一時は容態を危ぶまれた紺野は、懸命な祈りの甲斐あって一命を取り留めた。
だが、一度も目を覚ますことなく眠り続けている。
紺野の母親も、そして辻村も、時間の許す限り、彼の傍らで意識の覚醒を願い続けた。
事故が起きてから一週間。
容態の変化のないまま集中治療室から個室に移った紺野を、山下と安積が連れ立って見舞いに来た。
「医者は?何て言ってるの?」
「本人の気力次第だってさ。出来る処置は全部やったから、あとは待つしかないって」
重い息と共に吐き出された辻村の言葉に、二人は眉を顰めた。
「なんだよ、医者がそんな神頼みみたいなことぶっこいてていいのかよ」
「医学なんて、適当なモンだよな」
病院のスタッフが最善を尽くしてくれたことはわかっている。
それでも、ぶつけずにはいられなかったやりきれない言葉を聞きながら、紺野を見つめて辻村は強い口調で言った。
「でも、生きてる。拓哉はここにいる。だから、待つよ、俺。拓哉が目を覚ますのを」
自分に。
そして、すべての者に。
懸命に言い聞かせようとするかのように。
「だな」
辻村の頭をぽん、と軽く叩いて山下は笑った。
「こんなに待ってるヤツがここにいるんだもんな。絶対に目を覚ますよ」
「ん……」
――――絶対に目を覚ます。
確証のない言葉でも、涙が滲みそうなほど、嬉しかった。
思いは通じると。
必ず通じると。
そう、信じているから。
「コイツ、目を覚ましたら一番最初になんて言うんだろうな?」
「腹減った……とか?」
「普通にオハヨ、とか言いそうじゃね?」
「自分の状況わかってんのかどうかもアヤシイよな」
「いくら馬鹿でもそれはないんじゃないの?」
言いたい放題の二人にさすがに紺野が気の毒になり、辻村が弁護に回る。
「ちょっと! その言い方、ひどくない?」
「あ、大樹、ムキになってる」
「なってない!」
「ちょっとキレてる?」
「キレてない! っつか、俺で遊ぶな!」
点滴を受けながら静かに眠る紺野の横で遠慮のない言葉を発しながら、三人は笑った。
山下のバイトの時間になるまで、三人で話をしつづけた。その会話を紺野に聞かせるように。
いつもの面子。
いつもの会話
足りないのは―――――紺野の声。紺野の笑顔。紺野の…………
とても楽しい時間だった。だからこそ、二人が帰って賑やかだった人の声が聞こえなくなり、病室がいつもの静寂に包まれれば、やりきれなさが津波のように押し寄せてきた。
ひとり、紺野の傍らに座って力のないその手を握りながら、辻村は思いをめぐらせる。
紺野が目を覚まして。
そして、一番最初に自分の名前を呼んでくれたのなら、どんなに嬉しいだろう?
目を覚ました瞬間に、自分の名前を呼んでくれたのなら、どれほど幸せだろう?
いや……と、過ぎた願いを打ち消すように頭を振って、辻村は紺野の手に頬を寄せた。
多くは望まない。
目を覚ましてくれるだけでいい。
ただ、それだけでいい。
だから…………だから、神様。
――――拓哉を返して。俺に返して。
「拓哉……俺、すっげぇ寂しい」
こうして触れあれる距離にいるのに。
呼びかけに応えてはくれないのだ。
近くにいるのに遠い。
果てしなく遠い。
そんな現実が辻村の胸をキリキリと締め付ける。
自分たちの時間は、ケンカ別れしたあの日の夜から止まってしまったままだ。
再び時を刻み始めるはずの夏は、予想もしなかった残酷な出来事に奪われてしまった。
紺野なくしては、なにもはじまらない。
互いに伝えあっていないことは、まだまだたくさんあるのだ。
眠る紺野に語りかける日々は、自分にとって、紺野の存在がどれだけ大切なものなのかを、改めて突きつけられる日々でもあった。
だから―――――――
「俺、絶対諦めないからな。おまえも、諦めるなよ」
眠る紺野に口吻けて、この日、辻村は病室を後にした。
8月末までの夏休みの間、辻村は毎日病院に通い続けた。
「そこまでしてくれなくていいのよ?」と、はじめのうちは気をつかっていた紺野の母親も、今では辻村とのローテーションをあたりまえのことのように受け入れている。
彼女が二人の関係をどう思っているのかは、わからない。
度を越した友情と見ているのか、自分だけが事故を免れた責任を感じていると思っているのか、或いは、何か感じ取るものがあったのか。
だが、彼女が何も詮索してこない以上、それは今考えるべきことではなかった。
「じゃあ、あとはお願いね」
買い物や夕飯の支度のために家に帰った彼女を見送り、辻村は定位置になっているベッドの傍らに置かれた椅子に腰を下ろした。
こうして面会終了までの時間を過ごしながら、穏やかな表情で眠る紺野を、何度、揺さぶり起こしたい衝動に駆られたかわからない。
