年末年始の休暇が明けた1月5日から、紺野は職場に復帰した。
ある程度身体が慣れるまでは内勤の仕事に就くよう言われ、それが大沢からの配慮であることを知る。
「ったく………さっさとおまえに仕事譲って、俺は楽する予定だったのに。何だろうねぇ?おまえのその高待遇」
ぼやくような口調で言うけれども、大沢が紺野の復帰を心から喜んでくれているのが伝わってくる。
入院中に何度か足を運んでくれた先輩に、紺野は心からの謝意をこめて頭を下げた。
「すいません。借りっぱなしの借りはこれからきっちり返しますから」
「10倍返し以外受付ねーよ」
からかうように笑う大沢に、紺野は胸を張る。
「なんなら100倍返しでも」
「大きく出たな、おまえ」
「いや、ホント、一生かかっても返せないくらいの借り、作っちゃったみたいなんで」
「大袈裟だな。そんなたいしたことしてないって、俺」
大沢はそう言うけれども。
あの時、大沢が見舞いにきてくれなかったら、今、自分はここにこうしていることはなかったかもしれないと、辻村に話を聞いた時に紺野は思った。
あの瞬間、自分の意識をこちらの世界に引き戻してくれたのは、間違いなく辻村の声だった。
とても寂しそうな声が聞こえたのだ。
どうしてそんなふうに泣いているのか。
何がそんなに悲しいのか。
わからなかったけれども。
胸がとても痛かった。
自分がそばにいてあげなければ、消えてしまいそうな気がして、なんとかしてやりたいと、強く思ったのだ。
なんとかして慰めてやりたいと。
そんなふうに泣いて欲しくないと、そう、思った。
――――泣かないで……
必死に願って。
手を伸ばして。
どこで泣いているのかわからない辻村の姿を探しにいきたいのに、身体が思う通りに動かない。
そもそも、自分がどこにいるのかも、紺野にはわからなかった。
それが、もどかしくて、じれったくて。
何とかして進もうともがいているうちに、意識が底の方からゆらゆらと浮上していくような、奇妙な感覚に捕らわれた。
――――何?
何かあたたかなものが指先に触れたことに気付き、見失うまいと、必死で握りこんだ。
その瞬間、何かをつきぬけた気がして――――――――
眸を開いたら、そこには、必死で探し求めていた辻村がいた。
眸を赤く泣き濡らした辻村が。
――――なんで泣いてンだよ?
『………だい、き?』
やっと見つけた。
だから、もう泣かなくていいと、言ってやりたかったけれども、たった一言を発することが精一杯だった。
渇ききった喉に張り付いて、声にならない自分の言葉を、だが、辻村は聞き逃すことなく拾ってくれた。
『馬鹿拓哉』
泣き笑いのような表情で返され、指先をきつく握られて………
ようやく、自分が握り込んだあたたかなぬくもりが何であったかに、紺野は気づいた。
事故の瞬間の記憶が蘇り、辻村の声と、このぬくもりが、自分をこの場所に引き戻してくれたことを知る。
この現実の世界に。
生きている。
そう思った。
自分はちゃんと、生きているのだと。
あの日のきっかけを作ったのは、まちがいなく大沢の来訪だった。
「いろいろと、ありがとうございました」
もう一度頭を下げた紺野の真意をどこまで汲んだのかはわからないけれども。
その肩を叩いて大沢は言った。
「ま、キバらずに頑張れ。俺は……そうだな、まぁ、がっかりさせられるのもシャクだから、期待しないでおくことにするよ」
「大沢さん!!」
そりゃあ、ないですよ、と情けない声を出した紺野に、大沢は声をたてて笑った。
「ウソウソ。貸したモンはきっちり返してもらう主義だったんだ、俺。キリキリ働けよ」
「はい! 期待していてください」
「マジ調子いいな、おまえ」
「褒められたことにしておきます」
威勢よく答えて自分のデスクに戻ろうとした紺野を呼び止めて、大沢が神妙な表情で声を潜める。
「ところで。ひとつ、聞いてもいいか?」
「? はい」
「崖っぷちだったおまえの人生、うまくいったのか?」
夏季休暇前の会話を指して言っていることは、瞬時に察することが出来た。
興味深々なその問いに、紺野は満面の笑顔で親指を立てるのだった。
++++++++++
まだ梅雨の最中だというのに、今年も酷暑の気配が濃厚だった。
地球の気温の上昇を身をもって体感しているような気がする。
そんな暑さにもめげることなく、リクルートスーツを身に着けた辻村は、日々就職活動に励んでいた。
退院後も地道に続けたリハビリが功を奏して、ほぼ不自由なく歩けるようになった紺野は本来の営業職に戻り、現場を忙しなく飛びまわっていた。
些細なケンカは相変わらず繰り返していたけれども、以前のようなすれ違いや大きな揉め事にまで発展して険悪になることはなくなった。
事故にあう前に比べて少し大人びた落ち着きを身に着けた紺野と、自分の感情をある程度抑える術を学んだ辻村は、良い感じの距離を保ちながらも、より親密な関係を築きつつあった。
そんな中、迎えた7月4日。
二人が一線を踏み越えてつきあいだしてから、三度目に巡る紺野の誕生日。
いままでタイミング悪く祝うことの出来なかったその日を、今年こそは二人きりで過ごそうと、普段なら絶対に泊まることができないようなホテルの部屋をリザーブした。
と言っても、紺野の会社の取引先がくれたホテルの半額チケットを有効に活用した結果だ。それでも、二人にとっては大奮発だった。
名前の知られたホテルのデラックスツイン。高層階から眺める夜景は格別だと、このチケットを譲ってくれた人は絶賛していた。
