|
『ねえ、本当に良かったの?』 声が聞こえた。 まるで水を通したような、くぐもった声。遠くから聞こえてくるそれは、酷く優しい響きを持っていた。 『何が?』 『あたしと一緒にいることが、よ。今までだって、危険な目に遭ってきたじゃない。きっとこれからも続くわ。だから――』 『しつこいな。何度も言ってるだろう? オレはお前にとことん付き合うって。忘れたか?』 『そうじゃない。そうじゃないけど――』 言い淀む、声。 すると、ふんわりと温かな感触に包まれた。 『だったら、もう迷うなよ。オレはお前の傍にいる。だって、当然だろ? オレ達は――』 そこで、ふっと声が途切れた。 『ダメよ、思い出しちゃ』 くすりと、小さく笑い声がした。 「――ナ、リナ?」 ハッと、我に返って顔を上げる。 目の前にいたのは、心臓に良いとはお世辞にも言えない顔だったが、それでもあたしは安堵の溜息をついた。 「どうした、リナ。顔色が悪いぞ」 「大丈夫。ちょっと……夢見が悪くて」 こちらを覗きこんでくるゼルガディスに、あたしは手を振って答えた。 宮廷内にある図書室は、厳かな静寂に包まれていた。柔らかな午後の日差しが明り取りから漏れ注ぎ、本棚の後ろに潜む影を色濃くさせている。 このところあたしは、午後の大半をこの部屋で、ゼルガディスと共に過ごしていた。魔道について、どの程度の知識が残っているかを確かめるためだ。幸いなことに、今までに目にした魔道書は、かなり高度な部分も理解できた。呪文の発動には、今ひとつ及ばないのだが。 「夢? どんな」 どうやらあたしは、酷くボーっとしていたらしい。ゼルガディスが、僅かではあるが心配の色を覗かせていたことで自覚する。 問われてから、あたしは改めて今朝の夢を思い返した。 内容はよく覚えていなかった。けれど、酷く優しい――切なくなる程に優しい夢だった気がする。それに、始終響いていた、あの声は。 あの声の持ち主を、あたしは知っている気がする。 「……よく覚えてないの」 あたしは首を振った。漠然としたイメージは、言葉に表すのが難しい。 すっかり集中力が途切れてしまって、あたしは諦めて本を閉じた。 「あ〜あ、すっきりしないったらないわ! 呪文の一つでも使えたら、少しはマシなのに」 聞くところによると、記憶を失う前のあたしは、かなりの魔道の使い手だったらしい。 確かに、魔法理論の知識には事欠かない。魔道書を読んでいると、頭の何処からか、するすると呪文に関する知識が湧き出てくるのだ。午後の読書は、以前のあたしを垣間見る、数少ないチャンスの一つだった。 しかし、何故かあたしは魔法が使えない。理論はばっちり習得している筈なのに、呪文を唱えても魔法が発動しないのだ。 「仕方あるまい」 ゼルガディスが本に目を戻したまま、答える。 「理論をいくらマスターしたとしても、実践できるとは限らないだろう。 今のお前は、記憶を失ったことでカンを失ってる上に、精神的にも不安定な筈だ。呪文が使えなくなっても不思議じゃない。 それに、時期が時期だからな。魔力もかなり減退しているだろうし――」 「時期? 何のこと?」 さらりと言われた台詞に引っかかりを覚える。と、ゼルガディスはハッとしたように口を噤んだ。 「な、何でもない」 「その態度、あからさまに怪しいんだけど……って、ちょっと」 はたと気付く。魔法が使えない、その理由を思い当たって。 「あんた、どうしてあたしの『そーゆー日』のことなんて知ってるのよ? あたし今、別に『そーゆー日』って訳じゃないんだけど」 「な!? い、いや、そういう訳じゃなくてだな……」 慌てて弁解するゼルガディス。しかし、あたしにとっちゃ、その程度の言い訳で済む訳がない。 女の子の『あの日』のことなど、どうして他人の、しかも男が知ってなきゃならないのだ。由々しき事態である。 「ゼ〜ルちゃ〜ん? いいからちょっとこっちいらっしゃい♪」 「お前、あからさまに何か企んでるだろう……って、おいっ!?」 後退りするゼルガディスの首根っこを捕まえる。そのまま首に腕を回して―― 「ぐっ……よ、よせリナ! 離せ!」 「白状なさい! 