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その日は、細々とした雨が静かに降り続いていた。 目の前に置かれた香茶はもうすっかり冷めてしまっていたが、オレも、そして向かいに座っているリナも、そのカップに手をつけようとはしなかった。二人とも部屋の調度品のように固まったまま、言葉すら紡ごうとはしない。まるで一枚の絵画にでも入り込んだ気分だ。 昼下がりの食堂は、遅めの昼食をとる客と、午後のティータイムをくつろぐ客とで、席は七割がた埋まっている。ゆっくりと降り積もるようなざわめきと、その隙間を縫って聞こえてくる雨音が、今という時が現実であることを遠慮がちにオレに知らせていた。 「雨……止まないね」 先に口を開いたのはリナの方だった。オレよりいくつも年若いリナにとって、この重苦しい沈黙はさぞかし酷だったことだろう。相変わらずその顔は俯いたままだったが。 「ああ……」 喉の奥を鳴らすようにして絞り出したオレの声は、まるで他人の声のように聞こえていた。なにげに触れた自分の唇が思いのほか乾いていることに気付いて舌で湿らせてやっても、その口からは次の言葉は出てこなかった。 「この雨が止んだら――」 リナの言葉が続く。 「店を出て、別々の道を行くことにしましょう……」 今まで一度も聞いたことのないリナの声は、オレの中に冷たい一片を滑り落としていった。 だが、それが今のオレ達にとって一番いい方法かもしれない。そんな思いを込めて、ゆっくりとオレは頷く。 他に何かいい方法がひょっとしたらあるのかもしれない。でも少なくとも今のオレには思いつかない。リナだってさんざん考え抜いて辿り着いた結論だろう。 窓の外に視線をやる。降り続いている雨は、ほんの少しだけ弱くなっているような気がした。 きっかけは、本当に些細なことだった。もちろんそれは、今までに積み重なってきたものに比べての話であるが。 情けない話だが、最初におかしくなったのはオレの方で、言うなれば自分の中に二律相反を作り上げていたようなものだった。リナを求める心と大切にしたい心。矛盾する二つの感情を。「オレはこいつの保護者だから」と素直に笑えることが日増しに少なくなっていたのは、今この時につながる階段を一段づつ昇っていたにすぎなかったわけだ。 いっそ思いをぶつけていた方が、事態は好転していたかもしれない。でもそれは水をこぼしてしまったことに嘆くだけの行為と、何ら変わりはない。おまけにこぼした水はまた注げば事はすむが、オレの目の前にある問題は、そんな単純な話ではない。 「ふぅ…………」 卓上に視線を落としていたリナは、まるで何かを放り出すように溜め息をつき、オレ達の回りだけ再び沈黙の幕が降りてくる。 オレの小さな――少なくともオレはそう思っている――異変を、リナは確かに感じ取っていた。小さいが確かに存在するひずみは、オレとリナの間にゆっくりと、しかし確実に増えていった。まるで淡い粉雪がゆっくりと降り積もり、街の景色を変えていくように。 歯車が一つ狂えば、あとは脆いものだった。変わっていくオレに、リナはまるで腫れ物を扱うかのように接し、そうすることによってますますオレは変わっていった。半ば無駄だとはわかっていても、お互いの仲を修復しようともがき、それがすべて裏目に出て、すべての事に疲れ…… そして、今に至る。 「どうしようもなかったんだよね……」 リナの声は、まるで自分に言い聞かせるかのようだった。 「ああ……多分な」 「ガウリイ、アンタって……時々、別人みたいに見えるのよ…… うまくは言えないんだけどさ」 リナの声が続く。まるで今までの沈黙が、その言葉を塞き止めていたかのように。 「ねえ、気づいてる?アンタって周りの事はよく分かってるくせに、自分の事になるととたんに無関心になるの」 オレは何かを言いかけ、そして何を言いたかったかを忘れ、所在無く口を閉じる。 リナの言うことは、ある意味正しいのかもしれない。考えてみれば、もう随分と前から自分の事なんて気にかけてないように思う。 オレがその事に気づくのを待っていたかのように、リナは再び口を開いた。 「あたしは、アンタのそういう所を変えてあげたかった。『あげたかった』なんて言うと、恩着せがましいけどね」 「別に……そんなことはない」 違う、オレの言いたい言葉はそんなことじゃない。 今一番口にしたい言葉が見つからないというもどかしさは、何物にも変えがたい程の重さをもってオレの心にのしかかっていた。