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……この真っ白い紙に、黒のインクで書き殴ったこの曲は。 確かに今は、悲しげにオレを見つめているだけだけど。 しかし一度でも良い。 一度でもこれが、あの少女の手に掛かるだけで、聞く人の心をむしるかのように打つことができる。 ……いつかまた。 この曲があの時のように、あの少女によって、演奏されるなれば。 過去に一緒に座ったあのピアノの前で、あの少女ともう一度出会えるなれば。 もう一度だけでも良い。 その曲をもう一度だけ、自分に向かってだけ、奏でて欲しい。 一時たりとも忘れることの出来ない、あの、美しく、だが儚げな少女に―― ……思い出は、革命前にまでさかのぼる。 「……駄目ね」 ピアノの独奏をBGMに、皆がくつろいでいたその時。 言い放ち、かたんっ、と席を立ったのは、一人の少女だった。 拍子にゆれる机に、グラスの中の氷が、静かに冷ややかな音を、響かせている。 だがしかし、その声を聞いたものは、誰も居ない。 ――この曲は、こんな曲じゃない。 もっと不思議で……そう、引き込まれるこの感じと、それから……足りないのは…… ――切なげな、物悲しさなのよ―― ゆっくりと、しかし素早く自分の思考をまとめてしまう。 このバーには、大したピアニストが居ると聞いてきたが、そんなことは無いではないか。 これなら、自分の方がよっぽど上手く弾ける―― 思い、店の人が行き交う中、桃色のドレスを身に纏った少女は、つかつかと、伴奏者に向かって歩み始めた。 コツ、コツと、ピアノの演奏と、人々の会話の中に響き渡る足音。 それに皆が注目を浴びせ始めたのは、間もなくのことだった。 ……小柄な少女が自分に歩み、近づいてきていることに気づいた伴奏者は、歩み来る少女に視線を向け、その今だかつて味わったことに無い異様な感覚に、ついにかろやかな指の動きを……止めた。 ――しぃんと、夜の静寂を取り戻した、夜の酒場。 それをうめるかのように、ざわり……と、あたりがざわめき始めたその時には、少女とステージの距離は、目と鼻の先だった。 なおも歩み続ける少女の、不思議なまでに余裕な表情は、誰もかもが、しっかりと見て取っていた。 BGMの消えた、ただ静かなだけの空間には、アルコールの匂いだけが、充満している―― ……そんな中。 ついに彼女はステージの上に、女らしかぬ動作で飛び乗ると、 「あたしが弾くわ」 と、伴奏者の女性に向かって、一言。 反論する間も与えられずに、女性は、少女に自分の座っていた場所を、奪われる。 あまりにも突然のことで、皆、どうして良いのかもわからない。 伴奏者であった女性ですら、酒場の人々と共に、ことのなりゆきを、固唾を飲んで見つめていた。 ポーン……と、小さく『ド』の音が鳴らされる。 ――本当はピアノなんて、弾けないんじゃないの――と、女性が漏らしそうになった、その瞬間。 ……衝撃は、訪れた。 ……そうして、流れ始める、音の旋律…… きぃ、とその瞬間、酒場のドアが開く。 だがしかし、それに気づくものは、誰もいない。 薄暗い空間の中で、皆の視線は、同じ所にあったのだ。 酔っ払いの視線ですら、店員の視線ですら、亭主の視線ですら、ひとつの場所にひきつけられていた。 「……あれは……」 たった今酒場に入り来た男性は、思わず声を上げた。 ライトアップされたステージの元、全ての視線を魅了しているその少女が弾いているのは―― ――……あれは……。 その後の言葉は口には出さずに、今流れている旋律に、全神経を集中して、聞き取ろうとする。 ドアの前に立ち止まったまま、男もステージの上の少女に、徐々にだが魅了されていった。 ……なんと、美しいことだろう。 今まで、このの曲は散々聴かされてきたが、これほどにまで美しい音で聴いたのは、初めてだ。 寂しげに、しかし時にはあかるげで、健気で。 ……思わず、この曲を『造った』時のことを、鮮明に思い出す。 