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干城は水都と結婚したかった。 一緒に暮らし始めて半年が経ち、近所からも夫婦と思われているのも知っていた。 だからこそ、何かあった時の為にも、正式に夫婦となりたかったのだ。 たかが紙切れ一枚、されど。 干城は水都の二十歳の誕生日を心待ちにしていた。 「・・・どこだ?」 「そう言われましても・・・。」 役所の窓口で、不毛な会話を交わしたのが、その誕生日当日。 水都の戸籍は、祖父母の住所にはなかった・・・。 警察から連絡があったのが、7月初めのこと。すでに3ヶ月がたっていた。 「はい、分かりました。」 受話器を置いた干城は、嬉しそうに水都を振り返った。 「川根の役場にあるって。」 「そう。」 エアコンの効いた部屋に、暖かいコーヒーが出される。 サントス。酸味の強いそれは、干城の好みだ。 「嬉しくないのか?」 マグカップを受け取り、お礼代わりのキスを頬に落とす。 『ありがとう』と『ごめんなさい』は出し惜しみしない。それが二人のルールだ。 「嬉しくない訳じゃないけど、川根ってあまりいい感じしないの。」 「・・・そうかもな。 聞いた話じゃ、川根はお前さんがじいさん家に来る前に居た所らしい。 そこに今も、親父さんがいるそうだ。」 「お父さん?」 水都の眉が微かに寄ったのを、干城は見逃さなかった。 「ああ。親父さんの戸籍に、お前のも入っているそうだ。 どのみち、一度挨拶に行くつもりだけど・・・。 水都は家で待っててもいいぞ。」 「・・・考えとく・・・。」 無表情で返事をする水都に、干城は溜め息を付いた。 まだ、彼女の心の闇は深い。 自分のされていたことが虐待だと気付かない程、親の愛情を欲しがる。 まるで、子供のように。 だからこそ干城は、そんな水都の側に居る為に、翻訳家という仕事を選んだのだ。 帰る所のない水都の、唯一の帰る場所になりたかったのだ。 「・・・勝手に戸籍を抜く訳にもいかないし、な。 後でビックリされるのも何だし・・・。」 「うん、分かるんだけど・・・。 あたし、お父さんのこと、何も覚えてないの。」 別れたとき、まだ2歳だった。 母は実家という事もあって、2〜3年に一度は顔を出していたが、 父に至っては一度も来ていない。 覚えているのはただ、父母の怒鳴りあう影。顔も声も分からない・・・。 水都が眠りのついた後、干城はその寝顔を眺めながら、一通の手紙を書いていた。 「本当に、車で待っていてもいいんだぞ。」 「人様の庭先で、一人だけ車に乗っている訳にはいかないでしょ。」 数日後、川根。 二人は対応に出た若い女性に案内されて、居間へと通された。 「・・・父は今日、急な呼び出しで出てしまって・・・。 すぐ戻ってくると言ってましたので、少しお待ちくださいね。」 お茶を進められ、居心地悪げにもぞもぞする二人に、女性―水都の義姉に当たるその人は言った。 数年前、再婚した父の相手の連れ子だと言う。 その後ろに、小さな人影が顔を覗かせた。 「・・・こんにちは。」 「あ、こら。おじいちゃんのお客さんよ。」 まだ3つくらいだろうか、男の子がとてとてと寄って来る。 「いいんです。・・・こんにちは、お行儀がいいね。」 干城の笑顔に、男の子はニコニコと側へ行く。 何やら話をして、干城の手を引いて庭へと連れて行った。 そこには、大きな竹が美しく飾りつけられていた。 「ああ、明日は七夕でしたね。」 「ええ。子供がやると言うもので・・・。」 外では、干城が短冊を渡され、何かを書いている姿。 その子供っぽい姿に、水都は思わず口元を綻ばせた。 幼い頃から一緒にいる人。 