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リナの髪が、風に優しく巻き上げられた。 眩しく煌めくそれを、オレは目を細めて見つめる。 リナは言葉もなく、ただ目の前の景色に魅入っていた。小高いこの丘からは、のどかな田園風景を臨むことができる。遙か遠くに広がる森も、田園の先に並ぶ賑やかな街並みも、今は吹く風に霞んで見えた。 華奢な背中をオレに見せたままの彼女は、きっと知らないんだろう。 オレが何度、こうして彼女の背を見つめてきたかなど。 決まって、大きな事件を終えた後のことが多かったように思う。 その街を発って、暫くして。 街道の真ん中で、彼女は徐に街を振り返る。 そこで起きた出来事を、巻き込まれた人を、そして失われた命を振り返るように。 けれど、そうしているのは少しの時間だけ。すぐに彼女は踵を返し、全てを振り払うように歩き出す――ただ前だけを見つめて。 歩き出した彼女は、もう振り返ることはない。胸の中に全部を仕舞い込んで、また次へと立ち向かうのだ。 そんな彼女を、オレはずっと見てきた。何かに思いを馳せ、そしてその全てを振り切ってきた、彼女の小さな背中を。 随分と昔。 まるで戦争の後のように焼け爛れた街を振り返って、彼女は言った。 「あたしが来なければ、こんなことにはならなかったのにね……」 他の誰にも聞かれることのない、小さな小さな呟き。気付いたのはオレだけだった。 魔族に狙われた彼女。見境のない奴等の攻撃に、街は惨劇に見舞われた。 リナは無事だったものの、何の関係もない沢山の人間が犠牲になった。家を焼かれ、命を奪われ――誰もが立ち上がる気力もなく項垂れている中を、謝罪も手助けも出来ずにオレ達は通り過ぎた。 これ以上街に留まれば、更に被害が出るかも知れない。オレ達に出来たのは、ただ街を立ち去ることだけ。 静かな怒りが篭もったリナの呟きは、さわりと吹いてきた風に攫われて、消えた。 またある時。 闇に沈んだ街を、月明かりの中、眺めていた。 事件の決着がついたのが夕日の沈む頃合い。身も心も疲れ切っていた筈なのに、何故だかそこを動けなくて。 いつまでも、そこに立ち尽くしていた。 『泣いているのか』と問うたら、彼女は柔らかく否定した――力ない笑みと共に。 他に生きる者のない街の真ん中で、その微笑みはあんまり儚く見えて。 気の利いた言葉をかけてやれない代わりに、揺れる髪をそっと撫でた。 オレが触れたことでふと和らいだ彼女の表情に、オレもまた少し、救われた気がした。 瓦礫だらけの礼拝堂。 朽ちた壁から射し込む夕日に照らされて、彼女はいた。 溶け落ち、形を変えたステンドグラス。奇妙な色に照り輝いて、光を返している。 今し方呪文を放ったばかりの手で、彼女は強く自分の頬を拭った。オレに背を向けたまま。 微かに震えている彼女の肩が、何だか寒そうで。包み込んでやりたくて、手を伸ばした。 なのに。 彼女に届く前に、指先を風が掠めた。 ハッとして、思わず手を引く。風の冷たさが、まだ指に残っている気がした。 そのまま、暫しの沈黙が続いた後。 「行こう」 振り返った彼女は、もう涙を流してはいなかった。 確かに目元は微かに濡れ、声も明るいものとは言えなかったけれど。 凛と前を向いて、歩き出している。 たったあれだけの涙で、彼女はどうして歩き出せるんだろう? 溢れさせることのなかった涙が、きっと身体中に溜まっている筈なのに。 マントを翻して礼拝堂を後にする背中が、酷く痛々しかった。 思い出されるのは、小さな背中。 普段の、奔放で強気な彼女など、そこには微塵もない。重い何かを支え続けている華奢な背は、少しでも気を抜けば何かに潰されてしまいそうに見える。 その度に、駆け寄って、抱き締めて。お前は一人じゃないと繰り返し囁いてやりたいと、オレは確かに思うのに。 一歩足を踏み出した途端、彼女とオレの間に風が疾る。 彼女そのもののようなその風は、いつだってオレの一歩を躊躇わせた。オレの手が、彼女自身に拒否されているような気がして。 いつもいつも、オレは彼女の背中を見つめるしかなかった――苦い、やるせなさと共に。 そう言えば、初めてここに立った時も、似たようなことを思ったな。 あの時。お前は嬉しそうに顔を綻ばせて、この風景を見ていたっけ。 夏はこの黄金の草原が緑一色に染まって、まるで絨毯のようになるのだ、とか。あの街の中央に聳える美しい尖塔が、この国の象徴なのだ、とか。 誇らしげに語るお前は――その景色の中に、オレには見えない何かを見ているお前は、オレが知っているお前とはまるで別人みたいで。 