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鼓動は心臓より寧ろ耳元でうるさい。 どくどくと血の巡る音に、葉ずれの音どころか自分の呼吸さえも掻き消される。彼女は目を閉じて、荒ぶる脈動に聞き入った。 吹く風には微かに土埃と、そして焦げた草の匂いが混じっている。乏しい月明かりでも、彼女の足元で口を開けた無数の爆発痕の陰影を浮かび上がらせることは出来る。傍らの川縁など、吹き飛ばされて形が変わってしまった箇所が幾つかあったが、こちらは流れる水がそれを自然なものに変えてくれるだろう。今はそこに、流れが変わって入り込んだ水が渦巻いている。 戦闘の跡がまざまざと残るそこで、彼女は一人、佇んでいた。そして、待っている。 果たされる筈の約束が、現実のものとなる時を。 不意の襲撃だった。 それまで平和そのものだった森に、突如現れた十数匹のデーモン。野宿の最中で、周りに巻き込まれる者がなかったのが、せめてもの救いだろう。一日中歩き詰めて疲れ切ったところを狙われたことには、甚だしく不快を誘われたとしても、だ。 唐突に生まれでた気配を感じ取り、二人は同時に行動を起こした。リナは、呪文を。そしてガウリイは剣を。それぞれの武器を敵の前に翳し、時を待つ。 「来るぞ!」 ガウリイの合図に数瞬遅れて、木立の間に炎が生まれる。飛来した炎の矢は、左右に跳んで躱した。 「烈閃槍!」 リナの放った魔力の槍は、木々を掠め飛んで光の筋を残した。ぐあ、と闇の奥で、獣の悲鳴が起こる。 当て推量ではなった魔力は、しかし自棄になってのものではない。ガウリイは既に、その光を追って駆け出していた。一瞬の閃光で浮き上がった敵の姿を捉えて、彼は剣を振るう。ガウリイが立て続けに二匹を屠る頃には、リナは次の呪文を唱え終わっていた。 「明かり!」 太陽をそのまま小さくしたような眩い光は、焚き火の作る柔らかな陰影を消し去り、辺りに隠れていた全てを浮き彫りにした。 ――囲まれている。 気配で感じ取っていたことを視覚でも捉えて、リナは表情を厳しくした。しかし、怯えるほどの数ではない。唇は既に打開策を探し、次の呪文を紡いでいる 「塵化滅っ!」 タイミングを察して大きく跳び退るガウリイと入れ違いに、魔術はデーモンを塵に変えた。 このままでは、不利だ。 戦いに慣れた頭は、冷静に判断する。野営地は幾分開けているとはいえ、ここは森の中。木々を掻い潜っての戦闘は、決して楽なものとは言えない。 少し言った先に、川が流れている。先程水を汲みに行った時、広く川原が広がっていたことは確認済だ。どうにかそこまで、移動できれば。 「ガウリイ!」 呼び声一つを残して駆け出したリナの意図は、ガウリイにも分かっている筈だった。すぐに肯定が返ってくると見越していたリナだが、今回は少し違った。 「リナ、気をつけろ! まだ親玉が隠れてる!」 退路を阻むデーモンを倒しながら、ガウリイがリナに並ぶ。 あり得ないことではない。こういったデーモンの襲撃には、大抵、それを操る魔族が影にいるものだ。自分にはその気配は分からないが、ガウリイが言うのなら間違いないだろう。そして彼が、その忠告をしながら、こうして自分に寄り添うように駆けているのは。 (つまりは、そこそこの強さの奴ってことね) 「青魔烈弾波!」 真横から爪を振り上げてきたデーモンガ倒れる様すら見届けず、リナは口早に告げた。 「こっちはあんたに任せるわ。あたしは先行するから」 「リナ!」 ガウリイの声は非難めいていて、リナはわざと声を明るくした。 「大丈夫だから。援護、宜しく」 「……分かった」 ガウリイにも、分かっているのだ。魔族に対する切り札はリナの方が多く、そしてガウリイは一対多の戦いに慣れている。二人でデーモンを倒し続けて、闇雲に体力を消耗するよりも、リナが先行した方が効率が良いのだ。 「無茶するなよ、リナ! すぐに追いつくから」 声と共に、併走していた金髪が消える。それまでの疾走を感じさせないほど唐突に足を止め、ガウリイはぐるりとリナに背を向けた。追い縋るデーモンに向け、剣を翳す。 「分かってる! じゃ、後でね!」 ちらりと振り返ると、ガウリイはまだ、肩越しにこちらを見ていた。 (全く) リナは苦笑する。彼女の保護者は心配性だ。 