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果たされなかった願いや約束や想いや夢や。 全ては初めから無かったも同然なのだろうか。 伝わらなかった気持ちや言葉や涙や愛や。 全ては無駄で無意味なものだろうか。 そんなことはないとあたしは思う。 確かにこの世の中には無駄で無意味で無利益なものだってある。沢山ある。 でもさ。 それは一方方向から見た場合の結論であって、他方から見ればまた違った意味を持ったりする。 だからさ。 あたしは、無駄なんて無意味なんて思わない。 ―静寂と孤独の狭間を彷徨う夜― (第十四話) 作:あごんさん 「逮捕って、あなたとニーナを?」 「予想はされてたはずです」 してた。 確かにしてた。 しかし、どうしてこんなにも突然に態度が豹変するのかわからない。 さっきもそうだった。 道の真ん中で、ルワードさんは犯行を否定しながらも犯行を示唆もした。 あの煮え切らない態度が、なぜ今、急激とまで言っていいほどに変化したのか。 なぜ、そんなにも諦めた顔をしているのか。 なにか、きっかけがあるはずだ。 なにかに絶望、そう絶望したからこそ、ルワードさんは今こんな事を言ったのだ。 それは何だ? 「ニーナ! 単刀直入に聞くわ!」 「はい?」 にこにこと笑うニーナ。 悪寒が背中を走る。あたしは思わず己の両腕で身体をかき抱きたい欲望に駆られた。 なぜ、こんな。 どうしてそんな笑顔が今できるのか。 「あなたは、切り裂きジャック事件と関係あるのねっ!?」 「? 何を言っているのかわからないんですけど?」 本当にわからないように見える、その表情。きょとんとして首を僅かに傾ける。 「あなたが犯人だと、今、ルワードさんが言ったわ」 「どうしてそんな事を兄さんが?」 ニーナはルワードに不思議そうに目を向けた。 「兄さん? 泣いているんですか?」 慰めるように彼女は兄の肩を優しく抱いた。 それからややあってからニーナはあたしをきっと見据えた。 「リナさんがそんなこと言うから、兄さんが泣いてしまってるじゃないですか。冗談でも笑えませんよ?」 「冗談じゃあないわよ。本気よ」 気の置けない疲労にあたしは膝を折りそうだった。油断すれば倒れてしまうかもしれない。 「私が連続殺人の犯人? 証拠はあるんですか?」 確実な証拠は無い。今までルワードさんに言ったことだって確実とは言い難いのだ。 「……………………」 言いよどむあたしに、ニーナはどこか強い口調で言い放つ。 「リナさんにはそりゃあお世話になってますし、感謝もしてますよ。今もこうして指を治してもらったわけですから。でもいきなり犯人扱いはないんじゃないですか?」 あたしの治した指を強調するようにニーナは小指を目線まで上げた。 睡眠不足が影響しているのか、あたしはどこかぼんやりとその指を見た。 本当に完璧に治ってる。良かった。骨にヒビが入ってたおそれもあったし。 なのに、どうして昨日は無理してまで包帯を外したの? かなり痛かったはずなのに。 ダメダメダメ。こんなこと考えてる場合じゃない。 証拠よ、証拠。何か、何でもいいから思い返して。何か決定的な言葉をニーナから引き出すのも手だ。 何度も読んだ資料の内容が脳裏に浮かんでは消えていく。 被害者の全員はなぜ胃と心臓の一部を取られたのか。なぜ犯人は取っていったのか。 ユニア=イースの髪を切られた理由はわかった。だがどうしてわざわざ元の場所に戻ってそこで切開をしたの? ユニア=イースだけ何故絞殺されたの? あぁ、そうだ。何か犯人側にトラブルが発生して、それで絞殺に及んだ可能性が強いんだった。 そこから死体を連れ去るほどに、犯人は被害者の内臓を欲しがった。 トリッシュ=シナの前歯に挟まった肉片は何? ここから何か得られる情報はある? あるわけないじゃない。今まで何度も考えても考えてもわからなかったのに! 「リナさん? 私、別に怒ってませんから。ね? コーヒーでも飲んでくださいよ」 差し出された左手に、コーヒーカップの湯気が立ち上る。 