•  夏の行方  
    01






     停車した電車の扉が開いた瞬間、むっとした熱気が流れ込んできた。
     降りる駅はあと一駅先。効きすぎるくらい冷房の効いた車内から外に出た瞬間の暑さを想像するだけで眩暈がしそうだ。
     かといって車内が快適かと言うとそんなことはまったくなく、車内に乗り込んでくる人々の人いきれに息が詰まりそうになる。外の暑さもうんざりだが、混みあう人間の体温はもっと不快だった。
     こんな日は出歩くもんじゃない。
     溜息を飲み込んだ辻村は、電車に乗ってしまったことを、心の底から後悔した。
     発車を知らせるアナウンスが構内に響く。
     降車した人。乗車した人。座席に腰掛ける人。立ち位置をずらして吊革に手を伸ばす人。
     一度の停車で車内の人の位置がずいぶんと入れ替わる。
     扉が閉まり、静かに電車が走り出したとき、辻村の目の前には先刻まで立っていたキャリアウーマン風の女性に替わり、ラフな格好をした若い男が、吊革に手を掛けて立っていた。
     オプションは、ヘッドフォンから漏れ聞こえる耳障りな音。
    「……ッ」
     その男から振りまかれる騒音に、辻村は眉を顰めて派手な舌打ちをした。
     男がそのことに気付く気配はない。
     苛立ちが加速度的に増加する。
     ――――うるせぇっつーの。
     超音波みたいな高音でシャウトしているのはロバート・ブラウン。
     覚えがあるその曲は、レッド・ツェッペリンの移民の歌だ。
     別にこの曲が嫌いなわけじゃない。
     ただ、自分の意思とは関係なしに垂れ流される音を強制的に聞かされなければいけないことが、我慢しがたいほどに不愉快だった。
     見れば、男の隣に立つ年配の婦人も、何か言いたげに口元を引きつらせて迷惑そうな顔をしている。
     ――――だよなぁ。コイツ、超迷惑。音量くらいてめぇで気ィ使えっつーの。
     容赦なく蹴り上げてやりたい衝動に駆られるけれども……………
     生憎。
     自分がそこまで刹那で短絡的な人間にはなれないことを、辻村は知っている。
     あと一駅だけの我慢。
     そう言い聞かせ続け、どうにかこうにか我慢して、迷惑野郎とサヨナラした。
     時刻は午後二時をまわったばかり。
     電車の中から一歩足を外に踏み出せば、そこは太陽の照りつける灼熱の世界。
     覚悟はしていたけれども、真夏の午後の空気は猛烈にぬるんでいた。
     降り注ぐ日差しよりも、アスファルトからの照り返しの方がきつい。
     数歩歩いただけでジワリと汗が滲み、ぬぐってもぬぐっても流れてくる汗がシャツを濡らす。
     けたたましく羽をふるわせるセミの音に呼び止められるように、辻村は足を止めた。
     額の汗を手の甲で拭い、その手を翳して夏の青空に視線を馳せる。
    「眩し……」
     この暑さは尋常じゃない。
     今年の夏はどうかしてる。
     去年の夏も猛暑だ、異常気象だと騒がれたけれども、これほどまでに気の狂ったような暑さではなかったはずだ。
     それとも、そんなふうに感じるのは、自分のおかれた環境が、去年までとはあまりにも変わってしまったせいだからだろうか?
     一年前の夏。
     自分にとっては高校最後の夏。
     ダラダラと学校に通う一方で、適当にバイトをして、つるんでた悪友達とバカ騒ぎをしていた。時々親とケンカをして、次の日には何事もなかったかのように食卓を囲んで、定まらない将来について悩んでみたりして……そんな、ごくあたりまえの毎日。
     繰り返しの中にささやかな刺激が混じった代わり映えのしない日々の中、強烈な異彩を放つ記憶がある。
    「拓哉――」
     辻村にとってあまりにも特別な意味を持つ名前をそっと唇にのせれば、胸がチクリと軋んで痛んだ。
     紺野拓哉。
     二歳年上の彼との思い出は、きらめく夏の太陽のように色鮮やかな記憶となって脳裏に焼きついている。

      ミーンミンミンミン………

     セミの音が激しさを増し、流れた汗が一筋、背を伝う。
     その不快感に、整えられた眉を顰めた辻村は、記憶の中の残像を手繰りよせた。
     ―――――今頃、何やってるんだよ?
     連絡を絶ってから一ヶ月半近くになる。
     彼と音信普通になるのは、これが初めてではなかったけれども。
     いまは、その腕に抱かれる心地よさを知っているだけに、やるせなさが募る。
     自分の傍らに彼がいないことが、どうしようもなく寂しくて、切なくて。
     と、同時に、そんなふうに感じる自分が腹立たしくて、転がっていた小石を蹴り上げた。
     カツン……と、塀にあたって跳ね返った小石が、転々とアスファルトの上を転がっていく。
     ふいに、封じよう、封じようと懸命に言い聞かせてきた想いがこみあげてきた。
     この暑さが、記憶を揺り起こす。
     肌の熱さも、甘い囁きも、力強い抱擁も。
     忘れるなんてできるわけがない。
     夏には、思い出が多すぎる。
     出会いは三年前の夏の終わり。
     残暑が厳しい九月初旬の出来事だった。





