•  最愛  
    01〜解放者〜 






    「―――――!?」
     それは、25年間生きてきて、ダントツに衝撃的な目覚めだった。
     ここがどこなのかということと、傍らのぬくもりが誰のものなのかを認識した瞬間、文字通り飛び起きた俺の思考はパニックに陥り、まともに働かなくなる。
     ありえない。
     この状況は、どう考えてもありえない。
     いや、落ち着け、俺。
     バクバクと脈打つ心臓を必死でなだめ、懸命に自分に言いきかせる。
     もともとセクシャリティが『こっち側』の俺はともかくとして………だ。
    『この人』に限って、この状況はまったくもってありえない。
     いや、野郎同士、同じベッドで寝るっていう状況だけならいくらでも考えられる。
     春先とは言え、さすがに床に転がって寝るにはまだ少し厳しい季節だ。
     たとえば、客用の布団を敷くのがめんどくさかったとか、そもそも、この家には最初からそんなものはないとか。
     そんな理由でこの人は最大限の譲歩でベッドの隅を開けてくれたのだろうか?
     いや、でもそれだけじゃこの状況は説明できない。
     そもそも、俺は一体、なんだってこの人の家にいるんだ?
     ズキズキと痛むこめかみを押さえて懸命に手繰った記憶の断片が、ぼんやりと浮かんでくる。
     ああ、そうだ。
     飲みにいったんだ。
     職場の同僚であるこの人と。
     酒は弱い方じゃない。
     だけど、記憶が飛んでいるってことは、俺は相当変な酔い方をしたに違いない。
     ってことは、人様の部屋で俺が真っ裸だってのにも、何か理由があるのかもしれない。
     ゲロ吐いて服汚したとか。
     酒のグラスをひっくり返したとか。
     露出狂の気はなかったはずだけど、過ぎた酒の勢いで、自分で脱いでしまったってこともあるかもしれない。
     だけど。
     百万歩譲っても、あり得るのはそこまでだ。
     今のこの状況は――――ふたりともが真っ裸で同衾しているっていうのはどう考えてもありえないだろう。
     しかも、その相手がよりにもよって、女好きで浮名を流しまくっている我が社のプリンス(と、女子が呼んでいる。ちなみに彼はイタリア人とのクォータだ)ルークだなんて………
    「……………」
     眩暈がする。
     横目で何度伺ってみても、視界に入ってくるその人は、ルーク以外の何者でもない。
     そもそも、俺が彼を見間違えるわけがないのだ。
     キレイに筋肉のついたしなやかな背中のラインを眸で辿る。
     すべらかな肌の先にある引き締まった尻のラインは、割れ目を思わせぶりに覗かせてタオルケットの中に消えていた。
     知らず、凝視していた俺は、ゾワリ、と、背筋を這い上がる獣じみた感覚につかまりそうになり、慌てて首を振る。
     何考えてるんだ?俺。
     妙な気分になるのはルークの肌が露になっているせいだ。
     自分が起きあがったことによってめくれた上掛けをきちんと掛けなおさなければいけない。
     けれども。
     その肌に向けて手を伸ばすことが、とてつもなく罪なことのように思えて――――― 動けない。
     そんな俺の逡巡を見透かしたかのように。
     俺にとってあまりにも心臓に悪いタイミングで、ルークがくるりと身体の向きを変えた。
    「―――――!!」
     今日二度目の衝撃が、俺の中を突き抜ける。
     一体いつから起きていたのだろうか?。
     俺のように取り乱すことなく、優雅とすら言えるしぐさでベッドに身を横たえているルークは、俺の慌てふためく様を表情の読めない眸でじっと見つめている。
     慌てて逸らした視線が宙を泳ぎ、冷や汗とも脂汗とも違う、何とも言いがたい嫌な汗が一筋、俺の背中を伝った。
    「…………」
     一秒が、とてつもなく長く、重い。
     ギリギリで競り合っているときのロスタイムの一秒の方が、まだマシな気分だ。
     ルークの沈黙の意味がわからない。
     そして、俺自身もどんな言葉を発していいのかもわからず、かといって、静まりかえったこの雰囲気に耐え切れなくなった俺は、恐る恐るルークに視線を向ける。
     そんな俺と眸を合わせたルークは、これ見よがしな溜息を落とした。
    「やだなぁ、賢斗。ゆうべのこと覚えてないの?」
    「……………」
     昨夜の事。
     今一番知りたくて、今一番知りたくないこと。
     だけど、今一番知らなければいけないこと。
     何故なら………
     そう。俺の混乱の最たる要因は、昨夜のものと思しき、濃密な情事の余韻にあるからだ。
     到底信じられないそれは、何度も何度も夢に見て、何度も何度も諦めた人とのそれで、一生知り得るはずがないと思っていたもの。
     けれども、それは夢などではなく――――――
     この指が。拳が。皮膚が。
     間違いなく覚えている。
     若木のように撓る肌の弾力。
     無駄なく筋肉のついた美しい躯。
     艶かしい声。汗。興奮に赤く潤んだ眸。
     芳しい匂い。背中に回された腕の力強さ。
     そして、濡れて蠢き、熱く絡みつく…………
     フラッシュバックする感覚に引きずられるように下腹が熱を帯びかけ、慌てて淫らな余韻を追い払う。
     見境なく発情してる場合なんかじゃない。
     確かに俺は…………俺の躯はこの人のすべてを覚えている。
     だけど、なんでそんな状況になったんだ?
