MOTHER

作:ひいらぎ夏水さん


「あ。ここの本屋、サイン会だって」
「どこどこ?」
 学校の帰り道。
 常盤恭子と並んで歩く千鳥かなめの目に止まったのは、本屋が急ごしらえで立てた看板だった。
 看板には、『アニー=ステイシア 来日記念サイン会』とある。
「……『アニー=ステイシア』……聞いた事ある?」
「んー、よく知らない……」
 と。突然。
「アニー=ステイシアか」
『おわっ!!』
 同じクラスの男子生徒、相良宗介が背後に立っていて。
 二人は飛びすさって驚いた。
「……どうしたのだ、二人とも」
 ざんばらの黒髪に厳しく引き締まった表情の彼は、淡々とした口調で尋ねる――が。
 ――すっぱーん!
「……痛いぞ、千鳥」
「やかましいっ!いきなり後ろから話しかけるなっ!怖いんだからっ!」
 かなめが、どこからともなくハリセンを取り出して彼をひっぱたいた。
 当の被害者といえば、頭をさすってはいるが、やはり無表情のままで言う。
「――で、アニー=ステイシアって、知ってるの?」
 この二人のやり取りに馴れている恭子は、のほほんとした口調で宗介に尋ねてきた。
 この辺、なかなか侮れない少女である。
「うむ。アニー=ステイシアという人物は、紛争地帯を中心に活動している看護婦だ。以前、俺も世話になった事がある」
「へえ」
 よどみなく説明した宗介に、意外そうなかなめが相槌を打つ。
「以前、アフガニスタンにいた頃の話だが……」
「……まさか、味方が怪しい罠に引っかかって大変な目に遭ったとか」
「カナちゃん…。どういう見解を……」
 かなめが無茶苦茶なことを言って、恭子がすかさずツッコむが、敢えて無視。
「いや。以前、恥ずかしながら麻疹に罹った事があってな。その時、世話になった」
 続けて言った宗介に、かなめと恭子は二人で顔を見合わせて。
 ご近所の迷惑顧みず、腹を抱えて爆笑していた。
 俗にいう『箸が転んでも可笑しいお年頃』である。
 たっぷり笑ったその後。
「は、はは……ごめんごめん。いやー、あんたも人並みに病気するんだと思ったら」
「やっぱり、おかしいよねえ」
 申し分けなさそうにしている割に、身もフタもない言葉である。
 それでも宗介は無表情のままで、一言『そうか』とだけ答えた。
「……んじゃさ、行ってみる?この人のサイン会」
「む?」
 気を取り直して出してきたかなめの提案に、宗介はふと眉をひそめた。
「あ、そうだよ。行かない?相良くん」
「子供の頃世話になったんだったら、一言お礼を言いに行っても罰は当たらないわよ」
「ね、行こうよ!」
「むう……」
 二人の少女に腕を引っ張られるがままに、宗介は本屋の中に入っていった。



 本屋の一角にしつらえられたサイン会のスペースは、思ったよりも広かった。
 人の数もそこそこ並んで、列の向こう側のテーブルに。
 上品そうなおばさんとキャリアウーマン風の女性が座っていた。
 キャリアウーマン風の女性は栗色の髪に、黒のパンツスーツ。かたやおばさんの方は、上品な紫のワンピースにカーディガン姿だった。
「あっちのおばさんが、アニー=ステイシア?」
「そうだ」
「思ったよりも若そうだね」
 三人は店内に貼られたポスターと本人を見ながら、口々に言いあった。
「どうしよっか。この人が書いた本を買って整理券を貰えば、サインしてもらえるみたいだけど」
「うう、この本かあ……」
 恭子が、平積みにされた本を1冊取り上げた。
 タイトルは『私の子供たちへ』。穏やかな微笑みを浮かべた、アニー本人の写真が表紙になっている。
 くるりと本を裏返してみる。片隅に、『1500円(税込み)』と書かれていた。
「うわ、結構高い……」
「どうしよう。あたし、今月ピンチなんだけど……」
「――ならば、俺が買おう」
「え」
 ぼそぼそと言い合う少女たちに、宗介がぽつりと言った。
 二人は顔を見合わせて、もう一度宗介の顔をまじまじと見る。
「別にいいけど……あんた、こういうのに興味あるの?」
「何か、もっと物騒な本が好みだと思っていたんだけど……」
 彼女たちの意見、もっともなのだが。
 宗介は恭子から本を取り、さっさとレジに持って行ってしまう。
「ありがとうございます。こちら整理券になりますので、どうぞあちらの列にお並び下さい」
 清算を済ませた彼に、女性店員は朗らかに説明した。
「すまないが、二人とも。先に帰ってくれないか」
 白の整理券を手にした宗介は、二人に向き直るなり。
 いつもの――それでも随分と申し訳なさそうな――口調で告げた。