父であり、兄であり、恋人であり、もうすぐ夫になる人。 自分という人間を、理解しようとしてくれる人。 だからこそ水都も、干城を理解したいと思う。 好きでいてもらう努力と、好きでいる努力。 前者は皆するであろうが、後者は忘れがちになる。 でも、その努力を忘れると、関係は悪い方へと向かってしまうのではないだろうか。 水都は、そう思う。 二つの努力を心掛けてこそ、対等な関係でいられるのではないだろうか。 「あ、おじいちゃん。」 開け放した窓から、子供の声。水都はさっと緊張した。 「・・・お待たせしました。」 干城も戻り、父親が居間に顔を出す。 「・・・初めまして。前妻とその娘のことで話があるとか・・・。」 水都を見ないで話を進める父。 干城は敏感にそれを理解し、やはり父も自分を嫌っていると思っている水都の事も分かっていた。 無表情で背筋を伸ばし、湯呑みから立ち上る湯気を見ている。 「単刀直入に言います。娘さんと結婚します。」 「・・・それだけか・・・?」 水都とよく似た面差しが、嫌そうに歪む。 「ええ。許可を貰いに来た訳じゃないですから。 急に戸籍から名前が消えていたら驚くだろうと思ったから報告を、と思ったまでです。」 不機嫌を隠さず、父は干城を見た。 「そんな、20年近くも見た事のない娘がどうなろうと、知ったことではない。 ・・・まあ、急に名前が抜かれていたら、犯罪かと思うかもしれないから、報告は助かるが。」 「では、報告も済みましたので、これで失礼させていただきます。 お時間を取らせて、すみませんでした。」 先に腰を上げた干城が、水都の腕を取った。 しかし水都は、座ったまま父に言った。 「ひとつだけ、聞かせてください。 あなたにとって、私は何だったんですか?」 静かな口調で、無表情に。水都は言葉を紡いだ。 「私にとって、お前は・・・? 決まっている。子供が出来れば少しはアレが大人しくなると思ったからだ。 なのに、実家に預けて浮気ばかり。何の役にもたたない。 それどころか、お前は体が弱く、いつも泣いてばかりで、イライラさせられるだけで。 それが余計に、私たちの喧嘩を増長する。 結局、憎みあって別れただけだ。・・・君。」 急に干城に顔を向け、父は言った。 「この娘もアレの血を引いている。浮気するぞ。」 「水都は違う!」 噛み付くように吠え、干城は水都の腕を乱暴に引っ張ると、引き摺るように歩き出した。 「行こう、水都。」 走り出した車の中。 未だ沈黙が続くなかで、水都は窓の外を見ていた。 暫く振りの故郷は、自分の居場所のないところだった。 分かってはいたが、やはり少々気落ちする。 「・・・水都、俺、咽渇いた。 そこの自販機で、コーヒー買ってくんない?」 干城の指差した先には、続く森の中の道路。その脇に隠れるように立つ自販機。 車は滑るようにその前で止まった。 「どれがいいの?」 「ブラック、無糖。水都も好きなの買えよ。」 窓越しにお金を渡し、干城は水都がコーヒーを買うのを見ていた。 「はい。」 「サンキュー。」 受け取ってプルタブを上げ、一気に飲み干す干城。 そして、空になった缶を水都が捨てて、車に乗り込むのを待った。 「空けてやろうか?」 「ん。お願い。」 走りながら器用に片手でプルタブを上げ、干城は一口味見をする。 「・・・甘い。」 「当たり前でしょ、カフェ・オレだもん。」 しかめっ面に、思わず笑った水都に、干城もようやく笑顔になる。 「まだ、時間も早いし、このまま役場に行くか。 そうすれば、明日には入籍できるしな。」 「・・・そうね。また来るのも、ちょっと遠いもんね。」 水都の返事に干城は、ハンドルを切った。 もうすぐ、二人は夫婦になる。 |