パソコンのキーボードを叩きながら、蒼井が額にふりかかる前髪をかきあげる仕草を、月村は見つめていた。
半ば、無意識なのだろうけれども。
スラリとした指先で、さっきから何度もうるさげにかきあげている。
だが、少しクセのある柔らかな髪は、かきあげるそばからこぼれ落ちてきてしまう。
指の隙間をすり抜けるように。はらはらと。
今日に限らず、ここのところずっとそんな調子の仕草を繰り返す蒼井をとうとう見かねた月村が、手にしたものを後ろに隠して声をかけた。
「蒼井さん」
「何だ?」
モニター画面を見ながらおざなりな返事を返すつれない恋人の名を、根気強く口にする。
「蒼井さんってば」
「だから何だって言ってるだろう」
連呼され、ようやく蒼井は月村の方に顔を向けた。
はらりと落ちた前髪が、左目を完全に覆い隠してしまっている。
う〜ん、と低く唸った月村は行儀悪く座っていた椅子から立ち上がって言った。
「やっぱり、切っちゃいましょう」
「は?」
なにがやっぱりなのかも、何を切るのかもわからず、訝しげに眉を寄せた蒼井は、ハサミを手に近づいてくる月村の姿に、ガタリ、と、飛びのくように、椅子を揺らした。
「ちょ、ちょっと待て! おまえ、何する気だ!?」
「だから切るんです。前髪」
「誰の!?」
「蒼井さんの」
「何で?」
噛み付くような勢いで投げつけられた質問には答えず、月村はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫ですって。俺、手先器用なの、蒼井さん知ってるでしょ?」
「まぁ、確かに……」
と、うなずきかけた蒼井だったが。
ここで納得している場合ではないと、激しく首を横に振る。
今の今に至るまで、前髪を切ることなどまったく考えてはいなかった。心の準備もないまま突然ハサミを持ち出されてはたまったものではない。
どこか幼いその仕草に口元をほころばせた月村が、振り回したことでさらに乱れてしまった漆黒の髪に指を絡め、やさしく左右にかき分けながら言った。
「こんなんでモニターなんか見てたら目が悪くなっちゃいますよ?」
何より、曇りのないその眸が、見えなくなってしまう。
言葉よりも雄弁に想いを語る眸が。
「いいよ、自分で切るから」
「……とかいいつ、自分でなんてめんどくさがって、絶対に切らないでしょ?」
「…………」
そんなことないさ、と、喉元まで出かかった言葉を口にすることはできなかった。
完全に見透かされている気がする。
黙りこんだ蒼井に、月村は言葉を続ける。
「絶対変なふうにしませんから。とりあえず、鏡見てみましょうよ、鏡」
ね? と無邪気な視線を向けられて、どこか落ちつかなさげに蒼井は眸を伏せた。
強引に押してくるわけではないけれども。
こんな風にやわらかく誘導することが、月村はうまい。
あまり器用に立ち回ることのできない自分には出来ないことだ。
結局、月村に腕をひかれて誘いざなわれた洗面所で、鏡に写った己の姿を改めて凝視した蒼井は、自分が思っていた以上に伸びてしまっている前髪を引っぱった。
これでは確かに、見ている人間も鬱陶しく感じるに違いない。
「こんなに伸びてたんだ」
初めて気づいたとでも言うような呟きを耳にして、月村が呆れたように言った。
「毎日見てるでしょ? 鏡なんて」
「そうだけどさ。顔を洗う時に適当に見るぐらいだって。自分の顔なんて」
ひどく蒼井らしい言葉だと思う。
「いいですよね? 切っちゃって」
「ああ、頼む」
手早くシンクに新聞紙をならべた月村は、ふわふわと蒼井の目元にまとわりつく髪に櫛を入れた。
「長さとか、希望ありますか?」
「……まかせるよ」
髪型に大きなこだわりがあるわけではない。実際、伸びすぎた前髪が邪魔だと思っていたことは事実なのだから、この際月村の手にゆだねることにする。
彼ならば、悪いようにはしないだろう。そんな安心感がある。
「切りますよ?」
おとなしく眸を閉じた蒼井の耳に、シャキ…という、硬質の音が響いた。
シャキシャキシャキ
ハサミの奏でる軽快な音と共に、はらはらと、削がれた前髪が落ちた。
長さや切る量を時々確かめながら、器用な指先が重い前髪を軽やかに梳いていく。
目を閉じた蒼井の鼻先で動く月村の体温が伝わってくる。
かすかな息遣い。
指が地肌に触れるたびに、チリチリとした覚えのある感覚が小さく呼び起こされていく。
