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強く手を引かれ、あたしと安積さんは席を跡にする。 「山登! そんな娘の何処がいいのよ!」 市川さんの声に、安積さんは足を止めた。 あたしは思わず体が硬くなったのが分かった。 ・・・安積さんは、何て答えるんだろう・・・? あたしが聞きたくて、でも、怖くて聞けなかったこと。 不意に力を込めて手を握られて、自分が強く握っていたことに気付いた。 「勿体無いけど教えてやるよ。 夏波はな、映画をエンド・ロールまで見るんだ。」 「・・・何よ、それ! 訳分かんないわよ!」 怒る市川さんをそのままに、安積さんは上機嫌で歩き出した。 市川さんの言葉じゃないけど、映画をエンド・ロールまで見ることの何処が、あたしを気に入った理由なんだろうか。 歩いている間中、あたしはそれを考えていた。 「夏波。」 着いたのは会社の給湯室だった。 「サンドイッチを買って来たから、コーヒー淹れてくれないか?」 まだ手を離さず、安積さんが言う。 あたしは頷いて、ゆっくりと手を引いた。 薬缶に水を入れて、コンロに火を付ける。 ガラスポットにドリッパーをセットして、ペーパーフィルターもセットする。 流石にもう挽いてある豆の入った缶を開け、メジャースプーンで三杯。マグ・カップにたっぷり二杯分。 用意するその手元に、痛い程の視線を感じる。 「・・・俺がお前を初めて見たのは、ここだった。 やっぱりそうやって、コーヒーを淹れていたんだ。」 唐突に呟かれた言葉に、あたしは安積さんを振り返った。 「昔の歌でさ、コーヒーを『琥珀色した飲み物』ってのがあってさ。」 「あ、知ってる。『コーヒー・ルンバ』でしょ? よく行くコーヒー豆屋さんで、いつも流れてるの。」 「そう、それ。結構古い曲でさ、子供の頃、なんで黄色じゃないのに琥珀色なんだろう、って思ってたんだ。 よく見る琥珀って、虫の入った黄色いヤツだったから・・・。」 安積さんの言葉を聞きながらあたしは、沸いたお湯をホーローのポットに移し、フィルターに触れないようにお湯を注いだ。 茶色の泡と、コーヒーの香りに思わず口許が綻んだ。 「・・・夏波の淹れるコーヒーは、本当の琥珀の色してた・・・。 落ちる雫は金色で、嬉しそうに見てる夏波も綺麗だった。」 言葉と共に、安積さんが隣に来て落ちるコーヒーを見ていた。 「綺麗だなんて、そんな・・・。」 「嬉しそうで、幸せそうで、ああ、だからかな。綺麗だなって思ったんだ。」 言葉を続けようとして、止める。安積さんが何か大切な事を言おうとしているのが分かったから。 「・・・夏波の淹れるコーヒーを飲んだら、他のが飲めなくなった。 色々抵抗して、試したけどダメだった。だから・・・。」 ゆっくりと回された腕と、肩に掛かる重み。 「早く籍を入れて、一緒に住もう。 式場なんて、それからゆっくり探せばいい。」 「ちょっと待って。順番が逆じゃないの?」 思わずつっこんでしまったあたしに、安積さんは笑いながら言った。 「そんな。式挙げるの待ってたら、一年くらい掛かるって言うじゃないか。 俺は一日でも早く、一緒に住みたいの。同棲は嫌だろ? 俺も嫌だ。 ちゃんと人に胸張って言いたいんだ。」 何となく、本当に何となく分かった。 あたしと安積さんは、根本的な考え方が似ているんだ。 だから、『映画をエンド・ロールまで見る』ことが、あたしを気に入っている理由だったんだ。 「それに、あんまり長い事この状態でいたら、お前さん、マリッジ・ブルーになりそうだし。 結婚止める、なんて言い出しそうだ。」 ・・・ちょっとだけそう思っていたので、後ろめたい。 「第一、プロポーズされたのは俺の方なんだから、今更止めるなんて言ったら傷つくぞ。」 胸を張って言う安積さんに、思わず笑ってしまう。 この人の、こういう細かい気遣いが好き。 「・・・安積さん。 結婚しても、手、繋いでくれる? 子供が出来ても、おばあさんになっても繋いでいて欲しいの。」 「約束する。 夏波こそ、毎日コーヒーを淹れてくれるか?」 「うん。」 あたしの返事に、ニッコリ笑った安積さんはあたしの頬をするりと撫でた。 「・・・嬉しいと泣くんだな。また新しい顔が見られた。」 ・・・今までで一番優しいキスに、Je te veuxが聞こえたような気がした・・・。 あの後。 お昼休みが終わって戻ってきた人たちが廊下にいて、あたしたちを盛大にからかってくれた。 恥ずかしくてどうしようもなくなったあたしの肩を抱いて、安積さんは笑っていた。 午後は仕事にならなくて、終業を待って急いで会社を後にした。 これ以上からかわれるのは困る。 「なぁ、夏波。お前、俺の何処がいいんだ?」 「『イイ男』なところ。」 「それはもう忘れろって。」 「本当にそうなんだもん。安積さん程イイ男はいないよ。」 軽口を言い合いながらの車の中。 一ヶ月前には名前も知らない同僚が、今では誰よりも大切な人になっている。 色々なことがありすぎて、ジェットコースターに乗ってたみたいな一ヶ月だったけど、 それも悪くないんじゃないかと思っている自分がいる。 と。ふいに流れるJe te veuxの調べ。慌てて出ようとしたあたしに、安積さんが手を押さえた。 「俺が掛けたから、大丈夫。 それより、こんな色っぽい曲を着メロにしておいて、俺には言ってくれないのか? 『あなたが欲しい』って。」 いつ知ったんだろうとか、何で知ってるんだろうとか。 聞きたい事はたくさんあったけど、取りあえずどうでもいいことだと頭の隅に追い遣った。 そして。 「安積さん、『あなたが欲しい』。」
終わり |