「すっげぇ寒いよ、外」
駐車場から、ここ、光流(ヒカル)の部屋までの距離を歩いてきた雅也は、背中を丸めて寒そうに息を吐いた。羽織った黒のロングコートの肩には、白い雪がうっすらと降りかかっている。
「何? 外雪降ってんの?」
「うん。さっき降ってきた」
肩に乗った淡雪は暖かい室内の空気に触れ、解けて雫になっている。コートを脱いだ雅也は、無造作にソファーの上に投げた。
エアコンの暖かさがかえって身体の冷え具合を際立たせるような気がする。
送風口から直接風を浴び、雅也は体を振るわせた。
「寒〜。すっげぇハラ減ってるからよけいに寒くてさ」
「おまえ、もしかして、メシ食ってないとか?」
雅也は首を縦に振って何度もうなずいた。
「今日食ったメシ、なんと一食だけだぜ。超ハードだよ」
時刻はもうすぐ深夜になろうとしている。
仕事柄、まともに食事をとれなくなることは特に珍しいことでもない。だが、さすがに空腹に慣れることはなくて、切なげにため息をついた。
そんな雅也を放置しておけるほど、光流は鬼ではなかった。
「あるモンでよければ、何か食いモン持ってくるけど?」
「マジ?すっげぇ助かるよ」
ちょっと待ってて、と言って、光流はキッチンに向かった。
光流自身は、2時間ほど前に帰宅して、簡単に作ったスープとコンビニで買ってきたおにぎりで食事を済ませていた。少し多めに作ったスープを温めなおして皿に盛り、片手にスープ、片手にスプーンと自分用の缶ビールを持って部屋に運んでいった。
一方雅也は、といえば、かけっぱなしのCDが結構な音量で響くのをものともせず、ソファに身体を投げ出して、ぐっすりと眠ってしまっている。
その様子を見て、光流は小さく笑った。
「疲れてるんだな、コイツも」
何も食べずにどれだけぶっ続けで仕事をしていたのかは定かではないが、温めなおすだけの食事が運ばれてくるまでのほんのちょっとの間も待てないくらい疲れている雅也が、自分の家に帰らずにここにきた理由を光流は知っている。
だが、それを簡単に明かすのもなんだかおもしろくないので、とりあえずは気づかないふりをする。
自分からそれを主張する性格でもない―――― というより、そのことに触れてほしいにもかかわらず、この年になってそれを自分から切り出すのもなんだか子供じみていると思っているらしい雅也の、屈折した心理は手にとるようにわかる。
わかるからこそ、意地悪をしたくなるとは、光流も相当屈折しているのだが。
起こすか、それともこのまま寝かせておくか、一瞬迷ったが、運んできた食事をテーブルに置き、光流は雅也の肩をそっと揺らした。
「……雅也。雅也」
「―――ン」
眠りが浅いだけに、反応も早い。目を開けた雅也は、軽く目をこすった。
「ああ、ごめん、寝てた? 俺」
「うん。メシ、できたから」
「サンキュ」
そう返事はしたものの、すぐに起き上がるわけでもなく、自堕落にソファーに体をもたれかけた格好のまま、雅也は表情を崩して光流を見上げた。
「なんだよ」
その視線と、イマイチ締りのないニヤケた顔に気づいた光流が問う。
「いや、なんか、こういうのもいいなって思ってさ。めったにないじゃん。光流がこうやってメシ運んでくれるの」
いっしょに食事をするときは、外で食べるか、そうじゃなかったら雅也が作るパターンが多かった。そんな雅也にしてみれば、光流が手ずから食事を運んでくれるというのはなかなかに新鮮なものだったのだ。
「なんだよ、それ。俺がやるって言っても、おまえがやるからいいって言うんだろ」
俺だって自分でちゃんと料理してるじゃん、と唇を尖らせた光流から、身体を起こしてスープ皿を受け取った雅也は、うれしそうに声を上げた。
「あ、しかもこれ、俺が作り方教えた野菜スープじゃん」
「ま、味は俺のオリジナルだけどな」
なぜか偉そうに光流が言う。
「すっげぇいい匂い。いただきます」
嬉々として手をつけた雅也があっという間にそれを平らげるそばで、光流は缶ビールを開けた。
「そのスープ、中に入れる具をいろいろ試してみたんだけどさ。野菜ならなんでもいいと思ってやってみたけど、実際、そうでもないのな」
「そうなんだよな。俺、食えないヤツ作ったことあるもん」
「俺の失敗は白菜。あと葱。このスープにはやっぱキャベツだね。ダシのせいかなぁ? 白菜はあわない」
「白菜とか葱って、鍋ってゆーイメージだもんなぁ」
「お、いいねぇ。冬の鍋。今度やろっか」
調子よく同調する光流に、雅也は懐疑的な目を向ける。
「とか言いつつ、光流、俺誘うつもりなんてないくせに」
「なんだよ、ソレ」
失礼な、と言う光流の額を、雅也は指先でつついた。
「ばっくれんなよ。俺を差し置いて、有岡と鍋やったって?」
「誰から聞いた?」
「有岡」
