Promise you

-6-

作:翠さん


「――――っ!」
 がばり、と勢い良く起き上がってから、自分が夢から覚めたことに気付いた。
 いつの間にか額に浮かんでいた汗を拭う。汗が引いてくると、今度は身体の内側を打つような心臓の鼓動が気になった。
 起きてはいけなかった。
 そんな気がする。あの夢には、もっと大切な何かが隠されていた筈なのに。
 なのに、邪魔された――夢の中、繰り返し出てきたあの少女に。
 しかも、その少女の姿は。
 未だに激しく脈打つ動悸を胸の上から押さえつけながら、あたしはふと、周りを見渡した。
 明かりのない部屋の中は、見慣れた昼の姿とは別物のようだった。その静謐さに、自然、息を潜める。
 昼間、ガウリイの元から逃げ出した後、部屋に戻ったところまでは覚えているのだが――どうやら、あたしはそのまま不貞寝してしまったようだ。
 真夜中、というには少し早い時間らしい。昇りかけた月が、淡くこの部屋にも光を射しかけている。
 もう今夜は眠れそうにない。心は落ち着きを取り戻しつつあるものの、眠気は吹き飛んでしまった。途端、空腹を思い出す。夕食の時間はとっくに過ぎてしまった。さて、どうしようか。
 あたしは音を立てないよう、そろりとベッドを抜け出す。厨房に行けば、ミルクくらい温めて貰えるかもしれない。
 廊下に顔だけ覗かせて辺りを見ると、真っ暗かと思ったそこに、一筋の光が差していた。すぐ隣の部屋の扉が、薄く開いているのだ。あたしはすぐに思い当たる。そこは、ガウリイの部屋だった。
 今は、ガウリイの顔は見たくない。しかし、この扉の前を通らなければ、厨房に行くことができない。
 暫し考え、結局は、足音を忍ばせてそこを通り過ぎることを決める。中から人が出てこないことを祈りながら、そろそろと足を踏み出しかけた、その時。

「分かっていたことだろう? リナを、何時までもこのままにしておけないということは」

 扉の内側から聞こえてきた声に、あたしは思わず足を止めてしまう。
 ――ゼルガディスの声、ではなかったか。それも、彼には似つかわしくない、叱責にも近いその言葉。
 耳を欹てると、今度はアメリアの声も聞こえた。
「リナさん、言ってました。『ガウリイさんが分からない』って。
 不安になるのも当然です。今のリナさんには、自分の昔のことも、身体のことすら分からないんですから。ガウリイさんの態度が曖昧だと、その分リナさんも戸惑うんだと思うんです」
 アメリアは一度言葉を切った。
「今までは、ガウリイさんの言うことも正しいと思ってました。リナさんに全部を教えるのは、精神的な負担がかかり過ぎる――それが分かってましたから。せめて体調が万全なら、そんなこともなかったのかもしれませんけど……。
 でも、今みたいに中途半端な状態では、却ってリナさんの不安が増すだけです。
 ガウリイさんの、リナさんの意思を尊重したいっていう気持ちも分かります。けど――全部をリナさんに教えた上でなければ、リナさんが納得する選択は出来ないんじゃないですか?」
 ――要するに。
 アメリアとゼルガディスは、ガウリイを説得しているらしい。
 あたしに、過去のことを打ち明けるべきだと。その中には、どうやらあたしの体の不調も含まれているらしい。
 しかも、話の内容からするに、二人は今まで、あたしの過去について、ガウリイから口止めされていたようにも取れる。
 アメリアの声は真剣だった。が、そうして二人が語りかけている相手は、未だ黙したままだ。自然、部屋に沈黙が落ちる。
 再び口を開いたのはゼルガディスだった。重々しく、息を吐きながら。
「リナに、話すべきなんじゃないか? せめて――身体のことだけでも」
「そうですよ! それに、少しでも話せば、それをきっかけに過去を思い出してくれるかも――」
「――オレは」
 初めて、ガウリイの声が聞こえた。それまで聞いたことのないような、冷たい声だった。

「オレには、リナの記憶があろうとなかろうと、関係ない。
 リナには昔のことを教える気もないし、教える必要もないと思ってる。思い出したければ、リナが自分で思い出す。
 それだけだ」

 ぐらり、と。
 身体が傾いた気がした。実際に足の力を失ってへたり込んだことに気付いたのは、思わず開きかけた扉に手を掛けてしまってからだった。
「!」
 部屋の中の全員が、一斉にこちらを振り返ったのが分かった。
 部屋に転がり込んだ形になってしまったあたしは、慌てて謝ろうとし――言葉を吐くための息を吸い込む前に、強い力に引き起こされた。
「大丈夫か?」
 ――ガウリイ、だった。怖いくらい真剣に、あたしを覗きこんでくる。
「どこか打たなかったか。それとも、気分が――」
「な、何でもないから。大丈夫」
 その手を振り払うのには勇気が要った。つい今、あたしの記憶などどうでもいいと断言した男が、誰よりもあたしの身体を気遣っている。そのことに困惑していた。
「その……邪魔してごめん。も、行くから」
「リナさん!」
 必死で部屋を辞そうとするあたしを呼び止めたのは、アメリアだった。
「リナさん、今の私達の話――」
「……悪いけど」
 あたしはアメリアを振り返らないまま、きっぱりと言った。
「聞きたくないわ。思い出す必要がないってガウリイが言うなら――きっとそうなんでしょ」
「リナさ……!」
 追ってくるアメリアの声を遮るように、扉を閉ざす。
 そうしてあたしは、ふらふらとその場を去った。