外で食事を済ませてからチェックインをした二人は、扉を開いた瞬間、その部屋の佇まいに声をあげた。
「すっげぇ! メチャメチャ広い!」
「超贅沢!」
「ソファーセット、普通のホテルじゃこんなにゆとりもって置けないって」
「ってゆーか、このテレビ360℃回転するんじゃん!」
「ベッドでもソファーでも、好きなところから見れるってことだな」
「さすが! ユニットじゃないんだ、ここ」
バスルームからトイレ、クローゼットに至るまですべての扉を開けながら、いちいち声をあげていく自分たちに、二人はたまらず声をあげて笑った。
「っつーか、俺ら、メチャメチャおのぼりさんじゃね? はしゃぎすぎ」
「いいんじゃない? 自分の稼ぎだけだったら絶対泊まろうなんて思わないホテルなんだから。しかも、年に一度のめでたい日じゃん」
「そっか?」
「そうだよ」
ハッピーバースディと歌うように囁いた辻村が、機嫌よくベッドに腰を下ろした紺野に軽く口吻けて、にっこりと笑った。
「実はさ、おめでたい話、もうひとつあるんだけど」
「妊娠した?」
「ちがうっつーの」
ふざけた表情で笑う紺野の頭をベシッと叩いて、辻村も隣に腰を下ろした。
「俺ね、就職内定もらったんだ」
「いつ?」
「昨日」
「前から狙ってるって言ってたトコか?」
「そう。そこ」
ピースサインをする辻村に、紺野が眸を輝かせた。
「すげぇじゃん! 良かったな」
「うん」
やったな、と、自分のことのように喜ぶ紺野に少し照れたような笑顔で返した辻村は、 口元を引き締めて言葉を続ける。
「でね、拓哉」
「ん?」
「卒業したら俺も働いて、ちゃんと稼ぐから。だから……だからさ。春になったら俺たち、一緒に暮らさないかな?」
「……大樹――――」
真剣な表情で尋ねる辻村に、紺野も真顔で問いかける。
「それって……プロポーズ?」
そんなふうには意識をしていなかった辻村は、言われてみればそうも受け取れるのかと、納得する。
「……ってことになるのかなぁ?」
「じゃ、却下」
断られることなど微塵も考えていなかったため、否定の言葉で即答されて声をあげた。
「はぁ? なんでだよ!?」
「カッコ悪いじゃん! そーゆーの、俺からおまえに言おうと思ってたのに」
先を越された。
そんなふうに拗ねる紺野に、辻村はバカバカしいと唇を尖らせる。
「結果が一緒なら、順番なんてどーでもいいじゃん」
「男の沽券に関わる問題だぞ」
「俺ら、どっちも男だからあんま関係ないって」
「そうだけど!」
ブツブツと文句を言い続ける紺野に、辻村は苦笑した。
「じゃ、仕切りなおす? 俺、どっちでもいいけど?」
「なんだよ、それ!?」
あっさりと引かれればそれはそれでおもしろくないのか、お前の気持ちはそんな程度なのかと、紺野は苦情めいた声をあげる。
「結果が一緒ならいいって言ってるじゃん。俺さ、拓哉が事故った時にあーすればよかったとか、こーしとけばよかったってすっげぇイロイロ後悔したの」
「―――――!!」
「だからさ、たとえこの先何があっても。俺、絶対に後悔したくないんだ。今って言う時は今しかない。だから俺、拓哉と一緒にいたい。一分でも一秒でも長く一緒にいたい」
懸命に気持ちを伝えようとする辻村の言葉が胸に染みる。
染みた言葉が、波紋となって、身体全体に広がっていく。
その言葉を、紺野は噛み締めた。
「だよな。順番は関係ないよな」
大切なのは、互いの気持ち。
どうしたいのか。
どんなふうに相手を想っているのか。
その気持ちと、それに伴う行動力だ。
――――絶対に後悔したくないんだ……
辻村の言う通りだと、紺野は想う。
この先、何があるのかわからない。
だからこそ、悔いのないように生きていきたい。
精一杯、いまを、生きたい。
「俺も、おまえと一緒にいたい。だから……一緒に暮らそう。大樹。二人でいろんなことしよう。おまえと一緒だったらさ、人生、すっげぇ楽しい気がする」
「……うん」
どちらからともなく距離を縮め、口吻ける。
まるで、誓いをかわしあうような、厳かなキスだった。
生きていて、よかったと。
こうして辻村のぬくもりに触れるたびに、紺野は心から思う。
そして、辻村もまた、紺野の傍にいるだけで、共にいられることの喜びに満たされるのだ。
失うことの怖さを知っているからこそ、こうしていられる現実が、たまらなく嬉しい。
何度も何度も口吻けをかわし、朝までふたり、抱きあっていた。
人の一生は有限。
だからこそ。
今という時を大切にしたい。
そうやって、時の許す限り、共に、生きていこう。
ふたり、並んで歩んでいこう。
いつか。
いつか、終わりを迎えるその瞬間まで。
一日一日を笑って生きていこう。
ふたりで…………
翌朝。
見上げた空は、梅雨時期の空とは思えないほどの上天気だった。
まるで、これからの未来を祝福しているかのような陽射しを浴びながら、二人は目を細めた。
「すっげぇ眩しい……」
「見事な梅雨の晴れ間だな」
「なんか、幸先いい感じしない?」
「するする」
顔を見合わせて笑いあう。
気持ちも、そして身体も。
何もかもが満たされていた。
「それにしても……あっちぃなァ」
「もうすぐ夏だからね」
そう。
再び巡り来る―――――――――――――夏。
今年もまた、格別に暑い夏になりそうだった。
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