•  夏の行方  
    17






     それは、月のきれいな夜だった。
     午後八時の面会終了時間ギリギリに現れたその男は、かっちりとしたスーツを見事なまでに着こなした、背の高い男だった。
    「紺野くんと同じ会社の者で、大沢昌宏と申します」
     聞き覚えのある名前に、辻村は記憶を辿る。
     確か、紺野の母親が付き添っていたときに、一度訪ねてきてくれているはずだ。次に来たときに失礼に当たらないようにと、誰が見舞いに来てくれたかを、互いに伝え合うようにしていた。折り目正しいきちんとした方だったと、彼女が手放しで褒めていたことを、思い出す。
    「拓哉の……紺野くんの高校からの友だちで、辻村大樹といいます」
     明らかに年下とわかる辻村を軽んじることなく、頭を下げた大沢に、辻村も背を正して挨拶を返す。
     静かに眠る紺野を見つめて、大沢が尋ねた。
    「具合はいかがですか?」
    「相変わらずです」
    「そうですか……」
     大沢に椅子を勧め、辻村も腰を下ろした。
    「相変わらず眠ったままです。医者の先生は待つしかないって繰り返すだけで……人間って、こんなに長い間眠り続けることができる生き物だったんですね」
     どこか疲れたような表情で、辻村は淡々と語り続ける。
    「のんきな顔して、眠っていますよね? 俺や、コイツの家族がいまどんな思いでいるかなんて知らないみたいな顔して。ずっとこんなふうに眠ってるんです。コイツ」
     口調は平静を装っているけれども。
     様々な思いを耐えるように拳を握り締めた辻村の姿に、大沢は胸の痛みを覚えた。
     紺野はまだ、眠りの中にいるけれども。
     あの日の紺野なら、生きることを絶対に諦めはしないと、何故か確信めいた思いを抱いていた。
     それを今ここで言うべきか、しばし逡巡した後、大沢は口を開いた。紺野の覚醒を願って止まない目の前の青年に、彼の言葉を伝えるために。
    「コイツ、人生賭けるって言ってましたよ」
    「え?」
     唐突な言葉に、辻村が訝しげな表情で大沢を見やる。
    「事故にあう少し前に、紺野は今回の休暇に人生賭けるって言ってました。どういう意味なのかは、俺にはわかりません。でも、その成果を見極めるために、コイツは絶対に目を覚ましますよ。何故か、そう思えるんです」
    「拓哉……」
     奥底から突き上げるように、込み上げてくるものがある。
     眠る紺野に視線を移した辻村は、震える唇を噛み締めた。
     そこまでの想いを込めて、沖縄行きの計画を立ててくれていたのだ。
     自分はただ、意地を張って紺野からの連絡を待っていただけの、あの夏の日に。
     ――――拓哉………
    「それに、俺もコイツに貸しが10個どころじゃなくあるんですよ」
    「貸し、ですか?」
    「ええ。だから、コイツにはちゃんと復帰してもらわないと困るんですよ」
    「そうですか……そうですよね」
     紺野の言葉に何か思い当たる節があるのか、思いつめた表情の辻村をいたましそうに見つめた大沢は、これ以上かける言葉を見つけられずに病室を辞した。
    「また来ます」
     そう言って去っていた大沢の広い背中を見送って、再び紺野の傍らに腰を下ろした辻村は、湧きあがる思いを抑えきれずに、その手を強く握った。
    「なんだよ、人生賭けるって。聞いてねぇよ、そんなの」
     紺野は穏やかに眠っている。
     いつもと変わらぬ表情の紺野をもどかしげに見つめる辻村の胸に、息苦しさを覚えるほどの、痛みが走る。
     この病室に通うようになってから、辻村の言葉に応えるのは、沈黙だけだ。
     手を握るのも、言葉をかけるのも、辻村ばかりで、紺野からの答えはない。
     悲しいほどに、何も。
     教えて欲しい。
     どれだけの想いを抱いて紺野はあの日、空港に向かっていたのだろう?
     何を思いながら、沖縄行きの飛行機のチケットの手配をしたのだろう?
     あの日の自分たちの再会に、どんな夢を見ていたのだろう?
     考えたところで、答えなど出るわけもなく……………
    「わかるわけないだろう?」
     叩きつけるように、震える言葉を吐き出した。
    「わっかんねぇよ! 聞かせろよ! お前の気持ち。俺だってまだ伝えてないこと、死ぬほどあるんだからな! いつまでそうやって寝てるつもりなんだよ!? いい加減………いい加減、目ぇ、覚ませよ。覚ましてくれよ………」
     事故のあったあの日から、絶対に泣くまいと思って頑張ってきたけれども。
     いままでずっと歯を喰いしばって堪えていたものが、堰を切ったように溢れ出す。
     あとからあとからとめどなく流れる涙を堪えることは、今の辻村にはできなかった。
    「拓哉……たくや、たくや――――――っっ」
     しゃくりあげながら、紺野の名前を呼び続ける。
     こたえて。
     呼びかけに、こたえて。
     声が、ききたい。
     話がしたい。
     抱きしめたい。
     生きている証を―――――確かめさせて。
     お願いだから………
     紺野の手を握り締め、祈るように呟き続ける。
    「拓哉。拓哉………」
     目を覚まして。
     俺を見て。
     俺の名前を呼んで。
     俺を…………
    「―――――!?」
     そのとき。
     指先にかかる微かな力を感じて、辻村は弾かれたように顔をあげた。
    「………拓哉?」
     それは、とても微弱な力で、ひどく弱々しいものだったけれども。
     それでも………
     確かに感じた指先にかかる力に息を呑む。
     僅かだけれども。
     紺野の指先が動いている。
     自分の手を、握り返そうとしている。
    「先生!」
     枕元にあるナースコールを押そうと腕を伸ばした辻村は、だが、自分を見つめる一対の眸に気付いて動きを止めた。
     全身に震えが走る。
     薄く眸を開いた紺野が、辻村を見上げていた。
     何か眩しいものでも見るように眸を瞬かせ…………そして、ゆっくりと唇を開いた。
    「………だい、き?」
    「――――――!!」
     完全に掠れきった、声にならない声。
     それでも…………狂いそうになるほど待ち続けた、紺野からの言葉。
     カタカタと震える全身を巡る思いを、なんと言い表して良いのかわからない。
     涙が、止まらない。
    「ああ。そうだよ。俺だよ、馬鹿拓哉」
    「……ばか?」
     ピクリと眉を上げ、心外だと言いたげな紺野に、辻村は泣き笑いの表情で声を詰まらせた。
    「そこで反応すんのかよ」
     
