•  愚者の楽園  
    10






     銃声が、止んだ。
     唐突に、途切れた。
     そして――――――――訪れた静寂。
     誰もが、その場を動くことが出来なかった。
     それは、不思議な静けさだった。
     その瞬間、世界からあらゆる音が掻き消えてしまったかのような静寂。
     どこか息苦しくて、重くて、背筋が凍るような沈黙に、いくつもの困惑したような視線がビルを凝視する中。
     パリン………
     硝子の砕ける音が、やけに大きく響き渡った。
     ビルの周囲を包囲していた警官達が一斉に銃を構えたその瞬間。
    「動くなッ! こっちに来るんじゃねぇ!」
     上ずったような声で怒鳴り散らす男の叫びが辺りに響いた。
    「全員、ここから立ち去れ」
     姿の見えない男に警官達の間に緊張が走る。
     けれども。
     その男の声を知る者たちの間には、彼らの緊張とは意味合いの違った戦慄が走った。
    「恭一っ!」
     異口同音に叫ばれた幾つもの声。
    「……………」
     かつて味わったことのない底の知れない沈黙が、胸を押しつぶすような重さを持って充満する。
    「恭一!」
     渦巻く思いのすべてを込めた叫びに応えるかわりに。
     いや、まるでそれが応えだとでも言いたげに、続けざまに放たれた銃弾。
    「――――!」 
     足元に跳ねた鉛の玉。警官達が手にした銃の激鉄が起こされる。
    「おとなしく銃を捨てて出てきなさい。このビルはもう、完全に包囲されている」
    「そんな言い方ないだろう!?」
     憤る圭が警官達に噛み付くように叫んだ。そして、窓の向こう側にいる恭一に向かって訴えかける。
    「俺たちはおまえの敵なんかじゃない! だから……」
     そんな必死の言葉を遮るように。
     追いつめられた者の苛々と憤った怒鳴り声が崩れたビルの中から投げつけられた。
    「立ち去れっつてるんだろうが! 馬鹿どもがッ。コイツがどうなっても構わないのか!?」
     内側から割られた窓の傍に立ち、初めてこの場に姿をあらわした男は、その全身を赤く染め、血走らせた眸を見開いて威嚇するかのような険しい視線を投げつけてきた。
     その瞬間、全員の視線が吼える恭一の腕の中に捕らえられた者の姿に集中した。
     絶望に彩られた悲鳴が上がる。
    「アニキっ!」
    「亮兄ィ」
     引き裂かれ、血に染まった聖職服。
     失血で、蒼ざめた貌。
     形の良い眉は苦痛で歪んでいる。
    「ウソだろう……恭一……」
     引き千切られたロザリオを握りしめた隼斗が虚ろな呟きを零した。
     信じていたのに。
     誰が何と言っても信じたかったのに。
     この町の英雄を。
     亮が好きかと、尋ねた恭一を。
     それなに…………
     あの醜悪な様は一体なんなのだ。
    「神父様! なんてこった」
     捕われた亮の無残な姿に、町の警官達が天を仰ぐ。
    「動くなって言ってンだろうが!」
     色を失った亮の喉に押し当てられる刃の切っ先。
    「なんでだよ……恭一、一体なんなんだよ、コレは………」
     うわ言のように繰り返す圭は、突きつけられた現実を受け止めきれず、崩れそうな身体を支えるために懸命に両足で地面を踏みつけた。
     全身が痙攣を起こしたかのように激しく震えている。
    「アニキ!」
    「亮兄ィ………!」
    「亮兄ィ!」
    「――――!!」
     子供たちが。そして圭が。
     張り裂けそうな思いで敬愛する者の名を口にする。
     その叫びに。
     その想いに。
     応えようとするかのように弱々しく差し伸べられた腕。
    「アニキッ」
     その手を握り返そうと、精一杯伸ばした圭の腕は……
     空しく宙を泳ぐだけで、彼のもとへは届かない。
     どこで、何が狂ってしまったのだろう?
