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――日が落ちた。 カーテンを開けるまでもなく、それを感じ取る。それまでの深い眠りが嘘のように、彼女はカッと目を見開いた。 夜が来る。全てを露にする太陽から密やかな月へと支配が変わり、その光すら届かぬ場所で、迷い込んだ愚者を飲み込もうと闇が蠢く、夜が。 狩りの始まりだ。 ばさりとシーツを跳ね除けて、彼女は立ち上がる。 紅を刷くことのない唇は、しかし皮膚の下の血流を艶かしく映して色づいていた。 唐突に気付いた事実に、ガウリイは愕然とした。 ――リナがいない。 夕食時を大分過ぎても顔を見せないリナを起こそうと、立ち上がりかけた時だった。つい半時前まで感じられていた彼女の気配が、いつの間にか隣の部屋から消えていることに気付いたのは。 少なからず焦燥を覚える。ずっと、隣にある自分の部屋にいたというのに、彼女が目を覚ましたことにも、部屋を後にしたことにも気付かなかったとは。 しかし、一番の大事は、彼女がいないという事実だった。気付けなかったことを悔やむよりも、彼女を探さねばならない。ガウリイは部屋を飛び出して、まずリナの部屋に向かった。 ノブを回すと、扉はすんなりと開いた。予想通りリナの姿はなく、ベッドの上には彼女が先程まで使っていたらしい形跡が残るばかり。半分だけ開いた窓の内側で、カーテンが揺れていた。他に変わった様子は何もない。 部屋に手がかりがないことを知ると、ガウリイはすぐに部屋を出た。足早に階段を降り、出口へ向かう。と、食堂の真ん中で、一人の男が声をかけてきた。 「ガウリイさん!」 「……えっと?」 「フレッド=タクスです。警備隊員で、ここの息子の」 「ああ」 そういえば、そんな人間に会った気がする。フレッドは、ガウリイが自分を見忘れていたことなど少しも気にしない様子で、屈託なく笑いかけてきた。 「一人でお出かけですか? リナさんと一緒じゃないんですね」 「リナは――」 いないんだ、と言いかけて、やめる。 エプロン姿に、両手の皿。いかにも店を手伝って給仕をしている彼は、きっと暫く前から食堂に出入りしていた筈だ。その彼も、リナが既に宿にいないことを知らないらしい。 リナの不在を易々と知らせるのは、あまり良くない気がした。どうにか取り繕う。 「調子が悪いみたいで、寝てるんだ。オレはちょっと、外に出てくる」 「そうですか。大丈夫ですか?」 「ああ、寝てれば治るから……そっとしておいてやってくれるか?」 「分かりました」 素直に頷く青年に、ガウリイはほっとする。嘘をつくのは心苦しかったし苦手だったが、青年は信じてくれたようだった。 飛び出た先の通りには、家路を急ぐ人々。それぞれの場所に帰っていこうとする町人の波の中、ガウリイ一人が行くべき方向を見失っていた。ばさり、と落ちてくる髪を掻き上げる。 「ったく、あいつは……人の気も知らないで」 悪態は一言だけ。あとはそんなものを吐く暇すら惜しいとばかりに、ガウリイは通りを駆け出していた。 男は酔っていた。いつもの安酒と、そして自分に突如訪れた幸運に。 酒場で見つけたのは、今までに拝んだこともないような極上の女。身体は細いが、顔立ちと誘う視線は一級品だった。勧められるまま酒を煽り、促されるまま店を出た。最高に良い気分だった。 足を縺れさせて、闇の蟠る通りの奥に入る。場所なんて選んでいられない。逃げられる前に、この幸運をさっさと味わってしまいたかった。光を避けるように暗がりに滑り込みながら、男は女の腰を引き寄せる。 「あんたみたいな女が、この町にいたなんて知らなかったな」 べろりと自分の唇を舐めながら言う男に、女は興味を惹かれたようだった。嫣然と微笑みながら、軽く首を傾げてみせる。浮き上がる白い喉に、男の目が吸い寄せられた。 「へえ? どんな?」 うっとりと首に回されてくる細腕に煽られながら、男はゆっくりと女に顔を近づける。 「極上ってことさ……」 囁き、細い首筋に喰らいつこうと身を屈める男は、まだ気付かない。彼を引き寄せる白い腕に、銀のフォークが握られていることに。 自分の運の良さと極上の夜を、男は信じて疑わなかった――やがてその腕が、勢いよく自身に振り下ろされるまで。 「あ……!?」 散々周囲を駆け回った後。 結局リナを探し出すことができず、憔悴しきって宿に戻ってきたガウリイは、今度こそ脱力感を抑えられなかった。 空っぽの筈の、リナの部屋。廊下の半ばまできたところで、その中に馴染んだ気配があることに気付いた。まさかと思ってドアに取り付き、部屋に飛び込んでみれば、何事もなかったかのようにベッドで寝息を立てる少女が一人。 「何だってんだ……」 ベッドの脇にがっくりと膝をつき、ガウリイはがしがしと髪を掻き毟った。 リナはよく眠っていた。毛布にしっかりと包まっている姿だけを見ていると、リナが消えていたことの方が幻だったのではないかという気になってくる。 まあ、何事もなかったというなら、それでいい。 ガウリイが気を取り直して、リナの髪を撫でようとした時。 ふ、と。 一瞬だけ、鼻先を異質な香りが掠めた。 嗅ぎ慣れた、しかしこの場にそぐわないその香りに、ガウリイは眉を顰める。しかし、確かめようとする前に、それは窓からの風に掻き混ぜられて消えてしまった。 「リナ……?」 問いの先にいる少女は、昏々と眠り続けるばかり。 眠るリナを見下ろしながら、しかしガウリイは、何もなかったのだからと安心することは、もう出来そうになかった。 リナの体から一瞬香った、それは。 ――紛れも無く、血臭だった。 |