     ――――神様……!!

     聞き届けられたい折り。
     込み上げる歓喜と安堵。
     叶えられた―――願い。
     ありがとう。
     拓哉を返してくれて。
     ありがとう。
     ありがとう………
    「良かった……拓哉、本当に良かった……―――――」
     手放しで泣き出した辻村を、一体何が起こったのかわからないと、途方にくれたような眸で紺野が見つめている。
     だが、それはどうやら自分に原因があるに違いないと、わからないなりに悟った紺野は、吐息のような言葉で繰り返した。
    「ごめんな、大樹……ごめん………」
     泣くなよ、と言う言葉のかわりに、重ね合わせたままの指先に、微かに力が込められる。
     それは、紺野からの精一杯の慰めだった。
     そのぬくもりが、たまらなく愛おしい。
    「馬鹿。謝んなって―――――」
     ナースコールを受けて駆けつけた看護師に肩を抱かれ、そっと紺野から引き離される。
     手際よく処置を施していく医師たちをかすむ視界の向こうに見つめながら、辻村は泣きつづけていた。





    ++++++++++





     事故の起きた瞬間のことまでを明確に記憶に残していた紺野は、覚醒後の意識もきわめてはっきりしていた。だが、昏睡状態が続いたことによる身体機能の低下が著しかったため、結局、リハビリも兼ねた三ヶ月にわたる長期の入院を余儀なくされた。
     身の回りのことがある程度自分で出来るようになってからは個室から四人部屋に移り、時々茶目っ気を発揮して看護師たちを困らせながらも、医師の指導のもとで懸命な治療とリハビリに取り組んだ。その甲斐あって、いくつかの傷跡は身体に残ったけれども、体力的には日常生活にはまたく支障を来たさない程度まで回復するに至った。とは言え、なにもかもがすっかり元の通りというわけにもいかず、若干左足を引きずりながらの退院となった。
     12月中旬。
     季節はすっかり冬に移り変わっていた。
     今年一番の冷え込みだと、前日からニュースが伝えていたその日。
     ようやく、二人きりで外で待ち合わせ、でかけることができた。
     久しぶりに病院以外の場所で肩を並べて歩きながら、本当の意味での日常が戻ってきたのだという思いを、辻村は噛み締める。
     嬉しさの滲む視線の先では、白い息を吐いて空気の冷たさに身を震わせる紺野が、両手を擦り合わせていた。
    「寒ッ。なんか、夏ぶっとばして一気に冬になったって感じだなんだよなぁ」
    「そりゃぁね。あれだけ病院にいれば、季節も変わるって」
    「確かに。三ヶ月は長いわ」
     見失った夏を思って紺野が呟きを落とす。
    「沖縄、マジ行きたかったなぁ……」
    「行く機会はこれからいくらでもあるよ」
    「だよな」
     叶わなかった沖縄旅行。
     あの事故のおかげで、うやむやのままにしてきてしまったけれども。
     忘れてはいない。
     辻村には言わなければいけないことがある。
     病院にいる間は人の目もあって、腰を落ち着けて話をすることができなかったけれども。
     きちんと伝えなければいけないと、紺野はずっと思っていた。
     辻村はいまさらそんな言葉を必要とはしていないだろうけれども。
     もう一度、二人で歩き出すために、あの夏の日に言いそびれたことを、辻村に伝えなければと、思っていた。
     今がその時なのかもしれない。
     意を決したように足を止めた紺野は、思い切り深呼吸をした。
    「大樹」
    「ん?」
     紺野に合わせて足を止めた辻村が、何事かと、小首を傾げる。
