•  夏の行方  
    12






     その日、辻村は約束の時間の10分前には、待ち合わせ場所に立っていた。
     鼻唄を口ずさんでしまうほど、高揚した気持ちを抑えきれずに紺野を待つ。
     夕飯を食べに行く店は、すでに調べてチョイスしてある。
     ちょっと小洒落たイタリアン。
     絶対に気に入ってもらえる自信があった。
     楽しい想像に気持ちを浮き立たせながら、約束の時間を迎えた。落ち着きなく周囲に視線をめぐらせてみる。
     だが、紺野の姿はない。
     何か連絡があるかと思ったが、携帯も沈黙したままだ。
     10分過ぎ、20分が過ぎ―――――次第に辻村の表情が曇っていく。結局、30分たっても紺野が現れることはなかった。
    「――――――」
     神経質そうに首を振った辻村は、何度目かの溜息を落とした。
     楽しい気持ちがしぼみ、苛立ちばかりが膨らんでいく。
     このまま帰ってしまおうか?
     そんな思いが頭を過ぎったその時。
     紺野からのメールの受信を知らせる音が鳴った。
     嫌な予感に眉間に皺を寄せたまま、メールを開く。
    『悪い。仕事で抜けられなくなった。埋め合わせは必ずするから。ホント、ごめん』
    「マジで?」
     思わず声をあげてしまう。
     仕事なら仕方ないと思う。
     そのことは、いまさらとやかく言うつもりはない。言ってもどうしようもないことは、辻村もここ数ヶ月で学んでいる。
     だが、来れなくなったという連絡を、こんな時間になってからメール一本で済まされたことが、辻村をいつになく苛立たせた。
    「いくらなんでも電話ぐらいできンじゃねぇの?」
     浮かれて心待ちにしていた自分が馬鹿みたいだと、無性に腹立たしい気分になる。
     と同時に、ひどく寂くもあった。
     ――――マジムカつく………
     何とか気持ちを静めようとしてみたところで、憤りはおさまりそうにもない。
     このまま家に帰るような気分には、とてもなれなかった。
     そして、ひとりではいたくなかった。
     どうしようか?
     携帯電話のメモリーを呼び出して、専門学校での友人である上田の携帯を鳴らす。
     繋がってくれよ、と、切実に願いながらかけた電話は、数回のコールで繋がった。
    『あ、大樹? どーしたの』
     いつもと変わらない、どこか人を食ったような口調。
     独特の雰囲気を持つ上田とは、会った初日から何故か互いの愛犬の話で盛り上がり、その日以来よく一緒に行動をしている。
    「今家?」
     繋がったことに安堵の吐息を吐き、辻村は尋ねる。
    『うん。家』
    「出来れば飲みに付き合って欲しいんだけどさ。出てこれる?」
    『なんかヤなことあった?』
    「……ちょっとあった」
     ちょっとどころではないような口調で訴える辻村に、それ以上は何も聞かずに上田は急な誘いを了承した。
    『どっか座れるところで30分待ってて。じゃなかったら、適当に店に入って飲んでてくれて構わないから』
    「悪いな」
    『いいよ。ちょうど俺も飲みたい気分だったし』
     ホントに嫌だったら行かないし、気にすることないから、とあっさりと言う上田に辻村は心の中で手をあわせた。
    「サンキュ。待ってるから」
     電話を切り、賑やかな夜の街を流すようにフラリと歩いた辻村は、一番最初に目に付いた居酒屋に腰を落ち着けた。いまさらイタリアンなどとはしゃぐ気分ではない。そもそも紺野のために選んだ店なのだから、当の本人がいなければ意味がないのだ。
     最初から自棄酒のつもりの辻村のピッチは早い。上田が来るころには、三杯目のビールを飲み干すところだった。
    「おまたせ」
    「悪いね。呼び出しちゃってさ」
    「いいよ。暇だったから」
    「いまさらだけど、おまえもう、メシ食ったんじゃないの?」
    「食ったって言うほど食べてないよ。俺も何か適当に摘むから」
     本当のところはどうなのかわからないけれども。
     なんでもないことのように、上田がそう言ってくれたことが嬉しかった。
