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「――――っ!」 がばり、と勢い良く起き上がってから、自分が夢から覚めたことに気付いた。 いつの間にか額に浮かんでいた汗を拭う。汗が引いてくると、今度は身体の内側を打つような心臓の鼓動が気になった。 起きてはいけなかった。 そんな気がする。あの夢には、もっと大切な何かが隠されていた筈なのに。 なのに、邪魔された――夢の中、繰り返し出てきたあの少女に。 しかも、その少女の姿は。 未だに激しく脈打つ動悸を胸の上から押さえつけながら、あたしはふと、周りを見渡した。 明かりのない部屋の中は、見慣れた昼の姿とは別物のようだった。その静謐さに、自然、息を潜める。 昼間、ガウリイの元から逃げ出した後、部屋に戻ったところまでは覚えているのだが――どうやら、あたしはそのまま不貞寝してしまったようだ。 真夜中、というには少し早い時間らしい。昇りかけた月が、淡くこの部屋にも光を射しかけている。 もう今夜は眠れそうにない。心は落ち着きを取り戻しつつあるものの、眠気は吹き飛んでしまった。途端、空腹を思い出す。夕食の時間はとっくに過ぎてしまった。さて、どうしようか。 あたしは音を立てないよう、そろりとベッドを抜け出す。厨房に行けば、ミルクくらい温めて貰えるかもしれない。 廊下に顔だけ覗かせて辺りを見ると、真っ暗かと思ったそこに、一筋の光が差していた。すぐ隣の部屋の扉が、薄く開いているのだ。あたしはすぐに思い当たる。そこは、ガウリイの部屋だった。 今は、ガウリイの顔は見たくない。しかし、この扉の前を通らなければ、厨房に行くことができない。 暫し考え、結局は、足音を忍ばせてそこを通り過ぎることを決める。中から人が出てこないことを祈りながら、そろそろと足を踏み出しかけた、その時。 「分かっていたことだろう? リナを、何時までもこのままにしておけないということは」 扉の内側から聞こえてきた声に、あたしは思わず足を止めてしまう。 ――ゼルガディスの声、ではなかったか。それも、彼には似つかわしくない、叱責にも近いその言葉。 耳を欹てると、今度はアメリアの声も聞こえた。 「リナさん、言ってました。『ガウリイさんが分からない』って。 不安になるのも当然です。今のリナさんには、自分の昔のことも、身体のことすら分からないんですから。ガウリイさんの態度が曖昧だと、その分リナさんも戸惑うんだと思うんです」 アメリアは一度言葉を切った。 「今までは、ガウリイさんの言うことも正しいと思ってました。リナさんに全部を教えるのは、精神的な負担がかかり過ぎる――それが分かってましたから。せめて体調が万全なら、そんなこともなかったのかもしれませんけど……。 でも、今みたいに中途半端な状態では、却ってリナさんの不安が増すだけです。 ガウリイさんの、リナさんの意思を尊重したいっていう気持ちも分かります。けど――全部をリナさんに教えた上でなければ、リナさんが納得する選択は出来ないんじゃないですか?」 ――要するに。 アメリアとゼルガディスは、ガウリイを説得しているらしい。 あたしに、過去のことを打ち明けるべきだと。その中には、どうやらあたしの体の不調も含まれているらしい。 しかも、話の内容からするに、二人は今まで、あたしの過去について、ガウリイから口止めされていたようにも取れる。 アメリアの声は真剣だった。が、そうして二人が語りかけている相手は、未だ黙したままだ。自然、部屋に沈黙が落ちる。 再び口を開いたのはゼルガディスだった。重々しく、息を吐きながら。 「リナに、話すべきなんじゃないか? せめて――身体のことだけでも」 「そうですよ! それに、少しでも話せば、それをきっかけに過去を思い出してくれるかも――」 「――オレは」 初めて、ガウリイの声が聞こえた。それまで聞いたことのないような、冷たい声だった。 「オレには、リナの記憶があろうとなかろうと、関係ない。 リナには昔のことを教える気もないし、教える必要もないと思ってる。思い出したければ、リナが自分で思い出す。 それだけだ」 ぐらり、と。 身体が傾いた気がした。実際に足の力を失ってへたり込んだことに気付いたのは、思わず開きかけた扉に手を掛けてしまってからだった。 「!」 部屋の中の全員が、一斉にこちらを振り返ったのが分かった。 部屋に転がり込んだ形になってしまったあたしは、慌てて謝ろうとし――言葉を吐くための息を吸い込む前に、強い力に引き起こされた。 「大丈夫か?」 ――ガウリイ、だった。怖いくらい真剣に、あたしを覗きこんでくる。 「どこか打たなかったか。それとも、気分が――」 「な、何でもないから。大丈夫」 その手を振り払うのには勇気が要った。つい今、あたしの記憶などどうでもいいと断言した男が、誰よりもあたしの身体を気遣っている。そのことに困惑していた。 「その……邪魔してごめん。も、行くから」 「リナさん!」 