからは関西在住の同級生と集まったり同窓会にも参加するようになりました。
関西には同級生のお店があり、長崎や関東方面からお仕事などで来られた時などに同級生が集います。学生時代は話したことがない人たちとも最近になって会うようになりました。
 東京での同窓会は遠いため迷っていましたが、なかなか会えない親友と会いたいこともあり思い切って参加することにしました。
いざ東京へ・・・私は酷い方向音痴なので新幹線に乗っている間中ドキドキしていました。
有楽町駅で待ち合わせしていた友人たちの顔を見てホッとしましたが、なかなか緊張感は抜けずにいました。
会場に入るとミラーボールがキラキラ(さすが幹事バブル世代)そして長崎弁が飛び交っていました。懐かしい先生や同級生と長崎弁で話していると、いつの間にか都会にビビッていたことも忘れていました。
幹事のО君のコスプレ・会場の雰囲気を盛り上げるバーベキュー・校歌・後夜祭の思い出のフォークダンス(振り付けにジェネレーションギャップはありましたが・・・笑)と幹事の皆様が何度も集まって企画してくれた同窓会は素晴らしかったです。
幹事の皆様本当にありがとうございました。
思いがけない人に会えたり、初めましての感じの人とも何次会まで行ったのかわからないほど楽しい時間を過ごすことができました。
南高での思い出は私の中では制服のグレーの色のような青春時代だと思っていましたが、楽しかったこともほろ苦い思い出も色々あったなあと振り返ることができました。
世代の違う方ともご一緒させていただき賑やかな楽しい同窓会でした。改めて南高の卒業生で良かったと思いました。
 先日私も50歳になりだんだん体力の衰えを感じるお年頃になりましたが、また皆様とお会いできる日を楽しみに頑張りたいと思います。皆様もお元気で~!!

24回生 肥塚智子/橋本

「高校の時好きだったけど、結局その想いも告げられず卒業。それっきり会うことはなかった。関東にいることはわかっているの・・・。今日会えるのかしら・・・。」
そう、ここは日比谷。明治維新以降、日本初の西洋式ホテルである帝国ホテル、鹿鳴館、東京倶楽部などが建設され、近代化を象徴する街となった。明治時代には上流階級の社交場として発展。そして、明治維新からちょうど150年。日比谷公園近くのとある社交場(Club)に、遠く長崎に想いを馳せながらコンクリートジャングル(?)の関東で懸命に生きている長崎南同窓生1回生から44回生が集まった。(なんとその差43歳!)
バブルを謳歌した人、弾けた後でその恩恵も受けることなく、不況の荒波から社会人がスタートした人、そんな色んな世代が今宵一緒に、音楽のリズムに体を委ね、グラスを傾け、懐かしい日々を思い出そう。そう、今日は年に一度の関東同窓会。同期も関西など遠方から駆けつけ、否が応でもボルテージは上がる。”Are you ready ? Let’s dance!”
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図々しく度々from SOUTHに登場している24回生の大久保です。長崎から5年ぶりに東京へ戻ってきて、幹事長(?)の大役を仰せつかり、集まったのは男ばかり・・・。「なぜだ、俺が幹事長だからか!?」月一で集まるうちに女性も来てくれ多少安堵。
会場のコンセプトは「非日常」演出は私の趣味(?)で「コスプレ&大人の魅惑」耳でだけはなくて、全員バニーガールにしようと思っていたが、女子から反対があり断念!(男子先輩方申し訳ありませんでした!)やはりフォークダンスは鉄板だった!(花火の画像も見て頂けましたか?)今回の一押しの景品は「先祖代々供養を受けられる賞(東長寺様提供)」だったが、割と若い方が受け取られて、この賞を使うまで先は長い・・・。
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そして、夜の帳が下り、日比谷公園はしーんと静まり返り、それとは裏腹に近くの銀座には灯りがともり始める・・・。
「泣くのに弱いぜ そろそろ帰ろう㊚
そんなのいやよ ラストまで㊛
踊っていたいの㊛ 東京~ナイトクラ~ブ ♬♪㊚㊛ 」
(皆さんは、この最後のBGMにはお気づきでしたでしょうか・・・?)
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最後に、前田さん、小川さん、江さん、野村さん、松田さん、山本さんの諸先輩方々、ご多忙中私どもの幹事会にお越し頂き、ご助言などを賜り誠にありがとうございました!