    「イロイロ、ありがとな。いや、礼とか言う前に、俺、オマエにちゃんと謝んなきゃってずっと思ってて………事故っちゃって、なんかうやむやにしちまったけどさ。古い話、蒸し返すけど。でも……ごめん。約束、反故にしたの俺なのに、すっげぇ勝手なこと言って、おまえのこと傷つけた。そのくせ、すぐに連絡も出来なくて、マジで―――その、ごめん」
     頭を下げた紺野に近づいた辻村が、肩を引いて顔をあげさせると、俯いたままの顔を除きこむようにして言葉を紡ぐ。
    「あれはお互い様ってコトで、いいんじゃない? 俺もなんか意地になってたし。あんなつまんないことでケンカするんじゃなかったって、あの後死ぬほど反省したしさ。だいたい、いまだに根に持ってたら、俺、あんなに毎日病院に行ってないよ?」
    「…………」
    「わかった?」
     念を押すように言われ、紺野は小さく笑った。
    「だよな。サンキュ」
    「ばーか。礼なんていらないってば」
     屈託のない笑顔を浮かべ、なんでもないように辻村は言うけれども。
     母親から、辻村がどんなふうに自分を呼んでくれていたのか、どんなふうに見舞ってくれていたのかを聞かされた。ほとんど毎日と言っていいくらい時間を作って紺野の病院に足を運ぶことは、半端な気持ちで出来ることではない。必死で自分を案じてくれた辻村の想いが、たまらなく嬉しかった。そして、同じだけの……いや、それ以上の想いを、この先の人生の中で伝えたていきたいと、切実に思った。
     今回の一件で、見えなかったものが見え、気付かずにいたことにも気付くことができたと、紺野は思う。
     払った代償はとても大きなものだったけれども。
     それらを乗り越えて、今、こうして辻村と共に在ることのできる幸せを噛み締めることができる。
     生きていて良かったという、単純で明快だからこそ、切実な喜びが、心の底から込み上げる。
     目の前の辻村が、たまらなく愛おしかった。
    「ホラ、行くよ」
     照れくささから、歩き出そうとした辻村の腕を、足を止めたまま紺野は掴んだ。
    「なぁ、大樹」
    「ん?」
    「ホテル行こう」
    「―――――!?」
     確かに。
     今日そんな展開になることを期待していなかったわけじゃない。
     だが、このタイミングでくるとは思っていなかった言葉に眸を剥いた。
    「は? 何言ってんの!?」
     言葉の軽さに、からかわれているのかと、ムキになって怒鳴った辻村だったけれども。
     腕を引かれてふわりと抱きしめられ、間近で見つめた紺野の眸の真剣さに、言葉をなくす。
    「抱いていい? 俺、マジ限界。おまえとヤりたい。メチャメチャ抱きたい」
     感じたい。
     辻村のすべてを。
     愛おしい恋人を、この両腕で抱きしめたい。
    「ばか。言葉選べよ。ムードなさ過ぎ」
     肩に額をつけた辻村の口元に、甘い笑みが浮かぶ。
    「悪りぃ」
    「ホント、馬鹿だよ、おまえ」
     ストレートな言葉が胸に響く。
     全身で感じる紺野の体温に、泣きたくなった。
     言葉を交わしあい、同じだけの強さで抱きあうことができる。
     あたりまえのことがあたりまえでなくなったときの悲哀と絶望は、言葉に形容し難いほどの痛みと苦しみをもたらした。
     そんな苦しさを乗り越えてきたからこそ、今のこの瞬間がたまらなく嬉しかった。
     紺野の首に腕を絡め、辻村も熱い言葉を囁き返す。
    「俺も限界。いつまで待たせんだよ、って、実はすっげぇ思ってた」
     触れ合ったところから流れ込む体温は、冬の寒さも消し飛ぶほどに、あたたかかった。



