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夢の始まりは、決まって黒。 じんわりと湿っぽい闇に濡れた場所で、彼女は誰かに抱き締められている。名前も知らない男の体臭に、吐き気がするほどの嫌悪を覚えた。 囁きに笑顔で応じても、それは表面だけ。腹の中は訳の分からない憎しみばかりが湧いている。彼女はそれにじっと耐える。 面白いのはここからだ。何せ、男という生き物は、従順な女の前では驚くほど無防備になる。馬鹿共が驚愕と恐怖に瞳を見開く瞬間、それを彼女は求めていた。裏切りを知った男の表情――それが与えるゾクゾクする程の快感が堪らない。 大人しくしているこちらに有頂天になった男が、更に彼女を手に入れようとする瞬間、彼女は憎しみを顕わにした。手には先刻、酒場でこっそり手に忍ばせた酒の空瓶。小さいが、至近距離から渾身の力で以って振り下ろしてやれば、それなりの武器になる。 ごとり、とくぐもった音を立てて、男が倒れる。微動だにしない男を、冷めやらぬ興奮と共に見下ろしていると、獲物がもう一人。煩わしさに、収まりかけた嫌悪感が蘇る。 どいつもこいつも、自分を不快にさせる馬鹿ばかり! 怒りを隠さず襲いかかるが、その手はあっさりと押さえ込まれた。 「リナ!」 名を呼ばれ、はっとする。急に視界がクリアになり、自身を突き動かしていた衝動が引く。 「――ガウリイ!」 思い出した名前を呼ぶ声は、助けを求める悲鳴にも似ていた。 「リナ?」 目が冷めると、現実にもガウリイが目の前にいた。酷く心配げに眉を寄せているのが、薄暗い中でも分かった。 夜明け前、というところだろうか。窓の外の空は、濃紺から碧みがかった白へと、素晴らしく美しいグラデーションを見せている。 「目が覚めたか?」 「……あたし……?」 フラつく頭を押さえ、身を起こす。すっとガウリイが腕を差し伸べて、その身体を支えた。 「魘されてたぞ。大丈夫か」 「ええ……ええ、大丈夫。何でもないわ」 嘘だ。どくどくと脈打つ鼓動、そして身震いするほど体熱を奪う冷や汗。どうして――そう、夢だ。 悪い夢を見たから。 はっと手を見る。が、小さな両手は、夢で見たように血で濡れていたりはしなかった。見慣れた手。但し、一箇所だけ、見慣れないものが嵌っている指がある。 「リナ」 ガウリイの声に、リナはびくりと身体を震わせた。慌てて隠そうとした手は、しかしあっさりとガウリイに捕まった。ぐい、と引かれて、目の前に突き出される。 「これ、どうしたんだ」 ほっそりとした左手――その薬指に輝く、銀の指輪。宝石の血のような赤さが、暗がりでもはっきりと見て取れた。 「この指輪……この町に来た最初の晩、お前さんが持ってたヤツだな? 次の日、警備隊に持って行こうって言ってた――どうして、お前さんが嵌めてるんだ」 「…………」 「リナ」 叱るように名前を呼ばれ、リナはカッとした――どうして、たかが指輪一つ、隠していただけで責められなくてはならないのか。 それとも、子供は隠し事をするなとでも言いたいのか……唯の旅の相棒が! 「なあ、リナ――」 「うるさい」 尚も言い募ろうとしたガウリイが、リナの一言で口を噤む。力の緩んだ大きな手から、リナは自分の手首を取り戻した。ぎゅっと、それを胸元に押し当てて。 「あたしが何をしたって、いいじゃない。指輪を警備隊に届けなかろうが、自分で嵌めて持っていようが、どうでもいいことじゃない。 ガウリイには関係ないんだから!」 「…………!」 一息に言って、ガウリイを睨みつけようと顔を上げて――リナは後悔した。吐き出した言葉よりも、寧ろ顔を上げてしまったことを。 ガウリイは明らかに傷ついた顔をしていた。いつも柔らかく自分を見つめてくる瞳が、軽く見開かれて。そこには、リナの理不尽な態度への反発は微塵もない。ただ、リナの拒絶を真正面から受け止めて、愕然としているようだった。 すっと、リナの中から怒りが引く。 「ち……ちが……」 「……リナ?」 「違うの、そんなことが言いたいんじゃなくて……」 ――違わない。何も。 心の何処からか、囁きが聞こえる。 ――彼には何も話すことはない。関係ないんだから。 「……違う」 ――だって、彼はいつだって本心を隠してきた。優しい顔の下で、あたしを嘲笑っているのかも。 「……違う……っ」 「リナ?」 ――いつあたしを裏切るか分からないんだから! 「違う!」 「リナ!」 ぱん、とリナの中で何かが弾けたような気がした。同時に、体中から力が抜けて、くたりとベッドに崩れる。ガウリイが慌ててそれを受け止めた。 