それを聞いて、光流は忌々しそうに舌打ちをする。
「おまえには黙ってろって言ったのに」
「あっさり言ってくれるね。俺的には結構ショックだったんだけど」
「タイミングだよ、タイミング。おまえ仕事だったじゃん。あの時暇だったの、アイツだけだったんだよ」
「けどさぁ……」
それでもやはり釈然としないものがぬぐえない雅也は、すねた子供のような仕草で肩をすくめる。
それを見た光流はおもしろそうに笑った。
そう。ある種、小悪魔的に。
「じゃあ、かわいそうなおまえには、今夜かぎりの大サービスでさ、おまえの試してみたいプレイ、なんでもOKってのはどう?多分、俺も楽しませてもらえるんだろうし、一石二鳥っぽくない?」
上目遣いで言われたその台詞におもわず固まって赤くなった雅也を、光流はビールの缶を傾けながら冷たく一瞥した。
「ばっかだなぁ。おまえ、何赤くなってんだよ」
ヤだねぇ。何考えたんだか、と、これまた冷めた口調でからかわれ、雅也は口の中でもごもごとうなった。
「この野郎」
「うはははははっは」
なんとなくバツが悪くて、雅也が光流につかみかかる。奇声とも取れる笑い声を発しながら逃げる光流を追いかけて、狭い室内で年甲斐もない鬼ごっこが始まってしまった。
しかし―――――
「あっっ!」
「危ねぇ!」
叫び空しく、散らかった雑誌を飛び越えようとしてよろけた瞬間、反射的につかんでしまったカーテンもろとも、バランスを崩した光流が床の上に転がった。強い力に引かれて、カーテンは見るも無残にレールから外れてしまった。
「いってぇ」
「あ〜あ、どうすんだよ、コレ」
見下ろす雅也もその惨状に深い息をついた。
「あったまくるなぁ、もう……」
腹立たしさも露わに、カーテンを握り締めて立ち上がった光流は、何気なく目を向けたむきだしになった窓の外の光景に、声を上げた。
「見ろよ、雅也。すっげぇ雪」
しんしんと
そんな表現を彷彿とさせるような静けさで、外は雪が舞い降りていた。
ベランダの欄干にうっすらと積もった雪が、闇の中に浮かび上がって見える。
「ホントだ。いつの間にこんなに降ってきたんだろう」
光流の隣に身体を寄せ、雅也も外を覗き込む。
大小さまざまな雪の結晶が、漆黒の空から降りかかる様子がとてもきれいで、雅也が思わずロマンティックな物思いにふけりかけていた時
「雪明りの下でのセックス。ロマンじゃない?」
さえずるように囁かれる光流の言葉。
あのさぁ、と雅也が嫌そうに言った。
「いいかげん、そこから離れろよ。なんだよ、さっきから。だいたい、俺にはわかんねぇロマンだよ」
それを受けた光流は意味ありげに笑った。
「ふ〜ん。おまえ、そんなコト言うわけね」
「な、なんだよ」
「後悔しない?」
「だから何?」
些か脅迫めいた物言いに、何故か雅也はたじろいだ。
「さっきの、一応誕生日プレゼントのつもりだったんだけど?」
「え?」
イマイチ意味の飲み込めない雅也にふふん、と笑った光流は、馬鹿みたいに開かれた目の前の男の唇に、伸び上がって口吻けた。
「ハッピーバースデイ」
いつの間にか日付は変わっていた。
一年でたった一度しかないその日に、雅也が言ってほしかったであろう言葉を誰よりも先に口にして、光流は今度こそ他意のないきれいな笑顔を向けた。
疲れた身体を引きずってまでねだりに来たその言葉。それが、こうしたイベント事にはまったくの無関心の光流から思いもかけないシチュエーションで降ってきたのだ。不覚にも、雅也は言葉が出ない。
そんな雅也の混乱をよそに、光流が続ける。
「欲しい物って、だいたい持ってそうだからさ。とりあえず、プレゼントは今度一緒に買い行くことにしてさ。今日のところはさっきのヤツで手をうつってのはどう?」
首に腕を絡められ、甘くねだるように問い掛けるその言葉に抗える男がいたら、お目にかかりたいものである――――と、雅也は心の中で密かに思った。
窓の外は、真っ白な雪がハラハラと舞い降りている。
その雪とともに降ってきたプレゼントに、嬉しさのあまり、雅也は小柄な光流の身体を持ち上げた。
「うわっっ、危ねぇだろ!」
「マジ嬉しいって、俺」
光流の叫びをものともせず、はしゃぎまくるその喜びようを見た光流が、
「言ったからにはなんでもアリでいいけど、変態プレイだけは勘弁してくれよな」
と、いたってまじめに言うのを聞いて、雅也は全身の力が抜けそうになった。
「いや、だからそういうことじゃなくってさ」
なんだってこう、会話がかみ合わないんだよ、と叫びたい心境だが、それもいつものことなのでご愛嬌だ。
そして交わされる甘やかな時。
深まる雪は黙して語らず。
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