あの頃はただ、孤独で、寂しくて―― これほどにまで、その時のイメージが、鮮明に思い出せるとは……。 ……そうして、最後の一音を、寂しげな音で弾き終えた少女。 誰も、声を上げようとはしなかった。 ただ皆それぞれ、出された料理に、酒に口をつけることすら忘れ、そちらに注目を浴びせている。 予想外にも礼儀正しい少女は、イスから立ち上がると、視線な動作で一礼をした。 ――わぁぁぁぁぁぁっ! 突然、どっと沸きあがる歓声。 ブラボー!の声に、拍手の喝采。 これもまた意外だったのだが、彼女は少し、照れたかのように俯いてしまった。 とんとんとん、と、今度は先ほどとは違い、少女らしく段を下り、少女はその場を、立ち去ろうとする。 どうやら彼女は、どの道帰るつもりでいたらしく、その素晴らしい演奏をもう一度……という客の声には、答えるつもりも無いらしい。 彼女が通るたび『素晴らしかった』だのなんだのと、言葉がかけられる。 それに軽く『ありがとう』と答えつつ、少女がドアから出ようとした……その時。 再び、空間が音を失った。 少女の姿を追っているうちに、皆は、ドアの前に立つ人物の姿に、気づいたのだ。 「ガウリイ=ガブリエフ……」 誰かが、そう呟いた。 そうして、小さな少女と、大きな青年の視線が、宙で交わった。 「……素晴らしかった。お嬢ちゃん、お名前は?」 「……相手に名前を聞くときは、先に名乗るって言うのが礼儀でしょ?」 多分少女は、その青年の名前を知っている。 この国でだけ、という小規模の音楽家である彼だったが、この地でその名を知らぬものは、居ないと言っても過言ではないだろう。 おまけに、このスタイルの良さによって、外見でも売れているのだ。 男は思わず、苦笑した。 「……本当は、知ってるんじゃないのか?」 「いかなる場合も、礼儀は重んじなくちゃ」 きっぱりと言い放つ。 いかに有名人といえど、リナは、礼儀についてを妥協するつもりは、毛頭も無いらしい。 しかたないか……と一つ、ガウリイはため息を付くと、軽く自己紹介した。 「オレはガウリイ=ガブリエフ。一応、音楽家だ。 ……で、お前さんは――?」 「あたしはリナ。リナ=インバースよ」 ……その出会い以来。 作曲家ガウリイ=ガブリエフと、貴族の娘であるリナ=インバースは、彼は暇を見つけさえすれば彼女を待ち、彼女は隙さえ見つければ屋敷から抜け出し、ガウリイの元へと向かっていた。 その後、どのようにお互いが惹きつけられて行ったのかは、正直、二人も覚えていなかった。 いなかったのだが―― だがしかし、いつの間にか、一緒に居るのが、お互い『普通』のような気がしていた。 出会う度に、いつもピアノの前に、二人で腰掛けていた。 彼女によってスランプから救われた彼の書き上げた新しい曲を、二人でじっくりと考え、推敲を重ねる……。 ……そんな恐ろしいくらいに平和で、穏やかで、幸せな時間が、一体どのくらい続いたことだろうか。 彼女に魔法をかけられたピアノが、今日も『想い』を乗せて、音楽を奏でている。 幸せそうに聞き耳を立てる彼が、そっと紅茶とお菓子を、テーブルの上に添えて……。 「お茶にしようか」 と、一声。 にっこりと微笑み、イスから立ち上がる少女が、テーブルへと座る。 ……毎日は、こんなことの繰り返しで。 そうして時は、無情にも流れすぎていった。 ――一つの約束を、二人の間に結んで―― ……お前さんにだけ向けた曲を、一曲、書こうと思ってる。 だからその時は……その曲を、オレの前で弾いて欲しい……。 ――勿論よ。 出来上がるの……楽しみに待たせていただくとするわ……。 ――待ってて…… 待ってる―― だがしかし、街が炎に包まれ、死の匂いで溢れかえったのは、そう遠いことではなかった。 市民革命が、その始まりを告げたのである―― 「……やっぱり今日も……こない、よな……」 銃の打ち合う音が、部屋の中まで聞こえてくる。 曇り空の外と、ピアノに少女の姿を重ねて交互に見つめつつ、ガウリイは深い、深いため息を付いた。 ……ありえないことだとは、わかっているけれど。 こんな状況でも、彼女にだけは会いたいと、切に願っている。 「無事……なんだろうか……」 ……市民革命。 王政を潰そうとする市民の手は、当然、貴族の方にまで伸びているはずだ。 そこら辺に堂々としたたたずまいを見せていた屋敷たちは、確かにここ数日で、見るも無残な姿に変わり果てている。 ――リナ。 この国からは、もう出てしまったのだろうか? 一般市民に紛れ込んで、今も少女は、この国に留まっているのだろうか? ……あるいは…… 「……考えたくも、ないな」 ざぁぁぁぁぁっ……と、雨が地面を打ち出した。 だがしかし、彼はそのピアノを打つ気には……無論のこと、なれなかった。 ピアノの見せる幻影に、ふと、現実に戻れば。 笑いかける少女の幻影に、ふと、現実に戻れば。 ――音の無い空間で、遠き日のことを想い、胸が詰まる想いで居る自分が、いつもそこにはいた。 市民革命によって、王国から共和国へと、この国が変わったのは、それから間もなくのことである―― 『An Lina』 そうして、革命から数ヵ月後。 ガウリイは革命中に、ただ一つの想いに向けて書き続けた曲集を、広く世に発表した。 ――『彼女』がこれに気づいてくれるということことだけを、心に強く、願いながら。 これがお前さんにささげる曲集だよ、と。 少し遅くなったけれど、ようやく書き上げたよ、と。 どんなに心の中で、呟いてみても。 その声が、目的の人に――想い人に、題名の人に届くことは、決して無かった。 ただただ出来た曲に人々が群がり、自分も知らない楽団がそれを弾き、披露しているのをガウリイは半ば上の空で聞いていた。 だがしかし、ガウリイの曲に魅了され、楽譜を買い求めた人たちは、はたと皆、疑問を抱いていた。 ――最後のページのこの文章は、一体なんなんだろうと。 そうして、そこにはこう書かれている。 『懐かしいリナ、この本がいつかまたお前の手にはいったら。 ピアノに向かってかけなさい、過ぐる日、お前と並んでオレの向かった、あのピアノに。 ――あの日に交わした約束の通り、 この本のどこをあけても、全てはお前のための曲ばかり。 白い紙に黒の文字で書かれてみると、この曲は、お互いを悲しげに見つめているだけだけど。 ――……お前に弾かれて初めて、この曲集が、完成できるんだ。 この音譜に魔法をかけることができるのは、この世にただ一人、お前だけ。 ……懐かしいリナ、この本がいつかまたお前の手にはいったら。 ピアノに向かってかけなさい。 ただ、無事を祈っているだけの毎日じゃあ、まるで毎日、ただ、音の幻影を追っているだけのような気がするから』 この詩の真意を知るものは、ガウリイとリナ除いては、この世に誰一人として、存在しない。 そうしてガウリイが、この曲集でさらに名を有名にしてから、早くも一年が過ぎ去ろうとしている―― 「……リナ」 本当に突然の出会いで、どうしていつも一緒に居たのか……正直、理由までは覚えていないのだけれど。 ただ、ひたすら、大切なような気がして。 ただただその魅力に、いつの間にか、惹きつけられていた。 その手が生み出す音の魔術も。 そのやわらかな微笑みも。 大胆不敵な行動も。 華奢な体も、栗色の長い髪も。 ……全てが全て、自分を惹きつけて、止まなかった。 そうしてそれは、今も変わらない……。 あれから、一曲も造ってはいない。 ピアノの音を聞くだけで、想像するだけで、胸の詰まるような想いだった。 生存すらも確認できていない少女が、いつの日かまた、ここに戻ってきてくれるのかどうかすらも、わからない。 だがしかし、想いは日増しに強くなる―― 「……リナ……」 どれだけ、大切な人だったか。 窓の外に、想いを馳せる。 あの曲集は、彼女の手元へと届いたのだろうか? 今ごろどこかのピアノで、彼女はあの曲を弾いてくれているだろうか? ただただ、そればかりが気になる。 この曲が届いたということは、弾いてくれているということは。 すなわち、彼女が『生きている』ことをしめしているのだから―― がたんっ。 