「なぁ、ニーナ。お前さんさ、昨日俺にさ、治ったって言ったよな?」 「え? えぇ」 ガウリイがこの沈黙を破りニーナに穏やかに語りかけた。 「治ってなかったじゃないか。ヒビが入ってるってリナも言ってた。実際に痛かったんだろ? だから今日は包帯してたんだろ? なんで昨日に限って包帯をしてなかったんだ? 俺にはそれが不思議でならないんだ」 「あの、嘘をついたってわけじゃあないんですけど」 「嘘じゃないか。それで誰に迷惑をかけるわけじゃあないけど、だからかえっておかしいだろ。そんな無利益な嘘。ついてもしょーがないじゃないか」 「そんな、ガウリイさん………昨日は本当に、その………」 「何か、包帯を巻けない理由があったんじゃないのか? それが何なのか俺には想像できないけどさ」 ニーナがまだもごもごと口ごもったが、それは聞こえなかった。 いや、待て。これって結構重要じゃないか? そうだ。どうしてニーナはそんな嘘をつく必要があったんだ? 包帯を巻けない理由? 包帯を巻くことができない事情。 包帯が………昨日は、無かったんじゃあないのか? 無かったから、巻けなかった。 どうして、無かった? 一昨日まであった包帯がなぜその翌日には無い? ………ちょっと待て。一昨日? その日は………。 さっき、ニーナに治癒をかけた時の違和感。 どこに術の効力が散ったんだろうか。他にケガをしているのは確かだ。 どこだ? 再び甦る資料の一部を頭の中で読み返す。 ………そうか。 わかった。 確実な、証拠が手に入る。 「ユニア=イースの名に覚えは?」 ひたりとニーナの両目を見て、あたしはそう言った。 「………知ってます」 ほう。こりはちと意外な答えだ。 「どうして?」 「あの、よくこの店に来てましたから………」 「ここに来てた?」 こくりとニーナが頷く。 なんで? とあたしが訊くまでもなくニーナが答える。 「その、あなたがハロルドの新しい女か、とか。兄さんは元気か、とか。よく何人かで来てましたから」 なるほど。確かにユニアは市長への脅迫をある程度は推し進めていたようだ。 ハロルドのことについては、まぁ、軽度の女の嫉妬めいたものなのだろう。 「そう。なら話は早いわね。ユニア=イースは一昨日に深夜に殺害後、誘拐されたと考えられるわ」 ニーナは黙ったままだ。 「そして昨夜に遺体が発見されたの。発見された遺体を検死した結果、死因はそれまでの三件とは違い、絞殺であることが判明したわ。それまでは全て刃物による切り傷からの出血多量だったのよ」 まだニーナは黙ったままだ。その表情はなんとも読みにくいものだった。 「どうして犯人はユニアに関しては刃物を使わなかったのか、だけれど。あたしの推測では何かアクシデントが発生して刃物を使えなくなった、て可能性を推すわ。 それでもどうにも不思議だったのが、犯人がユニア殺害に使った紐なの。 犯人はこれまでと同じく刃物による殺害を行うはずだったのに。 あたしが着目したのはね、犯人はそれまでの事件でももしもの場合を想定して、絞殺用の紐を常に用意してたんだろうか、ってことだったの。 もし用意してあったんなら、それまでの事件でも絞殺すればよかったと思わない? どう考えても犯人は被害者の内臓に固執してあるだけって感じだし。殺害後に刃物で内臓を取り出せばいいのよ。そうすれば事はもっと簡単に運ぶ可能性が大きいもの。でもそうしなかったってのはおそらく。 犯人は前三件の犯行時には紐なんて持ってなかったのよ。まぁこれだけで決め付けるのも乱暴だと思うけどね。あくまでも仮定として聞いてもらえればいいし。 で、なぜユニア=イースの時には紐が用意されてたのか、だけど。 これは別に絞殺用に用意されてたものではなかったんじゃあないかしら? たまたま、犯人の手元には紐があったのよ」 最後の一文を強調するように、あたしはゆっくりと言い放ち、ニーナの顔を、そしてルワードさんの顔を見つめた。 ニーナもルワードさんも無言のままであたしを見詰め返すのみ。 静寂が、ずっしりと部屋に座り込む気配がする。 「あの〜〜リナさん?」 