 どこまでも続く廊下を歩いて、曲がって、また歩いて。
 目当ての厨房も通り過ぎて、自分でも自分の居場所が分からなくなった頃。
 ふと気付いたら、あたしは中庭に降り立っていた。
 淡い月明かりが目に沁みる。頭の奥がじんわりと鈍痛で疼いて、再び霞みそうになる意識を、あたしは叱咤しなければならなかった。
 それでも、足は勝手に歩みを進める。まるで何かに導かれるように。
 あの小道の奥を目指しているのだと気付いたのは、視界の先に噴水が映ってからだった。
 ――行きたくない。
 思うのに、それでも身体は前に進む。
 レンガ造りの道を辿り、立ち木の間を抜け――感じるのは、咽せ返るような花の香り。まるで幻を見せる香のように、それは視界を二重にだぶらせた。夜の庭に、夢の光景が重なる。

『こっちだ。ほら』

 夢の人の声が、あたしを導く。

『この先。もうすぐだから』

 声に急かされて、あたしは足を縺れさせながら進む。細い道がカーブする。木々を迂回して、それを曲がる。壁となって視界を遮っていた立ち木がなくなり、景色が一気に開ける。夢と同じに、一瞬、眼を陽光に灼かれた気がした。
 そして。
 幻が消えた後には、夜の闇だけが残っていた。絶えず囁いていた声も消える。
 あたしは少し乱れた呼吸を整えながら、呆然と立ち尽くしていた。
 目の前には、背の高い建物。中庭から、母屋をぐるりと回りこんだ場所にあったために、こんなところに建物があったなんて気付かなかった。陽の光の中にあれば、それは荘厳かつ美しい外観を見せただろう。しかし今は、闇の中、月明かりに浮かび上がる白さが寒々しい。
 広大な庭の片隅。そんな忘れられた場所で、取り囲む木々に負けず、堂々と尖塔を空に伸ばし。
 小さくとも威厳を失わない姿で、その場所に建っていたのは。
「……礼拝堂……」
 少し乱れた息を整えながら、あたしは呟く。
 ガウリイが隠したがっていた場所。それがこの礼拝堂なのだろうか。
 好奇心に誘われるまま、扉に手を掛ける。

『ダメ!』

 どくん、と、身体の内側から衝撃が走る。あたしはそれを、強く頭を振ってやり過ごした。ノブを掴んだ腕に、力を込める。
『開けちゃ、駄目』
「うるさい」
 しつこく警告してくる声を、あたしはぴしゃりと切り捨てる。
 軽く力を込めただけで、重そうな扉は軋みも立てずに開いた。本当に、呆気なく。
 扉に縋るようにして、あたしは礼拝堂に足を踏み入れる。殺す余裕のない足音が、高い天井に響いた。
 暗闇に眼が慣れてくるにつれ、あたしは違和感を覚える。
 整然と配された長椅子。スィーフィードを祀った祭壇。そして、それらを取り囲む壁までも。全てが白い布と花で飾り立てられて、まるでこれから何かの儀式が始まるかのようだったからだ。
 長椅子にリボンと共に括られた花に手を触れる。と、それはかさりと音を立てて、辺りに花弁を散らした。――萎れている。
 飾り付けられてから、かなりの時間が経っている。ということは。
「儀式をしたまま、放ってある――?」
 眉を顰めて、しかしあたしは、更に奥へと進んだ。今度は祭壇に昇る。
 やはり極上の絹をかけられたその上には、やはり上等な造りの本が一冊。僅かな月明かりの中でも分かる。聖書だった。
 無性に、それが気になった。
 指をかける。布張りの柔らかな質感が伝わる。どくんどくんと次第に激しくなる鼓動を聞きながら、あたしは縁に指先を這わせた。
『――ダメ――!』
 叫びと共に、一際大きく心臓が跳ねたのと。
 ひっかけた指先が表紙を捲るのとは、ほとんど同時だった。
 開かれた表紙の内側には、流暢な文字列。楽しげに語るそれの内容は、暗がりでもはっきりと読むことができた。



『聖書になんて興味のないだろう、お二人へ

 神様なんて信じない、と仰るかもしれませんが、それでも家庭に一冊、置いておいて損はないと思い、これをお贈りします。
 こうでもしないと、聖書なんて、お二人には一生、縁遠いものになってしまうかもしれませんから。
 友人からの結婚祝いなら、捨てようなんて思わないでしょう?
 リナさん、ガウリイさん、結婚おめでとう。どうぞ、いつまでもお幸せに。

 お二人の生涯の友 アメリア=ウィル=テスラ=セイルーン』



 ――ああ。
 ぐらりと視界が揺らいだ。咄嗟に身体を支えることすらできない。感覚は、身を襲う鼓動と熱とに支配されていた。
 床に衝突する衝撃を覚悟して眼を閉じ、しかしそれが来ないまま、代わりに差し伸べられた何かに抱き止められる。
「――リナ――!」
 あたしを支えた相手の、必死の呼びかけが耳元で聞こえ。
 それを最後に、あたしの意識はふつりと途切れた。





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