言葉は人の考えだした、一番便利な道具のくせに、肝心な所で人間を裏切る。少なくとも今のオレにはそう思えた。 どれだけ生きてきても、この場面だけは、決して慣れることはない。 人に関わらないでいるということは、本当に楽だった。自分のことだけを考えていればいいだけのことで、他に難しいことを頭のなかに入れる必要はない。流れの傭兵をやっているのもそんな理由からだった。戦うことに専念していていれば今日は終わるし、なにより食いっぱぐれることもない。それはただ過ぎてゆくだけの無彩色の日々を淡々と生きているにすぎなかった。 リナと出会って、明らかにオレは変わった。オレを変えたかったとリナは言っていたが、リナと一緒に旅をすることで、オレは確実に変わっていた。はじめて自分以外の人間を大切にしようと思ったのも、否定しがたい事実だ。 自分は人より偉いなんて、思ったことはない。リナに出会うまで、傭兵として何人も人を殺してきた。だからむしろガウリイ・ガブリエフという人間は救いようのない罪人だと思っている。 リナは、オレのそんなところを否定してくれた。直接口に出して言った事は一度もなかったが、それくらいはいくらオレでも感じ取っていた。 「オレを変えたかった」というリナの言葉は、嘘偽りのない本当の言葉だという事はわかっている。 彼女がいままでしてくれていたことを無にしたのはオレのほうで、つまるところ原因はオレにあるということか。 そう思うと、無意識に言葉が自分の口をついて出ていた。 「すまないな……今まで」 瞬間、リナはなにか言いたそうに小さく口を開き、そして再び閉じる。小さく噛んだ下唇が痛々しくて、少しだけオレは目をそらした。 「雨、やんだね……」 「ああ……」 いつのまにか、リナは窓の外を見ていた。彼女の言うとおり、さっきまで降り続いていた雨はあがり、厚く重い雲を貫くように光がさしている。それをみてオレたちは、どちらからとなく席を立ち、そして出口へ歩を進めた。 陽の光が、地面にできた水溜まりに跳ね返り、目に飛び込んでくる。オレは思わず目を細め、そしてその傍らでリナは右手をかざして光を遮っていた。 「ねえ、ガウリイ……」 「ん?」 「憶えてる? この街道を少し行ったところで出会ったのよ、あたしたち……」 「ああ……憶えてるさ……」 今でもはっきりと思い出すことができる。多勢の野党相手に怯むことなく胸を反らしたリナの姿を。その時から変わらない強い意志と、それを宿した緋色の瞳を。 「ね、せっかくだから、その場所でサヨナラしよっか?」 不意にリナがこちらを向く。その顔はさっぱりしているようにも見えるし、痛々しそうにも見える。そのどちらかは、オレには判断がつかない。結局男のオレにとって、女の心の中なんてわかるはずもない。所詮女は遥か彼方人なのだ。 「どうする?それとも未練が残るから、やめとく?」 「いや……その場所がいい」 別の道を行くには、とは、オレには言えなかった。 随分ゆっくりと歩いたつもりだったが、それでもその場所に辿り着くのにさほど時間はかからなかった。 いつもはオレの前を颯爽と歩いているリナも、この時ばかりはオレの横を歩いている。オレがリナの歩く速度に合わせたのか、それともリナがオレに合わせて歩いたのか、おそらくリナに聞いても分からないと答えるだろう。 「着いちまったな……」 「そうだね……」 見上げると、生い茂る木々の隙間には青空が広がっている。さっきまでの雨がまるで嘘のようだ。ちょうどオレ達が出会ったあの日も、こんな天気だった。 リナも、そしてオレも、その場に立ち止まって見上げてみる。木々の間を抜けて来た風が、少しだけリナの外套とオレの髪を揺らした。 不意に、リナがオレの目の前に回りこむ。 「もう……行くね」 はめていた手袋を外し、右手を差し出すリナ。 「じゃ、元気で」 オレも手袋をはずし、その小さな手を優しく握る。 「リナも、な……」 つながれていた手はゆっくりと離れ、リナとオレは一瞬だけ視線をあわせ、そしてぎこちなく微笑みあった。 一つうなずき、オレの横を擦り抜けて歩いていくリナ。その背中を少しだけ見送った後、オレもその場に背を向けて歩き出す。 数歩歩いたところでオレは、懐をさぐって少しくたびれた煙草を取り出し、その先に火を点した。 口に含み、ゆっくりと吸い込み、溜息混じりに紫煙を吐き出す。 煙草の先には、リナの瞳の色と同じ緋色が、うっすらと宿っていた。
〜了〜 |