     イタリア料理でワインの予定が、居酒屋でビール。
     紺野と雰囲気よく過ごすはずが、上田と自棄酒。
     事情を知らない上田には同性の恋人……とはさすがにおおっぴらに言えなかったけれども。
     付き合ってるヤツに約束をすっぽかされたことを散々に愚痴って文句を言って。ついでに日頃の鬱憤も全部吐き出して。
     特に口を挟むことなく話を聞いていた上田は、居酒屋を出るころにはすっかり出来上がってしまった辻村を抱えるようにささえながら、日付の変わりかけた夜の街を歩いていた。
    「大樹、呑み過ぎ! ほら、しっかりつかまって」
    「大丈夫! 俺、まっすぐ歩いてる」
    「全然まっすぐじゃないから」
    「まっすぐまっすぐ」
     上田の支えを外して得意げに歩いてみせる歩行跡は、うねうねとくねっている。
    「思いっきり蛇行してますケド?」
    「あはははは」
    「ってか、そっち帰る方向じゃないから! 置いていくぞ」
     殊更明るい光を放っている、スナックやバーの密集した一角へとふらふらと歩み寄っていく辻村を追って、上田も歩調を速めた。
    「もう一軒よってこうよ?」
     看板を物色しながら辻村が誘いをかける。
    「もうこれ以上飲めないと思うけど?」
     もっともなことを口にする上田に、辻村は胸を張った。
    「せっかく出てきてもらったんだからさ。今日は俺のおごりってことで飲んじゃおうよ!あ、金の心配はいらないから」
     先日もらったばかりのバイト代を全部財布の中に入れてきた。
     紺野のために使うつもりだった金を一晩で飲み倒してしまうのも悪くない。
    「そんな心配してないっつーの」
     呆れたように言う上田の腕を引っ張って、辻村が先を歩いていく。
    「ほら、大樹。帰ろうよ」
     強くは抗わず、それでもたしなめるように上田が口にしたその時。
    「―――――!!」
     あまりにも突然に、辻村の足が止まった。
     そのまま、何かに釘付けになったかのように固まってしまう。
    「大樹?」
     華奢な背中に危うくぶつかりそうになった上田が、気分でも悪くなったのかと案じて声をかける。
     その声がまるで耳に届いたかのように。
     強い視線を投げかけてきた男がそこにはいた。
    「?」
     きらびやかなネオンの下、明らかにどこかのバーの従業員だとわかる女性がその男に腕を絡みつかせ、耳もとで何かを囁いている。ひどく綺麗な顔の男だと、上田は思う。だが、そこに甘い雰囲気を微塵も感じさせないのは、その男の眸のせいだ。
     上田の腕を掴んでいた辻村の指に力が入る。
     交錯する視線。
     瞬間的に苛立ちを孕んだ男の眸はまっすぐに辻村を指していて、次いで、上田に向けられた。
     二人が知り合いであることを上田は瞬時に理解する。
     だが、この険悪な雰囲気は一体………?
    「―――――」
     背後の上田によろめくように体重を預けた辻村が、喉の奥で小さくかすれた声をあげた。
    「拓哉……」
     こちらに背を向けている女だけが、この凍りついた雰囲気に気付かない。
     先に口を開いたのは、しなだれかかる女を引き剥がした紺野の方だった。
    「おまえ、こんなところで何やってるんだよ?」
    「―――――!?」
     言うに事欠いてその台詞かと。
     辻村の頭に血が上る。
     他の誰に言われたとしても、受け流すことができる。だが、今日の紺野にだけは、そんなことを言う資格はないはずだ。
    「どっちの台詞だよ? それ」
     他に何か言うべき言葉があるだろうと、辻村は思う。
     燃える炎のように熱い紺野の声に反して、辻村の声は氷のように冷たかった。
     その冷たさゆえに、彼の怒りが半端なものではないことを、この場にいる誰もが理解する。
     自分との約束をすっぽかして、女と腕を絡めて。
     そう。
     問う資格のあるのは自分の方だ。
     こんなところで何をやっている? ―――――と。
     人の行動を問いただすよりも、それを説明することの方が先なのではないのだろうか?
