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ぱち、ぱち、と、耳に優しい音が弾けている。加えて、頬に当たる熱を感じ、ガウリイはそれを焚き火の音だと判断した。 炎の原始的な暖かさ。人を安心させるそれに、ガウリイの意識が再び解けていく。ああ良かった、リナが随分と寒がっていたけれど、これならもう文句も出ないだろう―― 「って、そうだリナ!」 唐突に思い出して、眠気が吹き飛んだ。がばりと身を起こす。と、胸の中に残った甘い香りが、ガウリイにそれ以上の動きを止めさせた。げほげほと咽る。深く息を吸って吐いて、残りの痺れを追い出しながら、ガウリイは自分の状況を思い出していた。 そうだった、自分はまんまと敵――らしき者、の手に落ちてしまったのだ。 女が笑ったと思ったら、急に身体が動かなくなった。リナが何か叫び、それに被るように轟音がして――その辺りから記憶がない。おそらく意識を失ったのだろう。 リナはどうなったのだろう。ここは? 初めて辺りを見回す。 簡素な小屋、のようだった。床も天井も板張りだが、窓がないために時間が計れない。明かりといえば板間の中央に設えられた炉の炎だけで、これが先程からガウリイを照らしていたのだった。 炉の上には薬湯の鍋がかけられていて、しゅうしゅうと苦味のある湯気を立てている。それ以外には家具らしい家具もなく、あまり生活感の感じられない部屋だった。 ガウリイはぐるりと部屋を見渡して、ここの出入り口が一つしかなさそうだということを悟る。炉を挟んで真正面にある、やはり板で出来た引き戸だ。 傍らに無造作に放り出されていた剣を、ガウリイは素早く引き寄せる。今、その扉から、近づいてくる気配があった。 「ああ、目が覚めたのねえ」 からりと戸が開いて、女が顔を出した。いつでも剣を抜けるように身構えているガウリイに向かって、にこりと邪気のない笑みを見せる。 「寒くないかい? ほら、そんな物騒なものは置いて。もっと火にお寄りよ」 警戒の色一つ見せない女に、ガウリイは戸惑った。先程、術か何かで自分を動けなくしたのが目の前の女だということも、この女が纏っているのが人間の気配でないことも分かっている。しかし、どうも気が殺がれた。 女は甲斐甲斐しく薬湯を器に注ぐと、ガウリイに手渡してきた。思わず受け取ってしまう。 「お飲みよ。身体があったまるから」 「はあ……」 手の中の薬湯はとろりとした水藻の色をしている。薬らしい香りを発してはいるが、苦いのが苦手なのと得体の知れない女の出した飲み物であることとでガウリイは口をつけずにいた。女は気付かない。というより、気にしていないらしい。屈託なく言葉を続けてきた。 「本当にねえ。よく帰って来ておくれだね。あたしゃずっと待ってたんだよ」 「え?」 「だってあんた、初めて会った時は怪我をして、道に迷って途方に暮れてたじゃないか。またそんなことになってるんじゃないかってねえ。 心配だってするさ。そうだろう?」 「えっ……と」 「でも良かった。こうして帰って来てくれたんだもの。これ以上のいいことはないさ」 噛み合わない会話に、ガウリイは首を傾げた。女の口ぶりは、まるで自分が前からの知り合いであるかのような様子だ。 確かに、竜だの魔族だの合成獣だのとおかしな知り合いは多いが、山の怪物に顔見知りなどいただろうか? 自分の記憶力にいささか自信のないガウリイは、相手の顔をまじまじと見つめた。 自分より年上に見えるが、年相応に綺麗な女だ。ゆるく結った白銀の髪のほつれや、古めかしい衣服を少し崩している様子に、大人の色香が滲んでいる。碧色の目はとろりと和らいでいて、笑むと人懐こい印象を与えた。 が、やはり知っている顔ではない。ない、と、思う。 「あら。いやだあんた、怪我してるのかい?」 唐突に言われて、はっと気付くと女の掌が目の前にあった。