梳き終えた髪をサイドに流すように撫で付ける月村の指先が、蒼井の耳を掠めるように触れた。
その瞬間。
とくん、と、鳴った鼓動と、ぞわりと頭をもたげた感覚に、蒼井はくすぐったそうに肩を震わせる。
月村の指先には他意はない。
店でヘアカットをしてもらえば、身近に人の気配を感じるのも、指先がいろいろなところに触れるのも、あたりまえのこと。
だが、それが月村だというだけでこんな気分になるものなのかと、妙なところで感心しながら、蒼井は思う。
このまま口吻けたらどんな反応を示すだろうか―――と。
知ってみたい気もするけれども。
さすがに、いまこの場で行動に移すことは躊躇われ、蒼井は衝動をやり過ごした。
そんな蒼井の想いを知らぬげに、月村の手は止まることなく、最後の仕上げを施していく。
シャキ シャキッ
ゆるやかになったハサミの動きが、止まった。
「ほら、できましたよ」
その言葉に弾かれたように見開かれた蒼井の眸に光が差し込み、明るみに引き上げられた意識の中で、衝動が霧散する。
鏡に目をやった蒼井は、軽く目の上にかかるくらいの長さでキレイに整えられた前髪に 満足して緩みそうになった表情を、寸前のところで引きしめた。
「どうです?」
「別に……」
「別にって……張り合いないなぁ」
「頼んでないし」
「ちょっと、蒼井さん!」
「……………」
「え? もしかして、気に食わないとか?」
不満気に唸る声が心配そうなものに変わるまでしかめっ面を通した蒼井が、耐え切れない、といったように声をあげて笑い出した。それでようやく、月村はからかわれていたことを知る。
「うそうそ。すっきりしたよ。ありがとな」
「もう! 意地悪しないで下さいよ!」
「あはははは」
こんなふうに。
屈託なく笑った蒼井の表情が月村は好きだった。
そんな笑顔に気持ちをなごませるのと同時に、この時が永遠に続けばいいと、祈りにも似た思いを抱いてしまうのは、厳しい表情の蒼井を多く見てきたせいかもしれない。
もう二度と、あんな表情はさせたくないと、思う。
痛みと、苦しみと、哀しみと。
すべてを呑みこんで堪えているような、あんな表情はさせたくないと。
切に思う。
だからこそ、こんなふうに穏やかに過ごすことのできる時間を、大切にしたかった。
笑いながら、切った髪の毛の落ちた新聞紙を丸めようとした蒼井を、月村が留める。
「顔についた髪の毛払いますから、ちょっと目をつぶっててくださいね」
とはいえ、フェイスブラシがあるわけではない。素直に目を閉じた蒼井の肌についた髪の毛を指先とティッシュで月村が丁寧に払っていく。
心持ち顎を上げたのは、払いやすいようにという蒼井の配慮だったけれども。
ふいに。
月村の手の動きが止まった。
「?」
蒼井が眸を見開くその前に、上向いた乾いた唇に、月村の唇が重ねられてくる。
直感的に、月村の中に先刻の自分に宿ったものと同じ類の衝動を感じ取った。
先を越されてしまったのが、なんとなく、悔しい。
この不届き者をどうしてやろうかと一瞬思案するのだけれども。
不埒な気分になったのは、間違いなく、自分の方が先だ。
結局、月村の仕掛けた口吻けを受け入れ、閉じ合わせた唇を誘うように薄く開いた。
もぐりこんできた熱い舌が蒼井の舌先を絡め取る。
反射的に応えてしまう。
互いの身体を腕の中に引き寄せ、態勢をかえようとしたその瞬間。
肘や膝のぶつかる鈍い音があちこちであがり、その反動でガタガタと物が落下してくる。
たまらず、身体を離した二人だったが、落ちてきたコップが月村の足の甲で跳ね、蒼井の脚が洗面台にしたたかに打ち付けられた。
「いってぇ……」
「いたッ」
それなりの体躯の男二人がどうこうする場所ではなかったようだ。
痛みをやり過ごし、コップを拾い上げた月村が甘えるように蒼井を見やる。
「場所変えましょ、場所」
「………」
眉を寄せてどうしようかと考え込む素振りを見せたけれども。
「だから!意地悪しないでくださいってば!!」
二度はひっかかるわけがないと、額をつつかれる。
「あ、バレた?」
「バレバレです」
まったくもう……と、笑う月村を、いたずらっぽい表情を浮かべたキレイな眸で、蒼井は見返した。
じゃれあうように移動しながらベッドの上に倒れこみ―――――
その後。
月村はその眸に浮かぶ艶やかな表情を、腕の中で独占するのであった。
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