     こんな再会を望んでいたわけじゃない。
     こんな場面を突きつけられるために三年間離れていたわけじゃない。
     亮が、そして恭一が。
     あれほど逢いたいと願った二人が目の前にいるのに。
     すぐそこにいるのに。
     届かない。
     この手が彼らには届かない。
     誰か。
     誰か、止めてくれ。
     溢れる血を。
     零れる命を。
     誰か。
     誰か、頼むから。
     奪わないでくれ。
     二人を。
     大切な人たちを。
     頼むから………
    「アニキィィィ―――――」
     血を吐くような圭のその声に導かれるように。
     うっすらと開かれた亮の眸が、確かに圭を捕らえた。
     溜まらず、走り出した圭に周囲の警官達の腕が伸びる。
    「危険だ!」
    「何をやっている」
    「近づくな!」
    「離せよッ!! 離せぇ―――!!」
     撃たない。
     恭一は絶対に自分を撃ちはしない。
     例え撃たれたとしても構いはしない。
     このまま引き離されてしまうことの方が耐えられない。
     だから、行かせてくれ。
     彼らのもとへ。
    「アニキ! 恭一!!俺も………」
     三人がかりで羽交い絞めにされ、振り切ろうと暴れる圭も、亮に向かって必死で腕を伸ばす。
    「―――――!」
     三年ぶりに交差する、二人の視線。
     微笑の形に弧を描いた唇と、漆黒の眸に浮かんだひどく穏やかな色を眸にした圭は、息を呑んだ。
     傷つき、血を流し、それでも尚、共に過ごしていたあの頃、常に傍で自分を見つめてくれていた時と変わらない眸の色。
     その瞬間、全身を巡った絶望と恐怖。
     全身が総毛立つ。
     読み取ってしまった。
     その眸に宿った別離の言葉を。
    「イヤだ……」
     そんなことは許さないと、狂ったように頭を振る。
     止めてくれ。
     早く!
     それができないのなら、せめて行かせてくれ。
     彼らのもとへ。
     いまならまだ、間に合うから。
     いまならまだ、彼らは目の前にいる。
     手の届くあの場所に。
     だから………
     早く!
     早く!
    「離せよ! 畜生、離せ!! イヤだ………、イヤだ、アニキ! 恭一」
     自分を呼ぶ圭の元へ羽ばたこうとするかのように、捕らえられた男の腕の中で、亮が抗うように激しく身を捩った瞬間。
    「やめてくれっ!」
     狂気を宿した男の手に握られた鋭利な刃の尖先が白い喉に沈み込んだ。
     新たな傷からドロリと溢れ出す赤い液体。
     それが最期の喘ぎであるかのように、亮の身体が大きく跳ねる。
    「いやぁぁぁぁ!!」
    「―――――――!!」
    「亮兄ィィ!」
     そして。
    「アニ……キ………」
     驚愕に見開かれた多くの眸が凝視する中。
     懸命に伸ばされていた亮の腕が、急激に支えを失ったかのようにガクリと落ちた。
    「―――――」
    「……………」
     消えてしまった命の火。
     あまりにも唐突に訪れた、別れの瞬間だった。
     一部始終を目の当たりにした子供たちは、発する言葉もないままアスファルトの上に茫然と座り込んでいく。
     それは、ほんの一瞬の出来事だった。
     その一瞬の凶行を止める術もなくただ立ち尽くしていた警官達は、これ以上の犠牲を出すわけには行かないと、我に返ったように引金に指をかける。
     絞られる照準。
     まっすぐに己に向けられた銃口を目にした男の口元に浮かんだ微かな笑みに気付いた瞬間。
     圭の背を更なる戦慄が駆け抜けた。
     震えが止まらない。
     同じだ。
     最期に亮が浮かべた笑みと。
     恭一もまた、逝こうとしている。
     自分一人を置いて。
     これは茶番だ。
     狂気を装った茶番。
     命を代償とした決死の演技。
     だが、何のために?