24回生 大久保 将

先輩よろしく!

船橋に転居して8年。関東在住の長崎出身の方との出会いをきっかけに、様々な"長崎"に関わるイベントに参加しています。
毎月の関東くんち塾に、4月に行われる大田区多摩川でのハタあげ大会、長崎伝習所在京塾・和華蘭研究塾、県人会等々…
長崎人が集まれば自然と長崎弁が飛び交い、ほっとする場所と化します
昨年初めて参加した長崎伝習所在京塾・和華蘭研究塾では、長崎文化の象徴となっている"和・華・蘭"それぞれにスポットを当てて、長崎から講師をお招きし、歴史の背景や人物、現在に至る流れなど様々なお話を聞くことが出来ました。それを元に【和】【華】【蘭】毎に、これまでにないガイドブックを作ろうと、塾生皆でアイデアを出しあい、成果物を作り上げました。塾生の中には、もちろん南高の大先輩たちもいらして、こちらに居るからこその出会いで、色んな場面での語らいが出来ることに感謝しています。
諸先輩方、これからも宜しくお願いします。


17回生 南部順子

長崎南高校関東同窓会

東京赴任中は大変お世話になりまして誠に有難う御座いました。お陰様で、奥多摩などの綺麗な山とてんぷら、芋煮などの美味しい食事を楽しむ事が出来ました。誠に有難う御座いました。改めて厚く御礼申し上げます。
さて九州へ戻って1ヶ月ほどになりますが、毎日久留米まで車通勤しております。夜は私の方が1時間ほど早く帰宅しますので、毎日晩御飯を作ってカミサンの帰りを待っております。朝のりんごニンジンジュースも私が作りますので、基本的に、朝も夜も私:作る人、、カミサン:食べるだけの人の構図になっております。毎日、午後4時を過ぎると、今日は何を作ろうかな~、などと考えるようになりました。(笑)
ところで明日からの連休は、天気が良さそうですね。ハタアゲ大会にも沢山の方がお見えになると思います。残念ながら私の方はハタアゲには参加出来ませんが、地元福岡タワーの横で開催される「九州地ビール祭り」へ行く予定です。結構多くの地ビールメーカーが参加しており福岡のGWの名物行事になっています。
連休後半は、東京の孫を見に行く予定です。神奈川の娘のアパートに泊まる予定ですが、カミサンと娘は布団に寝るようですが私は寝袋を持参する予定です。それも楽しいかも、、、と思っております。
九州へ戻っても、相変わらず中国関連の仕事をしておりますので、時間的に余裕があります。皆様が九州へお見えになる時は、会社を休んで御一緒させて頂きますので、どうぞ宜しくお願い致します。
それでは皆様、どうぞ楽しいGWをお過ごしになられて下さい。

09回生 梶原 茂

楽しかった。楽しすぎた。昨年の同窓会。関東支部の同窓会は卒業してすぐの大学生の時に1回行ったきりで、ずーっと行けてなかった。その時に誘ってくれた友達が、また今回も声を掛けてくれた。あの時から、もう30年以上経つ。。いつもアリガトウ!!あなたには皆んなが、とっても感謝しているよ。

久し振りすぎて、「みんな私のこと分かるのかな?」とドキドキしたけど、懐かしい顔、声、長崎弁…皆んなあんまり変わってない、南高の雰囲気・空気、目の前の同級生達と同時に頭の中に高校時代のたくさんの情景が次々と浮かんでくる。私の記憶は高校時代を飛び越して保育園の頃にまで及び気分はウキウキと弾み楽しく話ができた。
同窓会当日は受付を担当した。同じ24回生の男子と共に、お揃いのバニーの耳をつけ張り切って皆様のお出迎えに励んだ。お世話になった先生方も来てくれた。元気なお姿がとっても嬉しかった。握手をしてもらった時は、色んな気持ちが混じって涙が出てきた。
ところで目の前に座ってお向かいで共に受付をしている男子は高校時代、理系女子数名で「文系のかっこ良か男子ば見に行こうで」と理系の教室から文系の教室まで、こっそりお顔を拝見しに行った君ではないのか??…急に思い出した。目の前のお顔と高校時代のお顔がピッタリ重なり「あーっ」と叫んで立ち上がりそうになった。