    「……ぁ、んッ……―――」
     飛び込んだホテルで、服を脱ぐ間も惜しむほど、性急に求め合う。
     肌の触れ合う感覚に、ふたりはすぐに夢中になった。
     背骨のラインを辿って双丘の間の割れ目へと指をすべらせた紺野は、奥に潜む蕾を濡らした指の腹でそっと押した。
    「ぁあッ……」
     ゆっくりと絡み合う襞をほぐすように、指を沈めていく。
    「ン……―――っぁあぁ…」
     あまりにも久しぶりすぎるその感覚に、辻村が羞恥と歓喜に背を震わせた。
     中の具合を確かめるように、おさめきった指を蠢かす。
    「きついな……」
     あからさまな台詞に、シーツに押し付けた頬を、辻村は赤く染めた。
    「馬鹿ッ……やッ……―――」
     ヒクつく蕾の縁をあやすように撫でながら、指の抜き差しを繰り返す。
     慎ましやかに窄まるその場所を傷つけてしまわないように、紺野は丹念に解きほぐしていった。
    「……ぁ……ふぁッ………」
     時間をかけての愛撫にやわらかく潤んで熱を帯びた蕾に軽く口吻け、四つん這いに這わせていた辻村の躯を返して見下ろせば、とろけるような表情で紺野を見上げて荒い呼吸を繰り返している。
     上下する胸の左右の飾りは散々に弄られて固く尖り、その姿の艶かしさに、紺野の下腹は禍々しいまでの熱を帯びた。
     快楽に揺らぐ視界の中で辻村が捕らえた紺野の躯には、いくつかの傷跡が残っていて、以前より肉の薄くなった躯と、その傷跡が、痛ましい事故を思い出させる。
     それでも、変わらぬ強さで自分を抱く紺野に、辻村は、たまらずしがみついた。
     生きていてくれて良かった、と。
     泣きたくなるほどの切なる思いをこめながら。
    「……拓哉――――」
     唇を重ね、深い口吻けをかわす。
     歯列を割り、下唇に歯を立てて舌を絡ませ、すべてを飲み下そうとするかのような激しさでむさぼりあう。
     悩ましいまでに熱い吐息に、濡れた水音が混ざりあった。
     汗と、そして吐き出した体液に淫らに濡れた脚をM字に曲げて大きく左右に割り開き、打ち震える蕾にあわせて腰を進めれば、久しぶりにその場所にあてがわれたモノの熱さと硬さに、辻村の腰が無意識に逃げる。
    「ぁぁッ……」
     引き戻し、濡れて蠢くその場所に先端を含ませた紺野は、屹立した剣を媚肉の中にもぐりこませていった。
    「…んぁ……っ、ムリ―――――あぁぁっ……」
     一瞬の苦痛の後、躯の中から這い上がった強烈な快感。
     久しぶりの交わりに、辻村が嬌声まじりの甘い悲鳴をあげる。
    「大丈夫。できるから」
     甘くやさしい声音で宥められ、目尻に涙を滲ませて頭を振った。
    「やぁ……っ――!!」
    「力抜いて」
     囁きと共にぐっと押し込まれたものを内部に絞り込むように、熱く熟れた粘膜が痙攣する。
     そのまま一気に奥まで貫いた。
    「ひぁっ…………」
     辻村の背が撓る。
     奥まで納めきったところで動きを止め、辻村の涙を舐めとった。
    「ぜんぶ、入ったよ」
    「ぜんぶ…?」
    「ああ、全部。わかるか?」
     汗で額に張りついた髪をかきあげてやりながら、ゆるゆると腰を蠢かせる。内部を掻きまわすようなゆっくりとした動きは、次第に激しい抽挿へと変わっていった。
    「……ぁあ、―――っん、ん、ぁぁぁ………」
     突き上げる紺野の腰の動きに呼応するように、辻村の唇から嬌声が零れる。
     濡れた肌のぶつかりあう音と、埋め込まれたものが躯の中から引き出される卑猥な水音がいやらしさを煽る。
     どこまでが自分でどこからが自分ではないのかの境目がわからなくなり、恍惚とした表情で辻村が激しく身悶えた。
    「――――――!!」
     そんな表情は反則だと、猛烈な欲に駆られて激しく奥を攻めたてる。
    「あぁっ―――――」
     高く掠れた声をあげて遂情を遂げた辻村と共に官能の渦に飲み込まれながら、倒れ込むように濡れた躯を重ねあわせるのだった。








     Back  Next