「何で進まないんだよ? この車」
「仕方ないだろ。渋滞なんだから」
苛立つような伊織の口調とは真逆ののんびりとした声で大輔が応じる。
そんな大輔を横目で見て、伊織が唇を尖らせた。
「何でおまえ、そんなに落ち着いてるんだよ?」
「焦ったってどうにもならないだろ」
「…………」
降りつづける雨の影響だろうか?
延々と連なった車のテールランプの光が、水に溶け出すように滲んでいる。
普段ならもう少しスムーズに車が流れる夜のこの時間帯に、徐行運転のような状態が続いていた。
思いもよらない渋滞にはまって、伊織のイライラはピークに達しかけている。
「腹減って倒れそう」
拗ねた子供のような口調でつぶやく伊織に、大輔は後部座席を指差して言った。
「ガムだったらバッグの中に入ってるぞ。気休めぐらいにはなるんじゃね?」
「いらない」
おもしろくなさそうにつぶやいて、ふいっと、横を向いてしまった伊織のしかめっ面が、車窓に映っている。
眉間に寄った皺の深さに、大輔は苦笑した。
オーディオのスイッチはいつの間にか伊織が切ってしまっていた。
会話が途切れた車内には、降りしきる雨の音だけがやさしく響く。
だが、それは決して居心地の悪くはない沈黙だった。
傍らに互いの体温が感じられる。
その距離が愛おしい。
それは、赤信号で完全に車が停車した瞬間だった。
ナビシートから上体を伸ばした伊織が、大輔の唇に掠めるようなキスをして、離れていく。
「――――」
思わず見やった伊織は、まるで何事もなかったかのように、視線を完全に窓の外に向けてしまっていた。
「何するんだよ」
「気休め」
口調はそっけないふうを装ってはいるけれども。
車窓に映った伊織の表情に、大輔の口元に微笑が浮かんだ。
眉間の皺が消え、いたずらが成功した子共のような、楽しげな笑みを浮かべている。
そんな伊織の変化には気付かない素振りで、大輔がポツリと呟いた。
「雨、止まないな」
「そうだな」
こんなひと時が持てるなら、雨の渋滞も悪くない。
信号が青に変わり、車が静かに走り出す。
止まない雨に包まれて。
目的地にはまだもう少し、時間がかかりそうだった。
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