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「好きなの……」 夕日のせいではなく、はっきりと頬を染めて青年に囁く少女。 夕日で赤く染まった髪を微風にそよがせて。 「…………」 相対する青年は、なんと答えたのかは聞こえない。 石畳に伸びる、二つの影――。 「ガウリイっ!!」 扉を開けるなり、胸倉を掴まれる。 こんな事をするのは、リナだ。リナしかいない。 見知った栗色の髪、馴染みの高さ。聞き慣れた声。 この町で買い換えた新しい皮手袋――その手で掴まれ、がくがくと揺さぶられる。 アゴと首が、がくがく、鳴る。 「な、なんだ!?」 オレは視線が定まらないまま、声を上げた。 「あんたっ……なんて事してんのよっ!」 大音量が耳の側。 自他共に認める、小さ……いや、小柄さだが怒鳴り慣れていて、大きな声が出るのだ。 「ま、待て」 リナの手を押さえて見れば、赤い顔で息を切らせ、眉が吊り上っている。今にも噛み付きそうだ。 ……それくらい怒っていると言う事、か? だが……見当が付かない。 「なに怒ってんだ、リナ?」 「だっ…なっ! どの口がゆーのよ、どの口がっ! 相手は泣いてるってゆーじゃないのよ!」 ……相手って、なんだ? 事情を聞くまでにまた、がくがくが始まった。 「いらっしゃい」 扉を開けるなり、低いがよく通る女の声が出迎える。 そこには、アルコールの匂いと、飲み客の陽気に騒ぐ声が不快でない程度に充満している。 『銀の酒盃』という店だが、高価な銀製の酒盃はない。どこの町にでもあるような普通の酒場。昨日の夜、一人でふらりと入った店だ。 町の人間らしい酔っ払いオヤジのテーブルの間を抜け、オレは一人、誰もいないカウンター席に座る。昨夜と同じように、主らしい中年のおばさんに適当に注文する。 だが……あまり飲み過ぎるワケにはいかない。リナの怒った顔が脳裏に浮かぶ。 ことり、と酒のグラスが目の前に置かれると同時。 残り五つあるカウンター席の一番遠い席に、女が一人座った。 「昨日より客が少ないな」 確かな事は言えないが、昨日はもう少し入っていたように思う。 「まあ、ちょいと事情がありまして」 おばさんが答える。 「事情って…」 「すいませーん」 カウンターの女の注文する声が、オレ達の会話を遮る。 つい、そちらを見るが…相手は――無視を決め込んでいる。 「いつもはアタシの娘がいるんだがねえ」 彼女の注文をこなして、おばさんが戻ってくる。 ……そう言えば、昨日は若い女がいたかもしれない……。看板娘か。 「今日は……病気が出て」 だから客が少ないと言いたいらしい。 しかし病気と言う割には、口調が軽い。 「病気なのか?」 「それも、薬なんかでは治せない病気だよ」 「大変そうだな」 …にしては、おばさんの明るい顔つきが、不思議だが。 「いえいえ。それがねぇ…」 「おばちゃーん」 再び女が会話を遮る。 眉を上げて見れば、彼女は空のジョッキを持ち上げて催促している。相変わらずこちらは無視だが。 まあまあ、ジュースみたいなお酒だからって、飲みすぎないでくださいよ。などと商売下手そうな事を言いながら、おばさん、愛想よくお代わりをつぎに行く。 「惚れっぽい子でね。まあ、病気みたいなもんよ」 再びオレの前に戻り、肩をすくめるおばさん。 「付き合うの別れるのってしょっちゅうで。まあ今日は振られたみたいだけど」 そうか……そう言う事か。夕方見たのは……。 「おー、知ってる知ってる。相手はドミニクさんトコに泊まってる綺麗な兄ちゃんだろ」 後ろで飲んでいた男が大きな声で言う。 オレが泊まっている宿とは違うようだ。宿の主人もこの酒場のように女だった…と思う。 「商人だって話だぜ?」 「この前は神官だったよなー」 「俺にすりゃいいのに…」 「お前、かみさんいるだろーが!」 どっと、沸く。 酒の肴がわりだ。しかし、好かれてるんだろう。馬鹿にした感じがない。 おばさんも相変わらずニコニコ笑っている。 「家の子、ホントはいい子なんだよ?」 オレに向かって言う。 「病気がなけりゃあねえ」 客が茶化す。 「あんた、家の娘と付き合わない?」 「…あ? いや、オレは……」 「おばちゃん!」 みたび、会話に割って入る女の高い声。 「お勘定お願い」 ジョッキの甘い酒を飲み干して、彼女はそそくさと立ち上がった。 戸外に出ると、少し冷たい空気が頬を撫でる。 酒場の喧騒から離れて、耳は……ゆっくりと歩く足音を捕らえる。 脇の建物から漏れる明かりを踏んで、さっきまでカウンターで飲んでいた彼女が歩いている。 長く、癖のある髪が、歩むにつれ揺れる。 こちらには気づいているだろうに……。 早足で追いついて、 「リナ」 呼ぶと、やっと振り返った。 「…わかったわよ」 呟く。空気に、甘い酒の匂いが混じる。 旅装を解いて、肩当てもマントもない華奢な肩が、つっと下がる。 「ごめん」 謝罪の言葉など、珍しい。 「振ったのがあんたじゃないって、わかったわ」 酔眼の上目遣いで、見上げてくる。 少しばかり拗ねているようにも、見える。 思わず…………衝動を押さえ、代わりに頭を撫でた。 夕暮れ時、オレだけ図書館を追い出されて宿に戻る途中、広場で一組の男女を見かけた。 男の方は後姿で見覚えもなかったが、どうやら女の方は、『銀の酒盃』の娘だったらしい。泣きはらした顔で店には出られない、と母親に言ったそうだ。 「なあ、なんで相手がオレだと思ったんだ?」 町に男などいくらでもいる。旅人にしても。 リナがどこでその噂を聞きつけたのか知らないが、何故勘違いしたのか、がくがく揺さぶられた分、聞く権利はある筈だ。 「断ったセリフが、あんたが言いそうなのだったの! どこの誰だか知んないけど、もー少し断り方考えてもいいもんでしょうにっ!」 「なんだよ、それ」 問うと、一瞬、詰まる。 頬が仄かに、赤く染まる。 「……う…ええと……自分には守るべきものがある、とかなんとか……」 ぼそぼそ言いながら、視線を逸らせる。 「……そうか」 オレは、ぽんぽんと、小さな頭を叩いた。 ――自分には守るべきものがある。 そう言った男の守るべきものは、恋人だろうか、家族だろうか。それとも、もっと他のものだろうか。 そいつが言うように……リナも言うように、オレにも守るべきものがある。 確かに。 「リナ」 彼女を促し、歩き始める。 酔って足取りが少し危うい彼女に、さり気なく近づく。 『好きなの』 自分が言われたんじゃないのに、思わず振り向いてしまった言葉。 見知らぬ二人に、自分達の姿を重ねた、その瞬間。 いつか――それを言われる日が……言う日が、来るのか。 宿までの短い時間を、触れそうで触れない普段より近い距離に心躍らせながら。 いつか――。 そう、思った。
おわり |