    「……………」
     それまでの酔いが瞬時にして冷めてしまったかと思うほど、冷ややかな眸で紺野を見据えた辻村は、やがて、目の前の男にはまるで興味を失ってしまったかのように踵を返して、上田を促して歩き出した。
    「行こう、上田。気分悪い」
     あからさまな言葉に紺野が派手な舌打ちをして声を荒げる。
    「ざけんなよ。何だよ、それ!」
     追う紺野の腕が辻村の肩をつかみ、強引に振り向かせた。
     その瞬間―――――――
    「離せっ!!」
     叩き落すような激しさで、その手を払いのけた辻村が、激高した声をあげる。
    「おまえの仕事はオンナとよろしくやることかよ!? おまえの顔なんて金輪際見たくねぇ!」
    「―――――!!」
     怒りは連鎖する。
    「おまえだってコイツとヨロシクやってんじゃねぇのかよ?」
     逆上した紺野の言葉に、上田ですら引いてしまいそうな冷ややかな声音で辻村は言い放った。
    「そーゆーの、ゲスの勘繰りって言うんだよ」
    「は?」
    「自分と一緒にすんじゃねぇよ、この馬鹿!」
     カッとなって振り上げた紺野の拳を、一人冷静な上田が止めた。
    「何すンだよっ!?」
     紺野に噛み付かれても臆することなく、静かな声で言ってのける。
    「ここで殴り合いはまずいと思うけど? 注目の的になってるよ」
     見れば、遠巻きに人が集まり始めている。
    「………チッ」
     上田の手を振りほどき、やってらんねぇ、と吐き捨てた紺野は肩を怒らせたまま夜の街の中に消えていった。
    「上田、ごめん……。なんかイヤなことに巻き込んじゃった」
     なんとも情けない顔をして、辻村が頭を下げる。
     紺野と自分の関係も、今の会話で上田には悟られてしまっただろう。
     脱力しきったようにうなだれる辻村に、上田はいつもと変わらない笑顔を向けた。
    「いいよ。全然気にしてないし。ってゆーか、俺もなんか余計なことしちゃったし? あれで話こじれたらごめん」
    「その……今度。今度あいつのこと、ちゃんと説明するから。………今日はちょっと勘弁してもらっていいかな?」
    「俺は構わないよ。もし言いたくなかったら別にムリに話さなくてもいいしさ」
    「……うん。ありがと」
    「いいって。友だちじゃん。気にするなよ? それより飲みなおしに行く?」
     自分を気遣ってそう言ってくれた上田の好意はありがたかったけれども、辻村は申し訳なさそうに首を横に振った。
    「鬱陶しい話しかできなさそうだから帰るよ。なんか、勝手ばっかり言ってごめんな、上田」
    「大樹ってば、今日は謝ってばっかり」
     言われれば、辻村は苦笑するしかない。
     上田と別れ、ぐしゃぐしゃに乱れる感情を持て余しながら、辻村は帰路についた。
     思い出すだけで怒りが込み上げてくる。
     間違ったことは言ってない。
     だから、絶対に自分からは謝るものかと。
     そう思った。
     見るからに仕事中だったあの女と紺野の間に何かがあったとは思っていない。
     紺野は迷惑そうに眉を顰めていたし、そういった面での誠実さは信じられる。
     問題はそんなことではなく――――――
     一言の詫びもなく詰られたこと。
     そのことがどうしても許せなかった。
     しかも、自分だけではなく、上田までも悪し様に言ったのだ。
     誰のとばっちりを受けてあの場に上田がいたのか、あの馬鹿は理解しているのだろうか?
     非があるのは断じて紺野だと。辻村は思う。
     それなのに。
     思えば思うほど。
     どうしてこんなにも苦しいのだろう?
     砂を噛んだような後味の悪さが、まるで、自分自身を責め立てているようでキリキリと胸が痛む。
     込み上げる衝動を抑えることができずに、辻村は通りすがった家の塀を力任せに蹴りつけた。
    「畜生――――!!」
     日付はとっくに変わってしまっている。
     通り過ぎてしまった7月5日。
     今年もまた、祝いそびれた誕生日。
    「ありえないっつーの。ばか拓哉」
     滲みそうな涙は足の指先の痛みのせいだと。
     辻村は、懸命に己に言い聞かせるのだった。



    ++++++++++



     一方、紺野もまた、込み上げる苛立ちのままに手近なものを蹴り飛ばしていた。
     客先と上司の誘いを断りきれずに引きずり回され、まずい酒を飲まされた挙句の結果がコレだ。
     差し障りなく進んでいた仕事がバタついたのは、今日の夕方近くのことだった。平らに施工したはずの床にボコボコとしたふくれが生じたというクレームの電話がかかってきて、上司と二人、急に現場へと赴くこととなった。こじれることを覚悟して鬱々とした気分で行ったけれども、引き渡しまでまだ余裕があったおかげか、長年の付き合いのある現場所長だったおかげか、意外に穏便に話は済んだ。現場を見て、再施工の日程の段取りまでをすませ、二人が会社に戻ろうとしたときだった。