     彼らは何のために………
     錯綜する圭の想いを他所に、耳を打つ叫び。
    「撃てぇッ!」
    「う……撃つな!! 撃つなぁぁぁ――――!!」
     制止の声は。
     必死の叫びは。

     パンパンパンパンパン
       ズガァァ―――ン

     無数の銃声にかき消され、宙に消えた。
     そして………
     数え切れないほどの弾丸を浴びせられ、立ち込める硝煙の向こうで傾いだ恭一の身体が瓦礫の散らばる床の上へ倒れこんでいく。
     その腕に愛しげに亮を抱えたまま。
    「アニキっ! 恭一っっ!」
    「待てッ! まだ危険が――――」
     窓の内側に消えた二人の姿を求め、制止の手を振り切って駆け出した圭を遮ろうとした警官達を春人と香織が身体を張って止める。
    「何をする!?」
    「邪魔すんな」
    「行かせてあげなさいよ」
    「おまえたち、何をやってるのかわかっているのか!?」
     形相を変えて怒鳴りつける警官に向かって、それ以上の気迫を込めた眸で言葉を浴びせかける。
    「わかってるわよッ!」
    「おまえらよりはな」
     自分の帰る場所は彼らの傍ら以外にありえないと、常に笑って言っていた。この町に戻った後は、かつてのように三人で暮らしていけると、信じて疑っていなかった圭。
     圭が、彼らにどれほど逢いたいと願ってきたのかを知るからこそ、なんとしても今、彼を行かせてやりたかった。殴り倒してでも警官達を阻止しようと、捨て身の覚悟を全身から発する二人を庇うように、久志が間に割って入る。
    「自分が責任を持ちます。殺されたのは彼の兄なんです。行かせてやってください。少しの間で構わないので、話をさせてやってください」
     丁寧な物言いの中に秘められた確固たる決意。そして、現場を取り仕切る直属の上司に耳打ちする。
    「それに、彼はマグナコスタと警察上層部の癒着を暴いた功労者です」
    「あの男が……」
     一瞬だけ思案するような表情を見せた課長だったが、瞬時に次の行動へ移る指示を出した。ここで押し問答をするよりも、中の状態の確認と安全の確保が先決だった。
    「第一班と第二班は内部へ突入。三班と四班はその場で待機。油断するなよ。久志ッ、おまえも来い」
    「はッ」
     背後を振り向くことなく、必死で駆けた圭が割れた窓から飛び込んだその部屋は、あまりにも荒涼とした様子に包まれていた。
     一歩足を進めるたびに、ザラザラとした何かが足の裏で擦れる感じがする。
     割れた硝子。崩れた壁。無数の弾痕。散らばる薬莢。点々と残る血痕。
     それは、破壊と殺戮の象徴に違いなかった。
     けれども、あまりにも殺伐とした状況の中に在りながら、ひどく穏やかな表情で眠る二人がそこにはいた。
     恭一の胸に擦り寄るように頬を乗せた亮と、亮の身体をしっかりと抱きかかえた恭一と。
     まるで、そこが永遠の楽園であるかのように。
     全身に付着する乾ききらない血の痕と、あまりにも痛ましい傷痕さえ目に入らなければ。
     その表情だけを垣間見たならば。
     穏やかに眠っていると信じたくなるような二人の姿がそこにはあった。
    「………あ……」
     身を寄せ合うように眠る二人の傍らに、まるでネジの切れた人形のように、カクン、と膝をついた圭は、震える指で亮の頬に触れる。
     まだあたたかい。
     そして恭一の頬も。
     それなのに………
    「なんで………」
     何度も何度も繰り返した言葉。
    「三年前に別れたのは、闘って勝つためじゃなかったのかよ! 勝って、もう一度一緒に生きていくためじゃなかったのかよ! 答えろよ!!」
     決して答えを返してくれない二人を睨みつける圭の眸にこみ上げる――――涙。
    「離れ離れになっていても、俺たちはひとつだって言ったあの言葉は、一体なんだったんだよ!?」
     あとからあとから溢れてくる涙がとめどなく頬を濡らす。
     数えきれないくらい涙を流して生きてきた。
     だが、こんなに苦しい涙なんて知らない。知りたくもなかった。
     躓いて転んでその痛さに泣き、空腹の辛さに泣き、飲み込んだ悔しさに泣き………
     そうやって、圭が涙を流すたびに優しく頭を撫でてくれた二人の腕は、動かない。静かに微笑みかけてくれた眸は開かない。
     もう二度と。
     二度と触れることの出来ない場所へ、その体温を感じることの出来ない場所へ行ってしまったのだ。
    「アニキ………」
     何故、連れて行ってくれなかったのだろう?