そこにおずおずと声を掛けてきたのは『そーいやいたわねアンタ』のアリエールだった。 「なに?」 「僕だけじゃないと信じたいけど、話がよく見えないんだよね」 なんで見えないんだ、アリエール=ソフラン。 「聞いてればわかるわよ。それでもわからなかったら説明したげるわ。後でね」 冷たく言い放ちあたしは再び市長の子供達に目を向けた。 「どうして一昨日の昼間にはその小指に巻かれていた包帯が、昨日の昼間には巻けなかったの?」 静寂が、満ちる。 心にも体にも染み入るように、部屋に満ちる、その音が聞こえる。 「それは、その………」 「無かったからよね。包帯そのものが無かったから、昨日は巻けなかったのよね?」 何か言いかけたニーナを遮るようにあたしは、半ば畳み掛けるように結論を口にした。 ばさりっと鬱陶しいマントを跳ね上げる。 それだけで淀んで濁った空気が少しだけ動いたのがわかる。 「あたしの推理はこうよ。 いつにケガをしたのかは知らないけど、あなたはとにかく包帯を巻いていた。一昨日の昼間の時点では。 一昨日の深夜、あなたは………いいえ、あなたとルワードさんはバイカー通りにいるユニア=イースに会いに行った。勿論、手には刃物を持って、ね。 っと、反論はあとで聞くわ。黙ってて」 口を開きかけたニーナをあたしは無理矢理黙らせた。 「そこで予期せぬアクシデントってのはさっき言ったわよね。刃物が使えなくなったのか、ユニアの予想外の抵抗かはわからないけれど。どういう事情かは知らないけど、とにかくニーナとルワードさんはユニアの内臓が欲しかった。この機会を逃せば手に入らないかもしれない。 そこで貴女は自分の左手の小指に巻かれている包帯を見た。 包帯ってのは伸縮がある程度あって、しかも丈夫なもの。 人一人を絞殺するくらいはわけないわ。 あたしは経験が無いんだけど、絞殺時ってかなりの時間と力がいるみたいね。人って簡単に死にそうな生き物で実際にそうなんだけど、でも殺害時ってのは想像よりも長く生きるらしいわ。なかなか死なないのよ。加害者もまた死んだと確実に理解できるまで時間がかかる。 首を絞める手を離した瞬間に動いたら、とかそういう一種の恐怖から長時間、無駄なほどに力を込めて締め付けるんですって。ここまではあくまでも聞いた話だけどね。 それを踏まえて、よ。 包帯ってのは伸縮機能があるけど、一定以上の負荷がかかるとヨレヨレに伸びきっちゃうのよね。 ねぇ、ニーナ。あなたの包帯は一昨日の深夜にユニア殺害で、使い物にならなくなったんじゃあないの? だから、昨日はしてなかった。 いえ、できなかった。 でも昨日の昼過ぎにはガウリイがあたしのトコにハロルド連行を伝えに来たから、そこからあなたはフリーよね。 ひょっとしたら今日からじゃなくて、昨日の昼以降かもしんないけど、あなたは包帯を手に入れて、だから今日は巻いてるんじゃあないの?」 ここまで一気に捲くし立てると、あたしはニーナとルワードさんに再び視線を戻した。 ルワードさんの肩はまた一段と落ち込み。 ニーナは、無表情であたしの視線を真っ向から受けて止めていた。 まるで人形のように。 「反論は?」 「包帯を巻いているか巻いていないかだけで犯人を決め付けるんですか?」 挑戦的かと言われればそうでもない。ただ淡々とした口調。まるで他人事のようだ。 「そうね。乱暴かしらね」 本音である。 これだけで犯人呼ばわりなんてしてたら世の中大変なことになる。 つまりこの事は証拠になりえない、ということ。 あくまでも犯人たる可能性を強めてくれるだけだ。 保冷庫については言及しなかった。今はそれ自体はさほど関係の無いことだからだった。 「でも」 あたしは小さく、そして早口で呪文を唱えた。 唱える術は―――。 短い詠唱の後ですぐさま魔力を解放するための混沌の言葉を解き放った。 「風牙斬」 普段なら人の皮膚を斬るくらいの力はある風の術。鋭く疾走する風の刃は殺傷能力こそ低いものの、それなりに脅威ではある、が。 今回はちと呪文にアレンジを加えてまとまる風を少し散らばらせた。