 整理券の番号は、150番。
 どうやら、運良く最後の一人となれたらしい。先程のポスターで、先着150名様という文字を確認したのだ。
 宗介は列に並びながら、彼女の事を思い返していた。

 まだ、彼が『カシム』という小さな戦士であった頃。
 ふらりと、アニーはやって来た。
 聞けば彼女は、医者なのだと言う。しかも、子供を中心に診る小児科医だというのだ。
 始めは打ち解けることの出来なかったカシムだが、ある日高熱を出して倒れてしまった。
 その時、アニーは冷静に彼の症状を診て、きっぱりと断言した。
「この子は麻疹に罹っているわ。すぐに安静に出来る所に移さないと」
 唖然とした。その当時、ゲリラのリーダーとも言えるヤコブ相手に、彼女は堂々と渡りあったのだ。
 その後カシムは一件の小さな家の一室を借り、彼女の手当を受けた。
 きっかり2週間後完治したカシムだったが、彼女とはそれきり音信が途絶えてしまった。
 寝ている間、ずっと彼は彼女と一緒だったのに。
 いろんな事を聞いたのに。
 でも。
「私には、待っている子供たちがいるから」
 ヤコブから聞いた伝言に、彼は礼を言うことが出来なかったのだと感じた。
 たぶん、一生。

 でも縁があったのだろう。カシムは『相良宗介』という少年として、今ここにいる。
 そして、アニーも。
「どうぞ」
 ふと聞こえた声に、宗介ははたと我に返った。
 どうやら、自分の番になっていたらしい。
 先程買った本を差し出すと、彼女はにこやかな笑みを浮かべたまま本の見返し部分にすらすらとサインを書き付ける。
 と、目が合った。
 慌てて目を反らしたが、アニーは穏やかな口調で言った。
「……あら。あなた、あの子に似ているのね」
 英語だった。
 傍らの女性が告げようとすると、宗介はぴっと手を上げて制した。
「自分も、英語は出来ますので」
 そこから、彼も英語に切り替える。
「どなたに、似ているのですか?」
「まあ。あなた、英語がお上手ね。嬉しいわ」
 アニーは嬉しそうに微笑んでから、穏やかな口調のままで続けた。
「そうね、似ているわね。以前……3〜4年前くらいかしら。麻疹に罹った子がいてね、その子に似ているわ。あなた」
 そうだ。だって、その時の子供が、俺だから。
 言おうとした言葉が、出てこなかった。
「もしよかったらで、いいのだけれど。この本屋さんの向かいに、お店があるわね」
「はい。喫茶店……カフェが」
「じゃあ、そこでお話でも聞いて頂けて?」
 とても意外な誘いだった。
 ……でも。
 彼女は、幸せそうだった。
 自分は、今も戦争の手先で。
 彼女には、釣り合わないと思って。
「……いえ、自分には……予定が」
「そう。残念だわ」
 本当に残念そうに彼女が言ったので、宗介は。
 胸のあたりに、ちくりとした何かが刺さったのを感じた。



 いつも通う、電車の調布方面のホームにて。
 本を、読んでみる。
 本の内容は、ありふれた彼女の自叙伝だった。
 何故彼女が医師を志したかとか、よくある話だと思った。
 だが、最後の章のタイトルが気になった。
『世界中の我が子たち』とある。
 ページをめくりながら、彼は電車を待っていた。
 そのうち。
 見なれた名前に、宗介はぎょっとなった。
『カシムという子』
 ごくりと唾を飲み込み、そのページを読んでみる。




 その子の名は、カシムといった。
 今でも覚えている。意志の強そうな、ぎらぎらと輝いた瞳の、黒い髪を長く伸ばした、男の子だ。 彼は、幼いながらもゲリラ兵士として戦う日々を過ごしていた。
 無口ではあったけれど、とてもかしこそうな子で、聞けば東洋人なのだという。
 そんな彼は、ある日高熱を出して倒れた。診察した結果、麻疹を患っていた。
 彼のいる、ゲリラの男の一人が言った。
『こいつは、我らの作戦には無くてはならない存在なのだ。だから、今度の作戦にも連れていく』
 冗談ではない。そう思った。
 この子には、未来があるのに。
 綺麗な瞳で、もっと見なければならない世界があるのに。
 だから、わたしは進言した。
『駄目よ。この子を安静に出来る場所に移しなさい!
この子には未来があるわ。その未来を、あなたたちの作戦のために潰させたくない!』
 後から、冷徹なことを言った男がゲリラのリーダーだと知った時、わたしは肝の冷える思いをしたが。
 彼は言った。
『あなたの言うとおりだ。あの子をこの世界の中で殺すわけにはいかない』
 そして『ありがとう』の言葉を聞いた時、わたしは実感した。
 カシムを助けて、よかった。
 あの子の笑顔が見れなかったのは心残りだけど、それでも。
 彼は今、何処かで幸せに暮らしている。
 わたしは、そう信じている。