少し慌てるが、それに気付いたのか、女は触れようとはしなかった。代わりに、自分の方が痛そうに顔を顰める。 「大丈夫かい? 血が出てるよ」 言われて、ガウリイは自分で触れてみる。確かに、先程からこめかみの辺りがじくじくと痛んでいた。触れた指先には少しだけ赤いものがついてきたが、気にする程のものではない。掠り傷程度だろう。 「ちょいとお待ちよ」 乱暴に拭おうとするガウリイを留めて、女はひょいと手を引っくり返すような仕草をした。つい先程、ガウリイに触れようとしていた掌には、いつの間にか一輪の花が乗っていた。 きょとんとするガウリイを前に、女は安心させるようににっこりし、ふうっと息を吹きかける。途端、淡い色の花びらが順繰りに解け、女の吐息に乗って辺りに舞った。 目の前で花びらを散らされてぱちぱちと瞬く。と、女が満足そうに頷いた。 「治ったね。もう痛くないだろう?」 え、と驚いて、慌てて傷を探る。しかし、そこにはもう、痛みも傷痕もなかった。別の意味で目を瞬かせるガウリイに、女はころころと笑う。 「いやだねえ、あんた。初めて会った時だって、こうして治してあげたじゃないか。 早く言えば良かったのに。いつも言っていただろ? あんたの言うこと、あたしは何でも聞くからねってさ」 そう思い出を語る様子が、とても幸せそうに見えて。ガウリイは意を決して、女に告げた。 「すまんな。オレは、あんたとは会ったことない」 「ったく……あのウドの大木を、どこまで運んでったってのよ。無駄に馬鹿力ね……」 手近な木の幹に身体を凭れかけさせて、リナは呼吸を整えた。 あれから、雪に残る化け物の足跡を辿って、どれだけ山を歩いただろう。尤も、痛む身体を引き摺りながらでは、距離感も薄れる。時刻を知らせる日の位置を目で仰ぐが、空には暗雲と梢とが塞いでいて、それも叶わなかった。 目を細めて空を見つめていたリナは、ふと視界の隅に、小さく翻るものを見つける。また花か、と緊張を走らせるが、今度は本物の雪だった。リナのグローブの上で、刺々しい結晶が一瞬で水に還る。 「……こりゃ、とっとと終わらせたいわね」 本格的に雪に降られでもしたら、ガウリイの残した跡も消えてしまう。時間はかけていられなかった。一刻も早く、ガウリイの居場所を突き止めないと。 休んでいる暇はない。焦る気持ちのまま、リナはまた雪の上に踏み出そうとして。 「痛っ……――あっ!?」 脇腹に鈍い痛みが走った。その拍子に、ずるりと溶けかけの雪に足を取られる。慌てて体勢を立て直そうとするが、痛みの残る身体にその意思は伝わらなかった。視界が回転する。曇った空がまた見える。 ずざざざ、と斜面を暫く滑って、止まったのは僅かに平らな土地が広がった場所だった。はあ、と溜息をついて、リナはわざと軽口を叩く。 「……最っ悪」 ええいガウリイの奴助けた後で覚悟してなさいよ夕食奢らせるくらいじゃ済まないんだからね、と零しながら、そろそろと身体を気遣って起き上がる。背中や足が泥で汚れて、痛みよりもそちらの方が気になった。 寝転んだ視線の先に、化け物の残した跡がある。どうやら化け物が迂回して避けた急斜面を、ショートカットして降りてしまったらしい。 「近道したと思えばいいのよっ! えーえ、服が汚れても坂を滑り降りて身体中が余計に痛くてもねっ」 一声咆えるのを気合代わりに、身体を起こす。服を汚す泥を払うのは、何故だか悔しくて止めた。どれだけの斜面を滑り降りてきたのか、と改めて背後を見返って、リナは目を丸くした。 「……何、これ」 リナが滑り落ちてきた斜面の、すぐ横。ぽっかりと、大きな空洞が口を開けている。洞穴は地下に潜るように穿たれていて、奥は暗く翳っている。もう少し落ちる場所がずれていたら、この穴に落ちていたかも知れない。 「何の穴だろ? 動物の巣穴にしちゃでっかいし……」 リナは洞窟の縁に手をかけて、穴の奥を覗き込む。高さはリナの背丈とほぼ同じ、奥行きは知れない――が。 