ガウリイの腕に縋りながら、リナは必死に乱れた呼吸を整えた。 ガウリイへの疑念を唆す、心の声。それを退けるだけで、これ程の気力を要するとは。 次に声が聞こえたら、もう抵抗できるか分からなかった。だから、今の内に。 ガウリイに伝えなければならない。 「……違うの……ごめん、ガウリイ」 か細い声は、しかしガウリイにしっかり届いたようだ。彼は小さく首を振った。 「いいんだ。……大丈夫か?」 リナの拒絶など無かったかのように、こちらを気遣うばかりのガウリイに、涙が出そうになった。 「平気。でもあたし、少しおかしいの……分からないの。 どうしてこの指輪を嵌めてしまったのか。自分でも、分からないのよ」 ガウリイの腕を掴むリナの手に、少しだけ力が篭もった。 「まぁったく、厄介なことになったもんだわね」 あの晩。ガウリイにおやすみを言って、部屋に一人きりになった後。 ブーツから華奢な足を引き抜きながら、リナはぶつぶつと独り言を零していた。 「急ぎの旅じゃないからいいようなものの……こんな小さい町で足止めだなんて、退屈だわね〜。 まあ、思いっ切り容疑がかかってるとかじゃなさそうだから? その点ではマシだけど。滞在費もタダだし」 ばふ、と音を立てて、ベッドに寝転がる。ランプのすすで汚れた天井を見上げ、 「それにしても、どうしてこう、三日と置かずに厄介事が起きるのかしらね。 一昨日はいきなり街道でレッサーデーモンに遭っちゃうし。一週間前はむか〜し退治した盗賊団の残党だとかが襲ってきたし。 よくよく考えると、あたしの旅って波乱万丈よね〜」 あっはっは、と気楽に笑ってから。 ――こんな厄介な旅に、どうして笑って付き合ってるんだろう? あいつは。 ふと、それまで考えたこともないようなことを思いつき、リナは押し黙った。 ――普通、こんな危険な旅に無償で付き合ってくれるような人間はいない。 ――途中で逃げたしたくなるに決まってる。 ――いや、本当は同行なんてしたくないのに、言い出せないだけかもしれない。 ――それとも、他に目的が……? 次々に浮かんでくる考えに、ハッとなってリナは頭を振った。マイナスに傾いた思考を振り落とす。 「や、やだ。何考えてるのよ、あたし」 ――でも。もしかしたら。 それでも、滑り込んでくる疑念は止まらなかった。 どうしたというのだろう。これまで、相棒に対してそんな疑いは、欠片も持っていなかったというのに。 答えを探すように、リナは天井から視線を外した。のろのろと首が動き、ある一点で止まる。何かに導かれるような仕草だった。相棒への疑念と、自分の思考そのものに対する不安とで歪んだ瞳が、それに釘付けになる。 備え付けの文机に置かれた、小さな指輪。 魔法の明かりに照らし出された部屋の中で、それは控えめに、しかし決して存在感を薄れさせず、きらりと小さく光ってみせた。 「凄く、惹かれたの。指輪に」 リナは悔しげに眉を顰めた。 「どうしてだか分からない。分からないけど、あたし、それを嵌めてみたくなった。で、深く考えずに、そのまま――気が付いたら朝だった。 どうしたんだかちっとも覚えてなかったけど、とにかく警備隊に持って行かなくちゃって思って、慌てて外そうとしたの。――外れなかった。嵌めた時は、緩いくらいだったのに」 言って、左手を差し出す。ガウリイも試しに指輪に触れてみたが、それは根でも生やしたかのようにリナの指に食い込んで、微動だにしなかった。 「それからよ。あんたのいつもの行動が、やけに気になるようになったの。ちょっとしたことでも苛々したり、本音を疑ったり……おかしいのよ、あたし。自分でそれが分かるのに、止まらないの」 「リナ」 小さな背中が、自分に縋る腕が小刻みに震えているのに気付いて、ガウリイはリナの肩に手を添えた。まるで、彼女を温めようとするかのように。 「……恐い」 ぽつり、とリナが零した。 「自分が自分でなくなっていくみたい。このままじゃあたし、何をするか分からない……!」 「リナ!」 らしからぬ弱音は、彼女が相当に追い詰められている証拠だった。ガウリイは溜まらず、小さな背中を抱き締める。 「大丈夫、大丈夫だから。 リナはリナだ。それに、オレも傍にいるから。リナがおかしなことをしそうになったら、ちゃんと止める。だから……!」 「……うん」 強張っていた身体から、僅かに力が抜ける。顔を上げたリナは、淡く微笑んでいた。 「信用、しとく。お願いね……保護者さん」 言ったかと思うと、すとん、とリナは意識を無くす。ぐったりと力をなくした身体を、ガウリイは抱き締めたまま、離すことができなかった。 |