|
『あたし』が時折塞ぎ込むようになったのは、セイルーンを訪れて間もなくのことだったらしい。 『あたし』の様子がおかしいことに、ガウリイはすぐに気付いたのだと言う。そして、その理由にも。 「リナはずっと、自分のせいでオレを危険な目に遭わせてるって思ってたみたいだった。それが、セイルーンに来た頃に、一気に圧し掛かっちまったんだと思う。 オレは何度も『リナのせいじゃない』って言ったんだけど、リナは優しいから――」 語るガウリイに、あたしも思い出す。 夢の中、何かを逡巡する『あたし』の声。そして、そんなあたしを支えようとするガウリイの声。 あれはやはり、あたし達の過去の出来事だったのだ。 「アメリアが、『ここで結婚式を挙げたら』って、言ってくれて。今まで機会がなくて延び延びになってたし、甘えさせて貰おう、ってリナに言った。リナもその時は頷いてくれたから、ああ、吹っ切ってくれたんだなと思って、オレも安心してたんだけど」 ガウリイは瞑目した。 「あの時――結婚式で、誓いを交わす時。 リナは、言ってくれなかった。頷いてはくれなかったんだ――『誓う』って」 『病める時も、健やかなる時も、生涯、変わらぬ愛を誓いますか?』 沈黙が、辺りを満たす。返ってくる筈の花嫁の答えは、しかし得られぬまま、周囲のざわめきに取って替わる。 『……リナ?』 ガウリイが、小さく問いかけた時だった。『あたし』の身体が、ぐらりと傾いたのは。 『リナっ!』 崩れた『あたし』の身体を支えながら。 ガウリイは、聞いたのだと言う。意識を失う寸前、『ごめんなさい』と小さく呟いた、『あたし』の声を。 「リナが目を覚まして、何も覚えていないって聞いた時も、オレは驚かなかった。 『ああ、やっぱり』って思ったよ。『リナは、今までのことを全部消してしまいたい程、悩んでたんだな』って」 あたしの肩にあった手が、頭に移動する。そのまま、髪を柔らかく梳いて。 「そんなに思い詰めてるなんて思わなかった。オレ、全然気付いてやれなくて――リナはずっと悩んでたのに。 だからせめて、リナの思う通りにさせてやろうって思ったんだ。 リナが、昔のことなんて忘れたいって言うなら、それでいい。何もかも、また一から始めるのも悪くない――って」 「そんな……ガウリイは、それで良かったの?」 「リナ?」 「自分のことを忘れられちゃったら、ガウリイだって辛いじゃない! それなのに、良かったの? あたしが全部忘れたままなんて、ガウリイは嫌じゃないの?」 問うと、ガウリイは笑った。驚くほど、穏やかな笑みで。 「オレは、リナが大事だから。記憶がなくても関係ない、リナの傍にさえいられればそれでいいって思ってた。さっきも言ったようにな。 けど……本当は、全部をリナに話すのが怖かっただけかもしれない」 怖い? それがどういう意味かを知りたくて、ガウリイを見つめる。と、彼はあたしを見つめ返したまま、両腕であたしを包み込むように抱きしめた。温かな手のひらが、あたしの腹部に納まる。 「ここに、いるんだ」 ――あ――。 あたしの直感を証明するように、とくん、とあたしの内側が脈打つ。 「セイルーンに着いてから、分かったんだ。 オレはすごく嬉しかったけど、リナはあの頃から色々考え込むようになっちまって――だから、何も覚えていないリナに、どう言ったらいいかいいのか分からなかった」 きゅ、と抱きしめる腕に力をこめる。 「随分と迷ったよ。せっかくやり直そうとしてるリナに、子供のことを言っていいのかって。それに、全部を知ったリナが、もし――」 言い辛そうに、ガウリイは言葉を切る。 「もし、この子のことまで、なかったことにしたいって言い出したら、どうしよう――ってさ」 「ガウリイ!」 我ながら、悲鳴じみた声になっていたと思う。抱きしめられているせいでガウリイの顔は見えなかったが、代わりに感情を抑えた声が返ってきた。 「ごめん。でも、本当に怖かったんだ。 リナにはその権利がある。リナが全部をやり直したいと思うなら、そうしていいんだ。オレはそれについていけばいいんだから。 けど、いざとなるとどうしても言い出せなかった。毎朝、全部打ち明けようと思って部屋を出るのに、リナの顔を見ると言葉が出てこなくて、つい時間ばっかり経っちまって――。 でも、オレが間違ってた。リナの判断に任せるって決めたんだから、もっと早く話しておくべきだったんだ。リナをこんなに不安にさせるべきじゃ、なかった」 言うと、ガウリイはするりとあたしから腕を外した。