あの調子なら、本当にデーモンを全滅させて、すぐにでも追いついてきそうだ。それまでに、自分の分担くらいは片付けねば。 (さもなきゃ、本当に保護者になっちゃいそうだわ) 誰が、大人しく守られてばかりでいるものか。 魔族との戦いよりも、寧ろそちらの勝負に挑む気分で、リナは走るスピードを上げた。 森を抜ける直前、リナは足を止めた。 は、は、と肺そのものから呼気を吐き出しては、代わりに冷えた酸素を取り込むことを繰り返す。 目指していた川原は目の前だ。ガウリイはデーモンを川原まで誘導せずに、森の中に留まっているらしい。リナに戦い易い場所を譲ってくれるつもりなのだろう。おかげで、心置きなく大技を繰り出せる。 呼吸が整うと、リナは茂みから身を躍らせた。 「いるのは分かってるんだから、とっとと出てらっしゃい! それとも、人には見せらんないような姿しか取れない小物なのかしら!?」 あまり知られていないが、魔族は存外に単純な性質だ。案の定、見え透いた安い挑発に、しかし魔族は姿を現した。 「我と一人で対峙しようとは……リナ=インバース、聞きしに勝る愚か者よ」 「あんたこそ、あんな雑魚であたし達がどうにかなるとでも思ったの?」 にやり、と唇に笑みを乗せる。 余裕からの笑みではない。確信だ。 こいつには勝てる。何故なら、こいつは勘違いしている。だから。 「どっちが愚か者か、はっきりさせようじゃないの」 吹く風に、虫の声が混ざり始めた。 耳元で激しく脈打っていた鼓動は収まり、呼吸も平静に戻っている。 淡い月の光の中で、それでもリナは動かなかった。ただじっと、時を待つ。 こうして待つ時間を、心細いと思ったことはない。 『すぐに行くから』 言ったのは、彼の方。そして、『じゃあ後で』と返したのは自分だ。 二人の間で、この約束が違えられたことはない。 例え、離れていても。それが命に関わる戦いの、最中であっても。 自分はいつだって、一人ではない。だから、何も恐れるものはない。 いつからだろう? そんな風に感じるようになったのは。 他の誰の存在も、こんな風に自分に近く感じさせてくれた人間はいなかった。 今までに、誰かと旅を共にしたり、協力して戦ったことは幾度もある。しかし、仲間と呼べる人間の中でさえ、彼女は一人だった。自分の目的も、身の安全も、守れるのは自分だけ。利害が一致する者との共闘はあっても、背中を預けることはない。そうして、危ない橋を幾度も渡りきってきたのだから。 ――ところが、今は。 一人でいると感じることがなくなった。眠る時も、目覚める時も、今のように離れて戦っている時でさえ。 心のどこかで、自分を支える力を感じる。 それは、戦闘中に時折出逢う視線だったり、呼ぶだけで望む応えをくれる瞬間だったり、そしてまた、『すぐに行くから』という小さな約束だったり。まるで証拠とも呼べない小さなものだが、それすらももう、彼女は疑う気になれない。 いもしない神を崇める馬鹿な狂信者のように、しかし彼女は今も信じている。すぐに、彼が自分を追って、この場所に現れるであろうことを。 守られているのは、寧ろ心だ。 身を挺して庇われることも、危険から遠ざけられることも必要ではない。 呼吸までもがぴたりと合うような感覚、何も言わなくても伝わる意図、おそらくはそういうもの。それらの小さな欠片は、いつだって彼女を支える力になる。他の何より、彼女に安寧をもたらすのだ。そして、今も。 かさり。 衣擦れにも似た音を立てて、茂みが小さく揺れた。 閉じていた目を、リナはゆっくりと開く。月の光は変わらず淡いが、暗闇に慣れた目には十分だった。森の闇から出てくる者を振り返る。そこにいる相手が誰であるかを、もう疑ってもいない自分が少し滑稽だった。 果たされる筈のそれは、もう約束などとは呼べないのかも知れない。けれど、運命などという言葉で片付けたくもない。 結果が分かっていたとしても、自分は、そして彼は、小さな約束を重ね続けるのだろう。お互いが、同じ思いでいることを、何度でも確認するために。 暗がりから出てきた彼の髪は、月明かりに照らされて青みがかったプラチナのようにみえる。その奥の相貌が、うっすらと笑みを浮かべていることに気付いて、彼女も微笑んだ。彼もまた、自分との約束を疑ってなどいないのだと分かって。 そうして今夜もまた一つ、約束が果たされる。
Fin. |