必死で部屋を辞そうとするあたしを呼び止めたのは、アメリアだった。 「リナさん、今の私達の話――」 「……悪いけど」 あたしはアメリアを振り返らないまま、きっぱりと言った。 「聞きたくないわ。思い出す必要がないってガウリイが言うなら――きっとそうなんでしょ」 「リナさ……!」 追ってくるアメリアの声を遮るように、扉を閉ざす。 そうしてあたしは、ふらふらとその場を去った。 どこまでも続く廊下を歩いて、曲がって、また歩いて。 目当ての厨房も通り過ぎて、自分でも自分の居場所が分からなくなった頃。 ふと気付いたら、あたしは中庭に降り立っていた。 淡い月明かりが目に沁みる。頭の奥がじんわりと鈍痛で疼いて、再び霞みそうになる意識を、あたしは叱咤しなければならなかった。 それでも、足は勝手に歩みを進める。まるで何かに導かれるように。 あの小道の奥を目指しているのだと気付いたのは、視界の先に噴水が映ってからだった。 ――行きたくない。 思うのに、それでも身体は前に進む。 レンガ造りの道を辿り、立ち木の間を抜け――感じるのは、咽せ返るような花の香り。まるで幻を見せる香のように、それは視界を二重にだぶらせた。夜の庭に、夢の光景が重なる。 『こっちだ。ほら』 夢の人の声が、あたしを導く。 『この先。もうすぐだから』 声に急かされて、あたしは足を縺れさせながら進む。細い道がカーブする。木々を迂回して、それを曲がる。壁となって視界を遮っていた立ち木がなくなり、景色が一気に開ける。夢と同じに、一瞬、眼を陽光に灼かれた気がした。 そして。 幻が消えた後には、夜の闇だけが残っていた。絶えず囁いていた声も消える。 あたしは少し乱れた呼吸を整えながら、呆然と立ち尽くしていた。 目の前には、背の高い建物。中庭から、母屋をぐるりと回りこんだ場所にあったために、こんなところに建物があったなんて気付かなかった。陽の光の中にあれば、それは荘厳かつ美しい外観を見せただろう。しかし今は、闇の中、月明かりに浮かび上がる白さが寒々しい。 広大な庭の片隅。そんな忘れられた場所で、取り囲む木々に負けず、堂々と尖塔を空に伸ばし。 小さくとも威厳を失わない姿で、その場所に建っていたのは。 「……礼拝堂……」 少し乱れた息を整えながら、あたしは呟く。 ガウリイが隠したがっていた場所。それがこの礼拝堂なのだろうか。 好奇心に誘われるまま、扉に手を掛ける。 『ダメ!』 どくん、と、身体の内側から衝撃が走る。あたしはそれを、強く頭を振ってやり過ごした。ノブを掴んだ腕に、力を込める。 『開けちゃ、駄目』 「うるさい」 しつこく警告してくる声を、あたしはぴしゃりと切り捨てる。 軽く力を込めただけで、重そうな扉は軋みも立てずに開いた。本当に、呆気なく。 扉に縋るようにして、あたしは礼拝堂に足を踏み入れる。殺す余裕のない足音が、高い天井に響いた。 暗闇に眼が慣れてくるにつれ、あたしは違和感を覚える。 整然と配された長椅子。スィーフィードを祀った祭壇。そして、それらを取り囲む壁までも。全てが白い布と花で飾り立てられて、まるでこれから何かの儀式が始まるかのようだったからだ。 長椅子にリボンと共に括られた花に手を触れる。と、それはかさりと音を立てて、辺りに花弁を散らした。――萎れている。 飾り付けられてから、かなりの時間が経っている。ということは。 「儀式をしたまま、放ってある――?」 眉を顰めて、しかしあたしは、更に奥へと進んだ。今度は祭壇に昇る。 やはり極上の絹をかけられたその上には、やはり上等な造りの本が一冊。僅かな月明かりの中でも分かる。聖書だった。 無性に、それが気になった。 指をかける。布張りの柔らかな質感が伝わる。どくんどくんと次第に激しくなる鼓動を聞きながら、あたしは縁に指先を這わせた。 『――ダメ――!』 叫びと共に、一際大きく心臓が跳ねたのと。 ひっかけた指先が表紙を捲るのとは、ほとんど同時だった。 開かれた表紙の内側には、流暢な文字列。楽しげに語るそれの内容は、暗がりでもはっきりと読むことができた。 『聖書になんて興味のないだろう、お二人へ 神様なんて信じない、と仰るかもしれませんが、それでも家庭に一冊、置いておいて損はないと思い、これをお贈りします。 こうでもしないと、聖書なんて、お二人には一生、縁遠いものになってしまうかもしれませんから。 友人からの結婚祝いなら、捨てようなんて思わないでしょう? リナさん、ガウリイさん、結婚おめでとう。どうぞ、いつまでもお幸せに。 お二人の生涯の友 アメリア=ウィル=テスラ=セイルーン』 ――ああ。 ぐらりと視界が揺らいだ。咄嗟に身体を支えることすらできない。感覚は、身を襲う鼓動と熱とに支配されていた。 床に衝突する衝撃を覚悟して眼を閉じ、しかしそれが来ないまま、代わりに差し伸べられた何かに抱き止められる。 「――リナ――!」 あたしを支えた相手の、必死の呼びかけが耳元で聞こえ。 それを最後に、あたしの意識はふつりと途切れた。 |