その分、当たり前だが力は分散して、短い突風めいて部屋を駆け抜けた。カーテンが翻り、テーブルクロスが踊る。 そして部屋にいる全員の髪もまた風に煽られ水中でそよぐ藻のように揺らいだ。 そしてあたしは見た。 確実な証拠を、はっきりと。 勿論、これを見るためだけに唱えた術だったが、予想は的中していた。 ニーナの淡い栗色の髪が。 空中で遊ぶように舞う。 小さな、形の良い耳が、よく見えた。 あたしは、やっぱりふらつきそうになる体を堪えるので疲れ始めていた。 「第三の被害者! トリッシュ=シナの前歯には成分として生の、脂身の肉が挟まっていたわ!」 己の体に喝を入れるためにもあたしは声を張り上げた。怒鳴っていると表現した方がいいかもしれないが。 「あたしはこれがどうしても不思議だった! 検視の結果では昼食の名残とされてたけど半日もの間、前歯に挟まった肉片を放っておく人間がいるとは思えなかったからだわ! でもこれは食物なんかじゃあなかったのよ! トリッシュは殺されるその瞬間に、最後の力で、犯人の耳朶を噛み千切ったのよ! つまりこれはトリッシュからのメッセージだったんだわ! 刃物で腹を切り裂かれながらも! ひょっとしたら混乱の内に、いえその激痛ゆえに、彼女は目の前にあった耳朶に歯を立てた可能性は高いと思われるわ!」 ばっとあたしは指をニーナに向けて突きつけた。 「今しっかりと見えたわ! ニーナ、その左耳はどうして耳朶が欠けているのっ!?」 あたしの烈火のごとく突き刺さる視線にもニーナは動じることなく、 「先日、リナさんが仰ったようにトリッシュさんに噛まれたんです」 夢見るようにほのかに肯定した。 あたしは視線をニーナから外さぬままでアリエールを呼んだ。 「アリエール! 自供したわ! 逮捕よ!」 「………う……え? あ………あぁ、逮捕、逮捕だね」 未だに状況を把握できてないのか、アリエールは間抜けな声を出してからようやく一歩をニーナへと踏み出した。 なぜニーナがそんな凶行に及んだのかなんて後で調べれば済むだけのこと。 むしろあたしにとって殺人に至った理由なんかどうでもよかった! 動機なんて後でいくらでも後付けされるものだのだから。 「自供?」 こてりとニーナは首を傾げた。 不思議そうに。 「私、トリッシュさんを殺してません」 この場に不似合いに。 「だって、私は」 忌々しいほどに。 「確かにユニアさんは絞殺しましたけど、後の三人については、お腹をナイフで切っただけなんですから」 何を言っているのか理解出来なかった。 「ユニアさんについては認めます………。確かに包帯で首を絞めました。リナさんの言う通りです」 諦めるように吹っ切るように、どうでもいいことのようにニーナはあっさりとユニア殺しを認めた。 「なんとか誤魔化せないかな、と思いましたけど、無理みたいですね」 「だって、今、トリッシュに耳朶を噛み切られたって言ったじゃない!」 「はい。でも私、お腹を切って内臓を取っただけですから。殺してません」 眩暈がする。 ニーナの言葉が理解できないことになのか、理解できていながらもそれを拒否しているためか。 吐き気までもする。 「私が殺したのはユニアさんだけです。他の方は、お腹を切っただけなんです。 内臓を調べたかっただけなんです。 それだけだから、私は切り裂きジャックなんかじゃあありません」 あたしは二の句が告げなかった。 完全に呆けた表情で、立ち尽くすだけだった。それは皆も同じようだった。 つまり、ニーナは。 腹部切開後の内臓摘出が、生命の断絶に繋がるとは思ってないのだ。それこそ欠片も思っていない。 「なぜ、内臓を?」 力無い口調ではあったが、ガウリイが眉を寄せてニーナに向き直った。 あぁ、そっか。それが疑問なんだわ。 ニーナの言葉をそのまま解釈するならば、ニーナはただただ内臓が欲しかっただけ。 これは切り裂きジャックが内臓に固執しているという見解と一致している。 だが、どうして。 どうして内臓にそれほど固執せねばならない理由があったのか。 心の隅の方で、あたしはそれを聞きたくないと祈るような気分だった。 