不意に、リナはそれを感じ取って、激しく眉を顰めた。淀んで動かない洞窟の空気が、リナの元まで届けてくる、それは――異臭だ。胸の奥から不快感を誘う、じっとりと湿って重い、しかし刺すような鋭さを併せ持つ、異常な。 「これって……まさか!?」 口元を覆いながら、慣れた呪文を唱える。手の上に生まれた光球を、指先で弾くように洞窟へと放り込むと、白々とした明かりが洞窟の中を露わにした。それを目の当たりにして、リナは息を飲む。 洞窟の奥に隠されていたのは、朽ち果てた数多の遺骸。時間の経過と共に肉が剥げ落ち、苔生してどれが誰のものかも分からない状態だが、確かにかつては人間だったもの達だ。 「何だって、こんなもんがこんなとこに……」 嫌悪感を堪えながら、リナは死体の山に目を凝らす。完全な白骨を晒しているもの、腐って黴の生えた肉が落ちかかっているもの、古いものから新しいものまで様々だ。いったいいつから、どれだけの人間がここに屠られているのか――。 まさかこれも、化け物の仕業だとしたら。 「洒落になんないわよ……無事でいるんでしょうね!?」 身を翻し、リナは洞窟から離れた。身体の痛みにも、もう構っていられない。化け物の残した跡を追って、リナは再び山の奥深くへと進行した。 「すまんな。オレは、あんたとは会ったことない」 ガウリイの言葉に、女の笑みが消える。更に重ねてガウリイは言った。それが女のためだと思ったのだ。幸せそうに誰かに話し掛ける女の、笑顔のためだと。 「オレはあんたを知らない。あんたはオレを誰かと勘違いしてるみたいだけど、人違いだ」 「……いやだよ、あんた」 あっさりと、女はガウリイの言を笑い飛ばした。 「おかしな人だね、からかったりして。笑わせないでおくれよ」 「いやだから、本当にオレは――」 「はいはい、分かった分かった。あんたが面白い男だってことはね」 「…………」 こりゃだめだ、とガウリイは肩を落とした。この調子だと、ガウリイがどんなに言い聞かせても、女は取り合ってくれないだろう。女の瞳には、ガウリイでない誰かが映っている。 諦めて、ガウリイは立ち上がった。この女が何者かは分からないままだが、それよりもリナのことが気になった。怪我をしているかも知れないし、そうでなければ自分を探しているだろう。それに、女の正体と処遇についても、リナの判断を仰いだ方が良さそうだ。 「どうしたんだい、あんた」 急に立ち上がったガウリイに、女が目を丸くした。戸口に向かおうとするガウリイに、慌てて追い縋ってくる。 「すまん、もう行かないと。怪我、治してくれてありがとな」 怪我をさせた相手に言うのもおかしな言葉だが、律儀に感謝の意を表し、ガウリイは戸口に手をかけた。 しかし。 先程、女が軽々と開いた扉は、何かに押さえつけられたように頑として開かなかった。眉を顰めるガウリイに、女の低い声が被る。 「――どこへ行くんだい、あんた」 次いで、それまで女の纏っていた気配が変わった。それまで優しげな笑顔の下に隠れていたものが、一気に溢れ出して女の相貌を変える。白い肌に浮き上がる緑色の斑紋と、真っ赤に裂ける口。長すぎる舌の覗く唇を、女はゆっくりと動かした。 「あの女のところかい?」 振り返ったガウリイは、周りの様子に気付いて目を見張った。板張りだった部屋が、見る間に姿を変えていくのだ。小奇麗だった部屋の壁も天井も、浮き上がり沈み込んではごつごつとした起伏に飲まれてしまう。 その起伏はやがて無数の植物の蔓に変わり、生き物の内臓のようにうねりのたうって成長を続けた。ガウリイに向かって、ぞろりと触手を伸ばしてくる。 「行かせやしない」 低く、女は言った。囁くように。人間の姿をしていた時とはまるで逆の恐ろしい声、しかしそれは同じ感情を根とするものだった。 「行かせやしないよ、あの女のところになんて! あんたはあたしと暮らすんだ。あたしと一緒に暮らすんだ!」 |