     何故…………
     二人の傍に座り込んだままじっと動かず、決して拭われることのない涙を零しつづける圭の様子を遠巻きに見ていた警官達が、静かにその輪を狭めていく。
     魂の抜けたような圭を警戒することなく二人の遺体に近づいた者たちを、圭は無言で打ち払った。
     決して強い力で払われたわけではない。
     だが、突き刺さるように伝わる完全な拒絶。
     三人の間に他者が介在することは許さないと。
     その全身で、痛いほどの必死さで叫んでいる。
    「キミ……」
     折り重なった遺体は彼にとって最愛の兄と、その命を奪った凶悪犯のものだ。
     にもかかわらず、ふたりを引き離そうとするどころか、その二人に近づくものを排斥するような圭の行為に困惑を隠し切れない様子で警官達は顔を見合わせた。彼の悲しみの深さを思えば、確かに同情も禁じえない。だが、このまま放っておくわけにはいかないのが現実だった。ここは、残虐な犯行が行われた場であるのだから。その上、まだ爆発物が仕掛けられている可能性は否めず、危害を加える恐れのある人間が潜んでいないことが確認されたわけではない。
     伸ばされた手を払いつづけ、二人の傍らから動こうとしない圭にそっと近づいた久志は、かける言葉を探しあぐねながらも、彼の隣に静かにしゃがみこんだ。
     彼をこの場から強制的に排除させるような真似はさせたくなかった。
    「おまえのアニキはちゃんとおまえの元に返すから。静かに眠らせてやることを約束するから。だから、今だけは俺たちに預けてくれないか」
    「………………」
    「頼むから、圭――――」
     ぼんやりと自分を見やる、傷つききった子供のような眸に、たまらず視線を逸らしかけた久志だったけれども、逃げることは許されないと、苦渋に喘ぐような思いでその眸を見つめ返した。
     救うことの出来なかった命。
    「すまなかった」
    「………………」
    「本当にすまなかった」
     深く頭を下げた久志に、圭は小さく頭を振った。
    「おまえのせいじゃねぇよ」
     カラカラに乾いてひび割れた声。
     それでも、ようやく聞くことのできた圭の声に、久志はどこかほっとしたように息を吐いた。
    「最初からあっち側に行こうとしてたヤツを止めることなんて、誰にも出来やしないさ」
     それは、久志には理解できなかった言葉であったかもしれない。
     だが、圭はやり場のない想いをぶつけるように、握った拳で床の上を叩いた。
     胸に込み上げるのは怒り。そして悔しさと、焼けるような哀しみ。
     置いていかれてしまった。
     彼らは二人きりで逝ってしまったのだ。
     かけがえのない仲間であるはずの圭をこの場に残して。
    「畜生………」
     何度も。
     何度も。
     皮膚が裂け、血が滲み、その傷に崩れたコンクリートの欠片が食い込み、それでも尚、圭は床を叩きつづけた。
    「やめろ」
    「触るなっ!」
     炎を宿したあまりにも激しい眸で一瞥され、ほんの一瞬たじろいだ久志だったが、振りあげられた拳を必死の力で押し留める。
    「手が壊れちまう!」
     構うものかと拳を傷つけることに躍起になっている圭には、久志の言葉は届かない。
    「ふざけんなよ。なんで………」
    「圭ッ」
    「何で俺だけ………何でなんだよッ!!畜生……」
    「……………」
    「畜生――――――っ!」
     声をあげて泣き崩れる圭の傍らで、久志は己の無力を噛みしめる。
     かける言葉もなく。
     慰める言葉も持たず。
     担架に横たえられた遺体を追うように、圭が立ち上がるまで。
     痛みに軋む沈黙の中で、ただ、共に在ることしかできなかった。






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