     雑談にまじえて上司が「今日は紺野の誕生日なんですよ」などと所長に余計なことを言い出してしまったがために、ことがややこしくなってしまった。
    「お、それはおめでとう。だったら今日は飲みに行かないと」
    「え?」
    「お祝いだよ、お祝い」
    「いえ、俺は」
    「まぁ、そういわず。たまにはご馳走させてくれよ。そういえば、キミとは一度も飲んだことがなかったよな」
     急いで会社に戻っても、辻村との約束に間に合うか間に合わないかの微妙な時間だった。これ以上長居はしたくなかったし、先約がある、と、紺野が断りを入れようとしたその時。
    「じゃあ、お言葉に甘えてご馳走になりますか」
    「―――――!?」
     勝手に返答した上司に冗談じゃないと精一杯目を剥いたが、頼むよ、と、縋るような目で見られて、辞することが出来なくなってしまった。
     年間に億単位で金が動く、大口の顧客だ。無下にはできない。
     後から上司に聞いた話だと、この所長は無類の酒好きで、何かと理由をとりつけては飲み歩いているらしい。
     何でも会社経費で落ちる大会社は違うね、と感心している上司の襟首を、それどころじゃねぇっつーの! と、締め上げてやりたい衝動に駆られて紺野はぐっと堪えた。
     ――――コレも給料のうち、給料のうち……でも納得いかねぇ……
     ぐるぐると頭の中で言い聞かせる。
     上司が会社にはこのまま直帰する旨を伝え、その間紺野が所長の相手をさせられていた。
     そこからの移動は当然、下っ端の紺野の運転で、とにかく一人きりになる隙がなく、彼らの目を盗むようにして辻村の携帯にメールを入れることができたのは、待ち合わせからずいぶんと時間がたってしまってからだった。
     直接電話をすることができればよかったのだけれども。
     そのタイミングを完全に逸してしまったあの状況では、短いメールを送ることだけでせいいっぱいだった。
     二軒目のクラブへと移動し、まだ盛り上がっている上司たちをなんとか振り切った紺野は、辻村の自宅へ向かうつもりだった。客が帰るときに女の子が見送りに出てくるのは、この手の店ではあたりまえだ。
     ――――うぜぇ………っつか、早く電話して謝んないと。
     腕を組まれお決まりのように「また来てね」と囁かれた瞬間、思いも寄らない人物の姿を目にしてパニックになりかけた。
     ――――何でここにいるんだよ!?
     そこに、どんな偶然が作用すれば、こんなことになるのだろう?
     最悪のタイミングだ。
     紺野と視線をあわせた辻村の眸が瞬時に冷めていくのがわかった。
     約束を反故にして女に見送られている自分。
     あまりのバツの悪さにいたたまれない気持ちになったとき、固まった辻村が傍にいた男の腕をぎゅっと握りなおした。
     その瞬間、紺野の頭に血が上った。
     その行為がムカついたことも、確かにあったけれども。
     今にして思えば、自分の所業をごまかすかのように声を荒げてしまったのだ。
     後ろめたさを怒りにすりかえてしまった。
    「サイテイ………」
     だが、辻村の投げつけた言葉も相当にきつかった。
    『おまえの仕事はオンナとよろしくやることかよ!?』
     どんな言い訳も通用しないけれども。
     自分の意思であの場にいたのではないと、叫びたかった。
     それ以上に、辻村が自分の知らない男の腕を掴み、もたれかかるように身体をあずけたことがショックだった。
    「馬鹿みてぇ……」
     わかっている。
    これはみっともない嫉妬だ。
     そもそも、自分が約束をすっぽかしたからこそ、辻村はあの男と飲みに行くことになったことは間違いないのだ。ということは、原因を作ったのは明らかに自分だ。
     謝ろうと、通話ボタンを押しかけたところで、紺野は携帯を放り出した。
     感情的になってる今は、何を言ってもお互いに傷口を広げあうだけだ。
     自分も辻村も。
     多分冷静に話をすることはできないだろう。
     同じことの繰り返し。それも、繰り返すごとにグレードアップしている気がする。
     このままでよいわけがない。
     そもそも、自分は何のためにこの仕事に就いたのかを、紺野は改めて思う。
     なんとかしなければならない。
     なんとか……
     思案しながら帰りに立ち寄ったコンビニで買ったウィスキーのボトルを一人で空けつづけ、ネクタイを外すことすら出来ずに、そのままベッドに倒れこんだのだった。






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