だが、そんなことをしたところでどうにもならないことは、いやになるほどわかっていた。
だから、辻村は紺野の手を握って語りかけ、願い続けた。
一日でも早く、紺野が目覚めることを。
再び笑いかけてくれることを。
自分には祈ることしかできないから。
だから、必死で願い続けた。
9月になり、学校の授業が始まっても、辻村は三日と空けることなく、病院に通っていた。
「今日さ、授業中にラブラドールが迷い込んできたんだぜ?でも先生は机の間を動いてる犬のこと、遅刻してきた生徒だと思ったみたいでさ。犬に向かって学籍番号と名前言えって怒鳴ってンの。そうしたら、それに答えるみたいな絶妙のタイミングで犬が吼えるもんだから、俺ら、すっげぇおかしくて……」
変わらぬ表情で眠り続ける紺野の手に指を絡め、その日の出来事をやわらかな声で語りかけるのが日課になっていた。
ふとした瞬間に、辻村の話を静かに受け止める紺野の口元が、何か言葉を返してくれそうな気がして。
思わず返事を期待して、紺野の言葉を待ってしまう。
どんな小さな言葉でも拾い逃さぬようにと、耳を傾けてしまう。
だが、どれだけ息を詰めて待っていても、部屋全体を満たすいつもと変わらぬ沈黙に、辻村は溜息を呑みこむのだった。
――――諦めないよ。拓哉。俺はずっと信じてる。
そうやって紺野との一方通行の対話を繰り返していた、そんなある日。
コンパの誘いを立て続けに断った辻村に、級友たちからいつになく激しいブーイングがあがった。
「またかよ。おまえ、休みあけてから、ホント、付き合い悪いじゃん!」
「ゴメン! マジ、用事あるんだって」
「毎回毎回、何の用事だよ」
「だから、イロイロあるんだって」
はぐらかす辻村に方々からツッコミが入る。
「イロイロって何だよ!」
「っつか、何でごまかすんだ?」
「怪しい! どこの女とヨロシクやってんだよ」
短絡的に女絡みと断定された辻村は、うんざりしたように溜息をついた。
「おまえらの発想は、どうしてすぐそっちに行くんだよ?」
「それは俺らがヨロシクしたいからだ」
「野生の本能むき出しのヤローと一緒にしないでくれる?」
「てめぇ! 一人だけ違う世界に行きやがって」
吼える男どもにむかって、煽るような流し目で挑発する。
「羨ましい?」
「あぁ!?」
その挑発に、お約束のように乗っかり、喚くだけ喚いて勝手にスッキリした騒がしい集団が去ったところで、辻村と共にいた上田がようやく口を開いた。
「毎日通ってるの? 病院」
「どうしてもムリな時以外はね」
上田にはある程度の事情は話してある。
なんでもないことのように言う辻村を、上田はじっと見つめた。
「ソイツ、そこまでする価値のある男なの?」
上田にとって、一瞬だけまみえたことのある紺野の印象は確かに最悪だっただろう。
紺野は上田に対してそれだけのことをしたということを認める辻村は、その時の紺野を弁解しようとは思わない。
だが、そんな部分も含めて、自分は紺野という人間に惹かれているのだ。
お互いに素の自分をぶつけあって築いてきた関係だ。
いまさらどんな顔を見せられたところで、自分の気持ちは変わらない。
「どうかな? 他のヤツが何て言うのかはわからないけど。俺にとってはどんなものともひきかえにならないくらいの価値のある男だよ」
「そう…」
心の中でどう思っているのかはわからないけれども、上田は辻村の言葉を否定することはなかった。
「拓哉の母さんがさ、言ったんだ。コイツ、馬鹿だから迷わないように名前を呼んであげてって。ちゃんとこっちに戻ってこれるように、名前を呼んであげてって。だから俺、拓哉に話しかけてるの。俺の声が届きますようにって、必死で願いながら、話しかけてるの。拓哉は俺のすべてだから………」
一言一言噛み締めながら語る辻村は、痛々しい笑顔を浮かべて言った。
まるで、大丈夫、と自分自身に懸命に言い聞かようとするかのように。
「俺も、アイツの家族も、諦めてない。俺たちがこんなに呼び続けているんだ。絶対に拓哉は戻ってくる」
キッパリと言い切った自分の言葉に縋るような辻村に、上田も小さな微笑で返す。
「拓哉……ね。俺も気が向いたら呼んでおくよ。ソイツの名前」
「サンキュ……」
そっけない風を装いながらも、やさしさの滲むその言葉が、嬉しかった。
上田の心からの言葉だということが、伝わってくる。
上田だけではない。
山下や安積も、心配してこまめに連絡をくれていた。
みんなの言葉が自分を支えてくれている。
だから、崩れることなく立っていることができる。
ありがとう………と。
心からの言葉を辻村は繰り返すのだった。
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