•  渇望  
    〜神崎×朔夜〜 
    敵対している組織のふたり、をイメージしてください。

    生きること

    闘うこと

    すべて






     その瞬間。
     焼き切れるかと思うほど強烈に神経を苛んだのは、痛みではなく、耐え難い熱さだった。
     投げ出されたアスファルトのゴツゴツとした感触が頬に当たる。
     それでようやく、朔夜は殴り飛ばされたことを理解する。
     すぐにでも起き上がらなければ、と、思うのだけれども。
     まるで、重力に抱きとめられているかのように、躯が動かない。
     ドクドクと。
     刻まれる鼓動に押し出されるように、体外へ溢れ出る赤い液体。
     止まらない、血の流れ。止めようがない。
     半身を濡らすぬるりとした感触を自覚した瞬間、身が捩れるような痛みが走り抜けた。
    「――――――!!」
     これ以上無様な姿を晒すまいと、躯を丸め唇を噛み締めることで、迸りそうな叫びを呑みこんだ。
     研ぎ澄まされた神経は、神崎の存在をしっかりと感知している。
     その気配が、動いた。
     カツン……と。
     まるでその存在を見せつけるかのように。
     その強さを誇示するかのように。
     ゆっくりと歩み寄ってくる足音がアスファルトを伝って鼓膜に響く。
     カツン、カツン――――
     せめて身を起こそうと、心は必死で願うのだけれども、喉元を競りあがってくるモノに遮られ、それは叶わなかった。
     ごふっ……と。
     吐き出したのはぬるりとした赤い液体。
     これが、血の味。血の匂い。
     それがどうしたと、朔夜は思う。
     痛みがある。
     だから生きている。
     簡単なことだ。
     霞む意識が遠のいてしまわないように、握った拳に爪を立てた。
     冷えた拳。
     急激に血液を失って、驚くほど体温が下がっている。
     ――――寒い………
     血の色に染まった蒼ざめた唇から、知らず、小さな呟きが零れる。
     それを聞きとめたわけではないだろうけれども。
     足音が止まった。
     傍近くに感じる気配。
     その途端、屈んだ神崎に襟元を掴まれ、引き起こされた。
     乱暴に動かされ、焼けるような痛みが稲妻のように走る。
    「っ……」
     あまりの苦痛に悲鳴すらあげることができなかった。
     いっそ、すべてを投げ出してしまうことができたのならば。いっそ、意識を手放してしまえたならば。楽になれるのかもしれない。
     今自分の傍らにいるのがこの男でなければ、ここで眸を閉じてしまったかもしれない。
     甘い誘惑に身を委ねてしまっていたかもしれない。
     けれども……
     この男にだけは屈するわけにはいかない、と、朔夜は思う。
     最も醜悪な己を暴き出したこの男にだけは。
     剣呑な光を孕んだ眸に何を思ったのか。
     その躯をズタズタに引き裂いた男が、嗤って言った。
    「生きたいか?」
     と。
    「――――!」
     その問いは、滾る怒りを朔夜に植えつけた。
     勝つためにこの男に挑んだのだ。
     死にたいはずがない。
     それは、己自身への敗北を意味することだ。
     認めない。
     そんな弱さは、認めない。
     絶対に。
    「答えられないのならば、いまこの場でおまえの息の根を止めてやるよ」
     楽にしてやると。
     唄うように。
     囁くように。
     この苦痛を刻みつけた男は、そう言うのだ。
     冗談じゃない。
     自分はまだ、克服しきっていない。
     この男が暴いた弱さを。
     その怒りをぶつけるかの如く。
     口の中の血を神崎に向けて吐きつけた朔夜は、声を振り絞ってその思いを口にする。
     答えなど決まっている。
     最初から。
    「生きたい……」
     掠れてはいるけれども。
     明確な言葉を吐き出した朔夜に、赤く濡れた頬を拭うこともせず、面白そうに唇を歪めた神崎は、尚も問いを重ねる。
    「生きてどうする?」
     尋ねたのは気まぐれだ。
     それは、神崎の単純な興味だった。
     戦いに恐怖し、いま、こうして倒れ、朱赤に染まった躯を敵の前に無防備に晒しても尚、この男は、生きたいと口にするのだ。
     瞬時に答えが返ってきた。
    「おまえを、殺す」
    「本気か?」
    「本気だ」
     腹の底から吐き出した言葉に宿る、抜き身の刃のような鋭利な殺意。
     その言葉は、神崎の耳に、ひどく新鮮に甘美にすら響く。
     力の差は歴然としている。
     それなのに、殺す、と。
     この、血に濡れた脆弱な生き物は、さも当たり前のように言い放つのだ。
     身の程をわきまえぬ思い上がり。
     なんという傲慢。
     身震いがする。
     もしも、この男に最上級の強さを与え、そうして容赦なく踏み躙ってやったのなら、どんな顔をするだろうか?
     どんなふうに許しを請うのだろうか?
     ゾクリ、と。
     神崎の背を覚えのない何かが走った。
     これまでに重ねてきた時間の中で、一度として感じたことのない、何かが。
     ――――欲しい。この男が。
     そう囁く、己の中の獣の声を、神崎は聞き分ける。
     ならば、力で奪い取ればいい。
     そうやって生きてきた。
     優雅、とすらいえる仕草で朔夜の首に指を絡め、神崎が笑った。
    「だったら、連れて行ってやる。そして、おまえが望むものを与えてやる」
    「俺の、望むもの?」
    「ああ」
     絡んだ指に力がこもる。
     払う力は、朔夜には残ってはいない。
     あるのはただ、目の前の男への殺意と、狂おしいほどの強さへの餓え。
    「どうだ? 一緒に来るか?」
     酸素を欲し、喉が風が啼くような音を奏でる。
     朦朧とした意識の中で、朔夜の心は叫ぶ。
     それを与えてくれるのが誰であろうとも。
     たとえ何と引き換えにしたとしても。
     手に入れたい強さがある。
     揺るぎない強さが。
     それが、たとえばこの男の与えるものであったとしても。
     それほどまでに餓えていた。
     だから………
     うなずいた瞬間、喉の圧迫が消えた。
     酸素が、一気に流れ込んでくる。
    「――!!」
     激しく咳き込み、痛みに身を捩る朔夜を見下ろしながら、神崎は満足げな嗤いを浮かべている。
     そう。
     強く。
     強くなるがいい。
     どこまでも。
     どこまでも。
     そして絶望に泣くがいい。





     
    それが始まりだった。

    これから起こり得るすべての修羅の、始まりだった。


    End