受付も終わり、たくさんの皆様がいるホールに行き暫くするとH a p p y Bi r t d a yの大音量が流れ出した。「あー私も誕生日なんだよなぁ」とぼんやり思っていると、「誕生日の方は上がって〜」という司会の声!!皆んながお祝いしてくれた。大きなケーキを切り分けてもらい本当に幸せいっぱいの気持ちでパクパクとたいらげた。とっても美味しかった。美味しすぎた。絶対に忘れられない。

二次会、三次会後も帰りたくなかった。皆んなも楽しそうだった。
この日、再会するまでの長い間みんなも色々、いろいろ、イロイロな事あったんだろうな。。でも元気そうで良かった。。また皆んなに会いたい。。
本当に思い出深い一日。いじで楽しかったーー。

24回生 正木美奈子/松村

関東同窓会 準備の日々をふり返って

2017年7月1日(土)。休日だがいつもより早く目が覚めた。今AM5:30くもり。『雨が降らなければいいな?』と思いつつ、スマホでチェック。何とか持ちそう。
今日は南高の同窓会の日。2月から準備を始め、幹事にかこつけて度々プチ同窓会を重ねてきたが、今日でひと区切り。
『幹事のみんな、もう起きたかな?』と考えながら、早く目が覚めてしまった小心者の自分が可笑しくなった。
<準備の日々をふり返って>
(4月 会場決定)
東京で屈指のクラブ『CLUB DIANA』に決定。日比谷駅構内でJR有楽町駅からも近く、参加者ができるだけ迷わない会場を選んだ。圧巻の広さに『ここしかない!』とビビッと来た。
(5~6月 余興の準備)
『男女1人ずつの司会にしようか?』、『男性がボケで、女性がツッコミ?』、『余興は何にする? ビンゴゲーム?』、『景品揃えるの大変じゃ?』など意見も活発になってきた。 
(7月1日 同窓会当日)
AM7:30。目を覚ました幹事仲間からのLINEやメール、電話など、連絡が活発になってきた。準備は万端。あとは司会の大久保くんのキャラクター次第。スベっても盛り上げよう(笑)
AM11:00。会場近くのファミマのイートインに集合。食事を摂る人、コーヒーを飲む人、それぞれにリラックスモード。事前準備に加われず当日に合流した幹事も、みんな前のめりの打ち合わせ。いいねぇ、ワクワクが止まらない。
『幹事も同窓生、みんなで楽しもう!』を合言葉に一致団結。試合前の円陣みたい(笑)
 PM13:00。受付開始。
同窓会は南高で過ごした仲間との再会の場。卒業したての人も、年数の経つ人も、普段忙しい人も、悩みを抱えてる人も、この日は昔に戻り、希望を思い出す日。余興は手作りのフォークダンス。後夜祭で見上げた夜空を、みなさん思い出していただけましたよね。。
PM16:00。一次会終了→2次会へ。
2次会場は通りを挟んだ『塚田農場』。幹事も一息ついて楽しんだ。
『初めて来た!。楽しかった。』、『来年はいつ?、まだ決まってない?』、『明日休みよね?、もう一軒行こう!』とそれぞれ。参加者の方々が明るい表情で帰途につく様子に、とても心が和んだ。
卒業して30年。再会した旧友と、楽しく準備できた事が嬉しかった。現職をリタイアした後に、みんなで新会社ができそうな気がしたくらいです。
 幹事のみんな、お疲れ様でした。楽しかったね(笑)
 また、なんかやろうね。
《これから幹事の順番が来る皆様へ…》
断言します。幹事になると、参加者に負けないくらい楽しめます!。その後の交流も深まります!。同窓会を機に、これまで以上に人生を楽しめる事でしょう。

24回生 竹内 暢夫

会報フロムサウス第33号
(2018/05/00)