     部活にも属さず、塾にも通わず、気ままにダラダラと過ごした夏休み明け早々の朝。
     遅寝遅起きの生活リズムが抜け切っていなかった辻村は、その日、飛び起きた10分後には死ぬ気で自転車をこいでいた。
     これだけ時間が切羽詰ると、常ならば諦めて堂々と遅刻していくところだ。だが、今日はそういうわけにはいかない事情がある。一限目の英語で小テストが行われることを、事前に教科担任から告知されていたからだ。
    『遅刻厳禁ね』
     そう言ってにっこりと笑った彼女のテストを受け損ねると、後々追試だなんだとめんどくさいことになることを身をもって経験している辻村は、なんとしても時間までに教室に滑り込みたかった。
     前へ、前へと気は逸るけれども、交通量の激しい交差点で足止めを喰らう。
     イライラと待ち続けた信号が青に変わった瞬間、猛ダッシュで飛び出そうとしたのだけれども………
     背後で予想外の力を加えられた自転車は前には進まず、勢い余って前につんのめりそうになった辻村は、咄嗟に地面に着いた左足でバランスを崩しかけた身体を支えた。
    「―――――!!」
     どういうことかと目を剥いて振り返れば、見知らぬ男が後ろの荷台を掴んで笑っている。
    「何すンだよ!? 危ねぇだろう!?」
     怒気を孕んで怒鳴る辻村を意に介さず、男は見事なまでに飛躍した言葉を紡ぐ。
    「おまえさ、俺と同じ高校っしょ」
     そんなことは制服を見ればわかる。わからないのは、なんでこの男が自分の登校を妨害しているのかということだ。
     ふざけんなよ! と、一気にまくしたてようと口を開きかけた辻村だったけれども、言葉を発する前に男が拝むように手を合わせて頭を下げた。
    「悪ィ。のっけてって」
    「はぁ?」
    「俺のチャリ、パンクしちゃってさ。困ってるんだよ。行き先一緒だろ? ついでに頼むヨ」
    「ついでって何? 意味わかんね。何で俺がおまえを乗せてかなきゃなんねぇんだよ?」
    「いろいろあってさ。担任に目ェつけられてて、俺、今日遅刻するとボウズなの。そんな俺、見たくないっしょ?」
    「関係ねぇし……」
     初対面の人間がボウズになろうがなるまいが、辻村にはまったく関係のない話だ。むしろ、そんなことを理由に二人乗りを要請されることこそ勘弁願いたい。
     溜息とともに、眉を顰めてあからさまな拒絶を示した辻村に、男は腕の時計を叩いて言った。
    「っつか、時間、ヤバくね? おまえも遅刻ギリギリなんじゃねぇの?」
    「あ!」
     その瞬間、自分が汗だくになって自転車をこいでいた理由を思い出す。
     その隙にちゃっかりと後ろの荷台にバランスよくおさまった男が、辻村の肩を叩いて陽気に言った。
    「走れよ、後輩。昼飯おごるから。な?」
     不毛な問答をしている暇があったら、一メートルでも前に進むべし。
     賢明な判断を下した辻村は、釈然としないながらも、力いっぱいペダルをこぎ始めた。
     もちろん、一言言い添えることは忘れない。
     曰く。
    「てめぇ、絶対ばっくれんなよ? 一番高いモン食ってやるからな」
     背中から響く男の快活な笑い声が耳を打つ。
    「男に二言はないって。昼に迎えに行くからさ。おまえのクラスは?」
    「一年! 一年五組!!辻村大樹」
    「オッケー、大樹。俺は拓哉、紺野拓哉。三年三組。ヨロシクな」
    「勝手にヨロシクすンなよ。おまえ、調子良すぎ!」
     迷惑そうに吐き出す辻村の後ろで紺野が悪びれることなく笑っている。
     その後、一度も信号にひっかかることのないまま、猛スピードで校門をくぐった自転車は駐輪場の前でブレーキを軋ませて急停車した。
    「さんきゅー。助かったよ」
    「死ぬほど恩に着ろよ」
    「わかってるって」
     汗だくの辻村とは対照的に、すっきりとした笑顔で紺野が荷台から飛び降りる。
     乱暴に自転車を放り込み、一気に階段を駆け上った辻村は、猛ダッシュで廊下を走ってチャイムが鳴り終わる寸前に、教室に飛び込むことが出来た。
     全身から汗が噴き出していた。席に着くと同時に机の中に入れっぱなしの下敷きをひっぱり出してバタバタと仰ぐ。
    「納得できねぇ……」
     乱れた息が整う前に、テスト用紙が配られはじめた。
    「超ギリギリ……」
     首筋から汗が一滴。
     答案用紙の上に滴り落ちた。
    「……ったく……朝から余計な体力使わせるなっつーの」
     人懐っこい笑顔の、風変わりな三年生。
     不思議と、腹は立たなかった。
    「紺野拓哉……ね。変なヤツ」
     それが、二人の出会いだった。






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