不意に。 ガウリイは家のドアの開く音を耳にして、窓の外から視線を、部屋の中へと戻した。 ……部屋のドア越しに聞こえたのは、紛れも無く、玄関の扉が開けられた音だ。 「……物取りかな」 少しだけ不安になったガウリイが立ち上がり、部屋の扉を開けた……その時。 「っきゃぁっ!」 どすんっ、と床に何かがぶつかる音。 そうして……女性の…… 「り……リナ……」 「んもうっ、折角脅かそうと思ってそっと来たのにっ! なんてタイミング悪くドアあけんのかなー……まさか、トイレだったとか言ったら、これよ、これ!」 一気にまくし立てた挙句、懐から出したスリッパを、うりうりと言わんばかりに見せ付けてくる。 しりもちをついたままの少女に手を差し伸べると、素直にその手をとり、立ち上がる少女。 あまりにもかわらなすぎるその再開に、ガウリイは、嬉しいような、悲しいような気持ちで、苦笑を浮かべる。 「……ちがうよ……まぁ、入れ」 見上げ、にっこりと微笑みかけてくるリナ。 そうしてガウリイは、ようやく安堵した。 ――待っていたんだ、ずっと。 ……この真っ白い紙に、黒のインクで書き殴ったこの曲は。 確かに今は、悲しげにオレを見つめているだけだけど。 しかし一度でも良い。 一度でもこれが、あの少女の手に掛かるだけで、聞く人の心をむしるかのように打つことができる。 ……いつかまた。 この曲があの時のように、あの少女によって、演奏されるなれば。 過去に一緒に座ったあのピアノの前で、あの少女ともう一度出会えるなれば。 もう一度だけでも良い。 その曲をもう一度だけ、自分に向かってだけ、奏でて欲しい。 一時たりとも忘れることの出来ない、あの、美しく、だが儚げな少女に―― ……そうして、願いかないし時は…… 「亡命?あぁ、あんなの楽勝よ、楽勝」 「……をぃ」 はたはたと手を振りながら、今までの状況説明を始めるリナは、久しぶりに、ガウリイの入れた紅茶を味わっていた。 「で、こっちに戻ってきても、誰も気づかないしね……いやぁ、捕まることくらいは覚悟してたんだけど……」 「それって、おもいっきりまずい覚悟なんじゃないのか……?」 「うぅん、そうかもしれないわねー……」 会話の無いようにそぐわず、どこか遠くを幸せそうに見つめながら言う彼女。 だがしかし、ガウリイはそれに、呆れ顔を隠せずにいた。 「じゃあなんで、そんな覚悟をしてまでここにもどってきたんだよ……」 今の話の内容からだと、忘れ物を取りに来たとか、そんな小さな内容なのかもしれない。 ……そんなことを内心覚悟して、だがしかし、問うだけ問うてみる。 すると答えは、意外だった。 「会いたかったから」 「ん?」 「ガウリイに会いたかったの。ただ、それだけ」 紅茶のカップをコトリとおき、まっすぐにガウリイを見つめながら、リナは言う。 「約束どおり、あの曲をあんたに聞かせてやろうと思って」 ……ガウリイは思わず、微笑んでいた。 「……待ってました」 くすり、と、お互いに顔をあわせ、ようやく二人で、微笑みあって。 何年ぶりかのあっけない再開に、また二人で、ピアノの前へと腰掛ける。 ようやく空間を音楽が支配するようになるまで、一体、どのくらいの時がかかったのだろうか――? そうして今宵。 ようやくピアノの音が、空間を心地よく振るわせた、その後で。 二人の間に交わされる、他愛の無い、だが、大切な会話が一つ。 「なぁ、リナ」 「何よ?」 「……ずっと、ここで暮らすつもりなんだろ?」 「うぅん、そうねぇ……まぁ、行く当てが無いわけじゃあないんだけれど……」 「……ならいっそ、結婚してしまおう!」 「はぁっ!? あんた何言ってるか、わかってんの!?こここ、この、くらげぇっ!」 「わかってるから言ってるんじゃないか、ほら、こんなに照れちゃって……」 「うっ、うるさいよっ!このバカクラゲ……」 ……そうして、願いかないしその後は……?
Fin. 参考:『An Lina(リーナに)』 From.ゲーテ |