     いったいなんで………
     霧の向こうにある記憶を掴みきれずに、混乱を極めかけていた俺だったけれども。
    「ひどいなぁ。ボクのこと無理矢理抱いておいて、覚えてないなんてさ。随分じゃない?」
    「……………」
     その台詞と、その台詞にまったくそぐわない、この事態を面白がるようなルークの表情を目にした瞬間、その霧が晴れるように頭がクリアになった。
     そんなことはありえない。
     たとえ、酒の勢いを借りたとしても、俺にこの人を力ずくで抑え込むような度胸があるとは思えないし、そもそも、この人がおとなしく俺なんかの意のままに扱われているとも思えない。
     だいたい、百万が一そんな事態になっていたとしたら、俺は今頃裸のまま玄関先に蹴りだされているに違いない。
     故に、彼の言葉は真実ではない。
     不思議なもので、そう結論付けた瞬間、気持ちがスッと静まり、霧が晴れるように昨夜の出来事が鮮明に脳裏に浮かんできた。
     ようやくパニックから解放された俺は、まっすぐにルークと視線を合わせたる。
    「―――――――」
     そんな俺を見て、ルークが何故か残念そうな表情で肩を竦める。
    「なに、賢斗? ボクの言うこと疑ってるのかい?」
    「疑うも何も……今言ったことは事実じゃないですよね?」
    「…………」
     へぇ、と、小さく呟いたルークの眉が面白そうに動いた。
     そう。
     この人はこの状況を楽しんでいる。
     いや、正確に言えば、彼が楽しんでいるのは俺の反応だ。
    「思い出しましたよ」
    「何を?」
    「コトの詳細を」
     言ってごらんよ、というルークの完全に上目線な表情。
     その余裕が、俺の神経を尖らせる。
     その言葉に踊らされたりはしない。
     あなたの手管には乗らない。
     ただでさえこっちの方が分が悪いのに、翻弄されたりなんかしない。
    「俺があなたを手籠にしたんじゃない。あなたの方が俺を誘惑したんだ」
    「誘惑? ボクが? なに人聞きの悪いこと言ってるんだい」
     完璧な微笑を浮かべたルークがゆっくりと身体を起こして俺に顔を寄せ、結果、二人の距離がぐっと近くなった。
     スルリ、と、タオルケットの中から露になった素肌を直視することはとてもできず、かといって、あからさまに顔を背けることもできないまま、行き場を失った目線はルークの眸から逸らすことができなくなる。
     吸いこまれそうな、深い色をした眸。
     トク、トク、と。
     早鐘のように脈打つ鼓動を押し隠し、俺を試すようなルークの眸をまっすぐに見つめ返した。
     それは、精一杯の虚勢。
     たぶん、そんなことは見抜かれてると思うけど。
    「そんな安っぽい言葉で片付けてほしくないね。いいかい、賢斗。ボクは解放してあげたんだよ。キミの心の扉を」
     その言葉の意味を、理解するまでに数秒。
     そして、ルークの言葉によって暴かれた事実に気づいた瞬間、血の気の引く音を聞いた気がした。
    「知って……た?」
     この胸の内に封じ込めていた想いを。
     この人にだけは決して知られるまいと、必死で殺そうとしてきた想いを。
     今日、三度目の衝撃はアルマゲドン並みの破壊力を持っていた。
     呆然と呟いた俺の言葉を肯定するかのように、悠然と微笑むルークの顔を見た瞬間、凶悪な衝動が頭を擡げる。
     わかっている。
     こんなにも気持ちが掻き乱されるのは、ルークの言っていることが間違っていないからだ。
     そう。
     俺は知っていた。
     いつしか、俺の心の中で芽生え、そしてどうしようもないほどに育ってしまった想いがあることを。
     あなたの存在があったが故に息づいたその想いは、あなたの存在を糧にして育っていった。
     だけど、俺はその想いを必死で殺そうとしてきた。
     どうしたらこの想いをあなたに知られずに済むか、そればかりを考えていた。
     水を与えられない花が枯れてしまうのと同じで、渇望するものが得られずに軋む心は、カラカラに渇いて干からび、いつか枯れて萎れてしまうものだと。
     そう思っていたのだけれども。
     人の心はそんなに単純なものではなかったらしい。
     渇けば渇くほどに欲しいと切望する想いが募り、恋しさと切なさが膨らんでいくことを身をもって知った。
     あなたの姿がそこにあれば、眸で追うことをやめられなくて。
     やり場のないその想いが苦しくて………苦しくて。
     諦めてしまおう、と―――なんとか封じ込めてしまおうと、懸命に言い聞かせてきたのに。
     あなたはそんな俺の想いに水を与えてしまった。
     このまま報われることなく朽ち果てていたはずの想いを生かしてしまった。
     だから………………
     悪いのは、あなただ。
     そう結論付けた俺は、ルークの腕を指が食い込むほどの強さで、乱暴に掴んだ。
     痛くないわけがない。
     それほどの力を込めたはずなのに、ルークの余裕の表情は崩れない。
     わかっている。
     この人には俺なんかじゃ、到底太刀打ちできないってコト。
     だけど――――――
     俺はもう、諦めようと、自分に言い聞かせたりはしない。
     この想いを、なかったことにしようとなんかしない。
     だって、あなたが解放してくれたんだろ?
     俺の心の扉の鍵を。
    「だったら………責任、とってくださいよ」
     唸るような俺の言葉には答えず、ただ優雅とすら言えるような表情で微笑むだけのルークに、俺は噛み付くようなキスをした。





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