何時、何処であたしの『あの日』のことなんて調べたわけ!? 事と次第によっちゃあタダじゃ済まないんだからね!?」 ぎゅうぎゅうと首を締め付けて、あたしはゼルガディスに自白を促す。が、このゼルガディス、意外にしぶとい。咳の合間から、『違う〜〜』などと未練がましく叫んでいる。 すると、そこへ。 「何だぁ? やけに騒がしいなあ」 ノブの回る音と共に、場違いな程のんびりとした声が響いた。本棚の間をすり抜けて、長身の人影が姿を見せる。ガウリイだった。 「お茶の時間だってのに、いつまで読書して――って、おい!」 いつもの机にあたし達の姿を認めると、ガウリイは顔色を変えた。 「何やってるんだ!?」 「うるさいわね、取り込み中よっ!」 尚もゼルガディスを締め上げようとするあたしを、しかしガウリイは許さなかった。凄い力であたしの腕をゼルガディスから引き剥がし、羽交い絞めに押さえ込む。 「うにゃあああっ! 離せガウリイ! 女の沽券に懸けて、聞かなきゃならないことがあんのよ!」 藻掻いて、暴れて。どうにかガウリイの拘束を逃れようとするが。 「リナっ!」 一喝されて、思わず動きを止める。 別に、大声に吃驚したわけじゃない。ただ怒鳴られたくらいなら、とっくに相手に食って掛かっている。しかし、そうできなかったのは。 「身体に障るようなことはやめてくれ。また倒れたらどうするんだ……!」 悲痛なまでの声が、耳のすぐ近くで聞こえて。 あたしはゼルガディスに伸ばしかけていた手を、ぱったりと下ろした。 「な、何言ってるのよ……こんくらいで倒れたりなんか……」 「…………」 ガウリイは答えない。あたしの髪に顔を埋めるようにして押し黙ったままだ。 暫しの間、完全なる静寂が書庫を支配した。 「あ、あの」 沈黙を破ったのは、あたしの方だった。 「も、暴れないから。……離してくれるとありがたいんだけど」 「ああ……すまん」 ガウリイは、ゆっくりと拘束を解いた。押さえられている間も、足はちゃんと床についていた筈なのに、開放されて初めて、足の裏が固いものに触れた気がした。 何とも言いがたい、気まずい空気が流れる。 「えっと……アメリアが、お茶にしようって言ってくれてるからさ。来いよ」 「う、うん。ここ片付けたら行くから、先行ってて」 「そっか。分かった」 頷いたガウリイは立ち去りかけて。 「……走ったりするんじゃないぞ」 「しないわよっ!」 くるりと振り返って釘を刺す彼に、あたしは速攻で怒鳴り返す。尚も何か言いたそうなガウリイを、 『あんまりしつこいと滅茶苦茶に大暴れするわよ』と脅してやったら、彼は慌てて回れ右して出て行った。 ぱたん、と静かに扉が閉まった後。 あたしは、へなへなと椅子の上に座り込んでしまった。 し、心臓に悪いったらありゃしない……。 何なのよ、あの切羽詰った言い方は。あれじゃまるで、あたしが重病人みたいじゃ――。 「やれやれ。あいつも相当参ってるようだな」 …………ん? 「ゼ、ゼル!? まだいたの!?」 「いて悪いか」 ゼルガディスは憮然としてあたしを睨んだ。 すっかり忘れていたが、そういえばあたしは、ゼルガディスを締め上げていたんだった。何だか気を殺がれてしまって、もうやり直す気にもなれない。 ゼルガディスは呆れたように嘆息した。 「いちゃつくのは俺のいないところでやってくれ。コメントに困る」 「いちゃついてなんか……!」 目一杯否定してみせるが、ゼルガディスは、あたしの言い分などどうでもいいようだった。 「まあ、何でもいいさ。 それより……お前、まだ何も思い出さないのか」 ああ、まただ。 この問いをぶつけられると、あたしはやりきれない気分になる。 黙ったまま俯いたあたしを見て、それを肯定の意と取ったのだろう。ゼルガディスは言った。いつもの彼の言葉よりはずっと、柔らかな調子で。 「責めてるわけじゃないんだ。 ただ……ガウリイのことだけでいい。思い出してやってくれないか。 勿論、こればっかりはお前の思う通りになるわけじゃないし、俺がこんなことを言うのも筋違いだとは思うんだが……できれば、心に留めておいてくれ」 ゼルガディスは、ガウリイの去った方向を、ずっと見つめたままだった。 |