「前にガウリイさんには言いましたよね? よく色んな男の人や女の人に絡まられるって。その時に皆が皆、『ハロルドの新しい女はお前か』とかを聞いてくるって」 「ああ、確かに聞いたよ」 ガウリイは重々しい表情で頷いた。 「私、それがどうしても気になってしょうがなかったんです。 何度かハリーにも聞いてみたんですが、言葉を濁すだけでした。 それで時々、女の人たちが四人で来てやっぱりそういうことを聞いてきたんです。 年齢も近いし、この人達なら聞けば教えてくれるかと思って、聞いてみたんです」 思い返しているのか、やや天井に目を向けるようにニーナが滑舌よく答える。 「一体なぜ兄さんのことやハロルドの話題を出すのか、と。 そうしたら、その女の人達は笑って言ったんです。 『秘密はすべて私たちの胸の中にある』って」 同じ科白を聞いたことがある。 昨日だ。昨日に昼間に、聞いた。 リズにあたしが被害者達との共通点や秘密を聞き出そうとした時、リズは微笑って言った。 ―――秘密は常にそれぞれの胸の中にしまっているの。 確かにそう言っていた。 目の前の景色が大きく歪んだ。一瞬のことだったが、それはあたしから根こそぎ何かを奪っていきそうな眩暈を引き起こした。足元の床がぐにゃりと波打つようなその錯覚はしかし、現実にあたしの身体は顕著な反応を示してよろめいた。 「だから、胸の中にある秘密を調べてたんです。でも誰のも何も言ってくれませんでしたけど」 無垢と評していいほどのその笑顔。 ニーナには罪悪感というものがないことの証拠。 いや、違う。 罪とは思ってないのだから、罪悪感の持ちようがないのだろう。 ふらつく身体を後ろから優しく支えてくれる大きな温かい手があたしを心ごと包み込んだ。 ガウリイだった。 さり気ないその優しさはあたしの両足に再び力を取り戻すのに充分だった。 そうだ。 さっき自分で言った。 あたしはこのふらつく体に鞭を打ってでも今立ち上がることに意味があると。 そしてガウリイも言ってくれた。 あたしは自分で立っていることを実感してないとダメだと。 唐突にリズの顔が思い浮かんだ。 あたしを信じてくれて、抱き締めてくれた時のリズの表情。綺麗で儚い笑みだった。 そうよ、あたしは、リズの信頼を裏切ってなんかない。 守れなかった。 でも、あたしは、裏切ってなんか、ない! 膝に力を込めてあたしは、優しく離れがたいその手をほどいた。 ニーナに罪を犯したという認識があろうが無かろうが、あたしは彼女を追い詰める! あたしの彼女に対する気持ちはやや変化しているが、それでもこの街で知り合った大切な友人であることだけは変わってない。 声を発しようと腹にやや力を込めた時だった。 「なんて美しい音色だろう!」 芝居がかった声が聞こえたのは。 五対十ある全員の瞳が一斉にそちらに向けられた。 その視線の集中を一身に浴びながら、声の主は恍惚の表情でそのしなやかな身体を震わせていた。 「初めは彼こそがと思ったが、こちらの見込み違いのようだった。 初めて君に出会った時に、精神にヒビの入る音が聞こえたものだから勘違いしたよ、ルワード。 彼女こそが希代の殺戮者、ジャック・ザ・リパーだった! なんて美しい快い音色なのだろう! ニーナの精神の崩壊音が、 聞こえないか? リナ=インバース?」 そう言って振り返った闇色の双眸にあたしは悪寒を禁じえなかった。 ――アルヴァート=クリスン。 彼は涙さえ流しながら、ニーナに見蕩れていた。 見ればあたしだけでなく、ガウリイもアリエールもルワードさんもニーナも。呆気にとられ口を閉じる方法を忘れたかのようにぽかんとアルヴァートを眺めている。 「まさしく崩壊している。 香茶の中に入れられた角砂糖が溶けるように、桜の花が散り行くように。白き雪が地中へと沈むように。音は無いのにその崩壊の音色は確かに響き鳥肌が立つほどに美しい旋律を調べている。 素晴らしい、音だ」 昏い光を放ちながら闇色の目が細まった。 「―――あんた、何者なの?」 ようやっと搾り出した声は我ながらどこか震えていた。 この感覚は何度か味わったことがある。 