そのまま身体を離してしまうガウリイを、あたしは目だけで追う。何を言ったらいいのか分からないあたしに、ガウリイはふわりと微笑んだ。 「オレがリナに隠していたことは、これで全部だ。 これを聞いたリナがこれからどうするのか、オレには分からないし、何も言えない。 けど――」 そうっと、あたしの手を包んで。 ガウリイは、あたしの前に跪く。 「これだけは変わらない。 リナが何度オレのことを忘れても、どんな道を選んでも。 オレはお前の傍にいる。ずっと、永遠に」 指先に、小さなキスを。落としながら、囁く。 「リナが約束できないっていうなら、代わりにオレが何度でも誓う。リナが忘れても、その度に言う。 これから先の時間全部、一緒に過ごさせて欲しい。どんな時でも、何があっても」 そう言ってあたしを見つめるガウリイの目は、真っ直ぐで、これ以上にないくらい必死で。 「――許してくれるか?」 控えめに尋ねてくる彼に、あたしは両腕を回すことで、その問いに応えたのだった。 『あたし、このままでいいのかしら』 声。もう分かる。あれはあたしの過去の声。 『こんなに幸せで、いいのかしら』 いっそ穏やかな音で、表される逡巡。 『不安なの。そうして手に入る幸せが大きければ大きいほど、それを失うことが怖くなる。大事なものが増えすぎて、今までみたいに戦えなくなる気がする。 力が足りなくて、大事なものが守りきれなかったら――あたし、どうすればいいの? あたし自身は、どうなってしまうのかしら――』 最後の言葉には、背筋を振るわせるほどの恐怖が滲んでいた。それ程までに、彼女は『今』を愛している。 『いっそ、全部忘れられたら、楽なのに』 彼女は笑う。 『何にもなかったことにしたら、あたしはまた戦えるわ。今までみたいに、勝ち続けられる』 失うくらいなら。 初めから無ければいい、と。そうしたら、失う怖さなど知らなくて済んだと、彼女は言う。 『ごめんね、こんな情けないお母さんで』 ふふ、と彼女は笑った。 『それだけ、大事なの。あんたと、あんたのお父さんがね。無くしてしまったら、あたし自身がどうなるか分からないくらい。 それくらい、本当に大好きなのよ――』 『あなたの望みだったわ』 目の前に、少女が現われる。 『いつか失うくらいなら、いっそ何も無かった方が良かったって。そう思ってたでしょ?』 愛らしく、首をかしげて。 『あんなに望んでいたのに』 問う彼女の瞳は、哀しそうにあたしを見上げていた。あたしは初めて、穏やかな気持ちで彼女を見つめる。 『だから、貴方が叶えてくれたの?』 『……うん』 驚くほど素直に、彼女は頷いた。 『だって、苦しそうだったから。 全部捨てて、自由になったら、貴方はまた笑ってくれると思ったの。彼も、そう思ってたんだと思う。 だから、私もそうなったらいいなと思ったの』 彼――ガウリイのことだろう。あたしのことも、ガウリイのことも、この子は大切に思ってくれているのだ。『あたし』が、彼らのことを大切に思っていた、それと同じくらいに。 『馬鹿ね』 あたしは微笑んで、彼女の頭に手を乗せた。ガウリイがあたしにそうするように、柔らかな髪を掻き混ぜる。 『自分がどうなるか分からなかったのに、こんなことしたの?』 『だって……』 『子供はそんなこと気にしなくていいの。まあ、あんたにそこまでさせちゃったあたしも悪かったけど』 言うと、少女ははにかむように笑った。その笑顔は、あたしではない誰かの面影を残している。 ――やっと分かった。彼女が、誰なのか。 『ごめんね、心配させて。でももう大丈夫よ』 あたしは膝を折る。視線を彼女の高さに合わせ、その青い瞳を覗き込みながら。 『こんなにあたしのことを思ってくれる家族が、二人もいるんだもの。それを無かったことにしたいなんて、絶対に言っちゃいけないことだった。 大丈夫。あんたとガウリイがいてくれたら、あたしは今までよりずっと強くなれるわ。だから』 そっと、少女に手を伸ばす。彼女は逆らうことなく、あたしに身体を預けてきた。すっぽりと腕に収まってしまう彼女を、抱き締めて。 『あたしに、記憶を返して』 言うと、少女はぴくりと反応した。不安そうに見返してくる瞳に、微笑み返す。 『大切な思い出なの。 それがあったら、ガウリイのこともあんたのことも、もっと大事に思えると思う。 ね?』 額を合わせると、体温の温かさが沁みた。 『また会いましょう。その時までに、素敵な名前を考えておくから。 そうしたら今度は、お母さん、って呼んでね』 ――少女は淡く微笑んだ。 |