お前はすんなりとその景色に馴染んでいるのに。オレも一緒に溶け込んでしまいたいのに。 また、風に邪魔された。 隣に立ってみたら同じ景色が見えるんだろうか、とお前に近付いた時だった。ふんわりと、鼻先を、甘い果実の香りを乗せた風が通り過ぎて。 オレはまた、踏み留まってしまう。 何も気付かない無邪気なお前に、本当にオレがここにいていいのか――なんて、馬鹿なことを訊いてしまいそうになった。 ここに来たいって言ったのは、オレなのにな。 でも、そう思っちまうくらい、あの時のお前は、オレには眩し過ぎたんだ。 でも、今は。 ふっと笑って、オレは一歩を踏み出す。するとまた、見計らったように風が過ぎた。 けれど。 もうそれは、オレを止めることはない。 まるで包み込むかのように、オレ達の髪を優しく舞い挙げるだけ。 それまでは踏み込めなかったリナの領域に、オレはもう容易く入ることが出来る。まるで、自分がその一部になったかのように。 「……本当にいいのか?」 ぽん、と小さな頭に手を置くと、リナはふわりと笑ってオレを振り返った。 「何が?」 「こんな所で眺めてるくらいなら、もうちょっとあそこで過ごしたって良かったんじゃないかと思って。 せっかく久しぶりに帰ってきたんだから」 オレの言葉に、リナはまた笑った。 それは力ないものでもなく、儚いものでもなく。何かに満たされたような、すっきりとした笑顔だった。 「いいわよ。どうせ来年、また帰って来るんだし。 それに、街の中にいたら、こんな綺麗な景色は見られないでしょ?」 こてん、とオレの身体に頭を寄せて、呟く。 髪を梳いていた手を肩に滑らせながら、オレもまた、彼女の視線を追って風景に目を戻した――彼女が生まれた、その街に。 城壁で囲まれたそこに、つい先程までオレ達はいた。たった10日余りの滞在だったが、随分とのんびりした時間を過ごした。 その短い時間の間に、オレ達は少しだけ変わって。 そのせいなんだろう。彼女に近付こうとする度に感じていた風が、優しいものに変わったのは。 それは、プライドの高い彼女が作り出していた、無意識の拒絶だったのか。 或いは、一人で立ち上がろうとする彼女を見守ることしかできなかった、オレの躊躇いだったのか。 分からないが、もうその『何か』は、オレ達を遮ることはない。 「さあって! そろそろ行くとしましょうか」 ふいにオレの腕から逃れ、返事も待たずに歩き出すリナ。 「今度は何処に行きたい? ガウリイ」 尋ねられて、オレはおや、と首を傾げて問い返す。 「またオレが決めていいのか?」 「別に目的があるわけじゃないもの。どこかリクエスト、ある? 但し、一年以内に帰ってこられるところね。そうじゃないと、姉ちゃんにどやされそうだから」 苦笑めいた笑みの中に、どこか温かな声音を滲ませる、リナに。 じゃあ、とオレは切り出した。 「南」 「南? 南の、どこよ」 「エルメキア。オレの故郷」 言ってやったら、リナはきょとん、と目を丸くした。 「……あんた、エルメキアの出身だったの?」 「言ってなかったか?」 「聞いてないわよ。話してくれたことなんて、なかったじゃない」 「そうだったか? 別に、黙っていたつもりはなかったんだが」 ぽり、と頬を掻きながら、 「久しぶりに、婆ちゃんの墓参りにでも行こうかと思って。……報告したいことも、あるし」 「……あ、そ」 オレの言葉に、何故かリナの方が赤くなった。 「んじゃ、エルメキアまで、あんたの婆ちゃんのお墓参りに行くってことで決まり! あんたの故郷の名物料理、たっぷりご馳走してちょうだいよ!」 「おう、任せとけ!」 「よっしゃ! じゃ、早速出発〜!」 高らかに叫んで、丘を駆け下りていくリナについて。 オレも今度こそ、ゼフィーリアの街に背を向けた。リナの後を追って、走り始める。 きっと、こうしていつまでも、オレ達は走り続けて行くんだろう。時折立ち止まって、少しだけ街を振り返って。そしてまた、二人で歩き出すんだろう。 立ち止まる度に風が吹くのかも知れない。その風は、時に暖かく、時に冷たく、お前に吹きつけるのかも知れない。 けれど。 風はもう、オレ達を隔てない。 それに、例えまた、強い風がオレの足を止めようとしても。 オレはもう迷わない。 踏み込んで、掻き寄せて。その華奢な背中を、力一杯抱き締めるだろう。 どんなにお前に拒まれても、余計なお世話だと言われても。 オレはお前を支えるって、決めたから。 「ほ〜ら! ガウリイ遅いぞ〜!」 「おう、今行くよ!」 リナの元に向かって駆ける、オレの背を。 まるで後押しするように、甘い香りのする風が吹いた。
Fin. |