「僕が何者かなんて詮索はナンセンスというものだよ、リナ=インバース? この際それはどうでもいいことだとは思わないかい?」 不敵に歪むその赤い唇に視線が縫い付けられたかのようにあたしは目が離せない。 「どうでもよくはないわよ。さっき、どうしてあなたは、尋問室でのあたし達の会話を再現することができたの? レグルス盤は無かったわよ」 そう。 展開が急激すぎて突っ込むのを忘れてたが、どうして先ほど、アルヴァートはルワードさんとあたし達がハロルドとの面会時に交わした会話を知っていたのか。 「なぜ、この状況になってルワード=ダービは罪を全面的に認めたのか。それは気にならないか?」 「はぐらかさないで」 アルヴァートは両手を胸の前で軽く組み合わせた。 「彼は全ての終わりを悟ったんだよ。そうだね? ルワード=ダービ?」 ルワードさんの肩がぴくりっと跳ねた。 ………動揺………しているのか? 全ての終わりを悟った? 「それ、どういう意味なの?」 アルヴァートの掌で遊ばれている自覚はちゃんとあって、正直、悔しいようなもどかしいような気分だが、アルヴァートの言葉はどれも鼻に引っかかるのも事実だった。 「さっきのルワードとニーナ嬢の会話を思い出してみてほしい」 「…………さっきの二人の会話かい?」 アリエールが困惑の表情でアルヴァートを見遣る。 さっきの会話? 「たしか………ルワードが妹さんに『話は聞けたのか』と訊いて、それで彼女が『ダメだった』みたいなことを言ってたような………気がする………」 間違いを恐れる小心者のそれでアリエールがアルヴァートの瞳を覗き込む。 そうだ。確かにそんな会話をしていた。 ………待て。 その後で、ルワードさんは何と言った? 全て終わりましたと、そう告白した。 戦慄が神経をさざめきながら走るのがわかる。 待て。ちょっと待て。 「………アリエール………警備隊ってのは本局に何人いるものなの?」 震えそうな声をなんとか堪えてあたしは背中をアリエールに向けたままで訊いた。 「え?」 なんで突然こんな質問をふられるのか解らないのだろう。 「いいから答えて!」 「…………? え、えっと二十人前後かな? 今は切り裂きジャックのことがあるから街の有志にちょこっとは協力してもらってるけど」 「二十人………」 呆然とその数を繰り返して呟き、瞬間に得体の知れない慙愧の念めいたものが肩にのしかかった。 「リズの部屋に来たのは何人? 通り過ぎざまに見ただけだったけど、十数人はいたように思えたわ」 「え? 僕も別に数えてたわけじゃないからなぁ。でも十五人はいたんじゃないかな?」 じゃあ本局には現在数人しか残ってないということじゃあないの。 視界の端でアルヴァートが微笑っているのが見える。 あぁ。 全てが、本当に見えた。 「リナさん? それが何か関係あるのかい?」 アリエールの得心の行かないという顔もそのまま置き去りに、あたしは目を閉じた。 さっきニーナはこう言っていた。 被害者の胸を切り裂いたことについて、『だから、胸の中にある秘密を調べてたんです。でも誰のも何も言ってくれませんでしたけど』と。 誰の内臓も何も言ってくれなかった。胸を開いても何も秘密については喋ってくれなかった。 ニーナは本当に胸の中に秘密が隠されていて、そこを見れば答えが得られると信じているのだ。 狂って、いるのかもしれない。 一時的な現象なのだろうが、ニーナは狂っているのだろう。 あたしは目を開きそしてニーナを見た。 「四人……いえ、五人の胸の中を見ても、探っても、答えは無かったのね?」 こくりとその首が縦に動く。 「じゃあ、後は本人に聞くのが一番手っ取り早いわよね?」 ルワードさんの肩がまた小さく震えた。 「本人、つまりハロルドの胸の中に隠してある秘密を見る以外の選択は無いわよね?」 ガウリイの眉が跳ね上がった。あたしの言いたいことを覚ったのだ。 ニーナは。 どこか哀しげに。 「はい。いつもは口先だけではぐらかされるだけですから」 微笑んで頷いた。 精神の崩壊する音が、聞こえたような気がした。 |