 知らず、本にぽたりと滴が落ちた。
 彼女は覚えていたのだ。
 名前だけではない。何故助けてくれたのかも、彼女は覚えていた。
 嗚咽を聞かれまいと、いつしか彼は口元を押さえている。
 嬉しかった。
 何故か分からないけれど。
 
 どうして、あの時礼を言えなかったのだと自分を責めた。
 彼女のお陰で、自分はここまで生きることができた。
 彼女のお陰で、仲間ができた。
 彼女のお陰で……。
 数え切れない感謝が、宗介の心を押し包む。
 今更、後悔した。
 彼女の誘いを何故受け入れなかったのだろうか。
 自分の身勝手で彼女を傷つけたのかもしれないと思うと、先程感じた胸の痛みがさらに大きくなった気がする。
 そこでふいに、反対側のホームを見ると。
「!」
 てくてくと、二人の女性が歩いているのが見える。
 一人は背の高い、キャリアウーマン風の女性。
 もう一人は、白いものもちらほら混じった、小柄な女性。
 アニーだ。
 宗介は直感した。
 彼女たちは、どうやら新宿方面の電車でホテルに向かうらしい。
 言わなければ。
 そう思った。
 でも、どうやって?
 ぎゅっと唇を噛み締め、宗介は走り出していた。
 ホームの連絡口を通り、反対側の――新宿方面のホームへ。
 そして。



「……アニー!!」
 大きな声に、彼女は振り向いた。
 肩で息をして、一人の少年が立っている。
 宗介だった。
「……あなたは、さっきのサイン会の子ね?」
 穏やかな英語で、にこやかにアニーが尋ねてきた。
 こくりと頷く。でも、これでは駄目だ。
 だから、宗介はゆっくりと息を吐いて。
「……アニー、覚えているか?」
 アフガン訛りのペルシア語で、彼女に尋ねてみる。
 発音が錆び付いているのは仕方ないことだが、それでも彼女に通じるはずだ。
「……まさか、あなた」
 アニーの目から、見る間に涙が溢れてくる。
「カシム……?」
「そうだ」
 頷いた宗介――カシム――に、アニーが駆け寄ってきた。
「ああ、カシム……!」
「会えるとは、思わなかった……」
 再会だった。
 本当に、懐かしい。
「よく顔を見せて頂戴、カシム?まあ、こんなに大きくなって……」
「あなたのお陰だ。あなたがいてくれて、俺を救ってくれたから」
 お互い、抱きしめあって喜ぶ。
 いや、宗介の方は傍目から見て区別がつかないのだが、少なくとも彼は言い様のない喜びに溢れていた。
「アニー。あなたのお陰で、俺は今こうしてここにいるんだ。本当にありがとう……感謝している」「そんな……バカなことを言わないで。カシム」
 涙を拭い、彼女はきっぱりと答えた。
「私の仕事はね、世界中にいる我が子を助けるためにあるの。あなたも、その一人」
「……我が子?」
「そう。あなたも、私の子よ。カシム」
 微笑んで言った彼女の瞳に、一片の迷いは無かった。




 数日後。
 うららかな昼休み。
「どしたの、ソースケ。凄く真剣そうに本を読んで……これ、こないだ買った本?」
「うむ。そうだ」
 ひょっこりと顔を出してきたかなめに、宗介は小さく頷いた。
 どうやらあまりにも熱心に本を読んでいるので、興味をそそられたらしい。
「あんたのことだから、戦争の本とか読むと思ってたんだけどね。結構意外?」
「そうか?」
「あら、意外じゃないっていうわけ?」
「そうだろう」
 本をぱたりと閉じて、宗介はきっぱりと答えた。
「子供が読むのは、当然のことだ。何故なら」
「……子供?」
「ああ」
 訝しげに聞いてくるかなめに頷いて。
「これは『母さん』が書いた本だからな」




Fin.



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