•  愚者の楽園  
    09 





     圭にとって、三年ぶりに足を踏み入れる故郷だった。
     だが、それは懐かしさとはまったく無縁の帰郷だった。
     眼前に広がる町の様子は、そんな感慨に浸るいとまを与えない。
     細胞を焼かれるような焦燥感に駆られながら辿りついた町のあまりにも騒然とした様子に圭は息を呑み、そして、言葉を失った。
    「――――――!」
     爆発音の直後に空に立ち上った黒煙。
     続いて響いた乾いた音には覚えがある。あれは銃声だ。
     けれども。
     何故?
     一体何故?
     ――――アニキ……
     胸が騒ぐ。
     亮によって仕掛けられたファルコーニの中枢での発火騒ぎの一件がある。燃える炎に焚きつけられるようにこの町に流れ込んできた桜井たち。この爆発と銃撃が、彼らと無関係のものとは到底思えなかった。
     蒼白になった圭の腕に手を添えた香織が、手のひらにぐっと力を込める。バックミラーでリアシートの圭の様子を伺う春人の表情も、同様に強張っていた。
     極限まで張り詰めた緊張で重苦しい車内の空気を背負ったまま、騒ぎの元凶となっている建物の前で車から飛び降りた久志は、右往左往する地元の警官に今の状況を問いただした。
     渡りに船、と言わんばかりのタイミングで現れた州警察のキャリアを前に、彼らが口を閉ざす理由はどこにもなかった。
    「爆発の原因は不明。かつてこの町に出入りしていたギャングと思しき人物が複数目撃されておりますが、はっきりと確認は取れていません」
    「我々も今しがた駆けつけたばかりなので、内部の様子がどうなっているのか不明です」
    「断続的な銃声が鳴り止まないのですが、迂闊に踏み込んでいいものかどうか………」
     次々と口に上るあまりにも悠長な物言いに、久志の胸が煮える。
     目の前の切迫した状況を何だと思っているのか。
     かかっているのは人の命だ。
     おまえたちがそんなふうだからこそ、圭たちが―――圭や彼の兄である亮、そして恭一が起つしかなかったのだと。
     彼らが命を張って戦うしかなかったのだと。
     怒鳴りつけたい衝動を懸命に堪えた。
     本来なら司法を預かる立場の人間がやらなければならなかったことを圭たちが肩代わりしなければならなかったその意味を問い詰めてしまいそうな己の激情を、辛うじて飲み込んだ。
     今はそれを糾弾している場合ではない。そして、彼らだけを詰るわけにはいかない。法を守るべき州警察の幹部ですら、法を犯す側のギャングと癒着していたという事実があるのだ。
     警察機構内部にはびこった怠慢と腐臭。それらを断ち切るために、自分たちは時を費やしてきた。そのために今、この場にいるのだと、拳を握ることで久志は喉元まで出かかったそれらの言葉を押さえこんだ。
    「現場の指揮は? 誰が取っている?」
    「署長が……」
     言い終わるのを待たず、指で示された男に足早に近づくと、身分証と一枚の書類を提示した久志は、質問も反論もする隙を与えない確たる口調で言った。
    「この場の指揮権は現在より我々州警察四課に移行する。急を要する事態だ。速やかに指揮に従ってくれ」
     久志の車が現場に到着してから時間にしてほんの数分。
     だが、小さな爆発音と銃声がビルの中では絶え間なく弾けている。
    「一体どうなってんだよ!?」
     これ以上、じっとしてはいられないと、香織の制止を振り切って車から飛び降りてきた圭が叫ぶ。
     その時。
     視界をよぎった、この状況にあまりにもそぐわない者たちの姿に、この場にいた全員が目を瞠った。
    「え?」
    「何……?」
     それは、子どもたちの一団だった。蒼白な顔にひどく険しい表情を浮かべた、三人の少年少女たち。
     一陣の風のように傍らを通り過ぎた彼らが、迷いも躊躇いもなく、ただまっすぐに騒ぎの元凶となっている建物に飛び込もうとしていることに気づいた瞬間、大人たちは血相を変えて彼らを止めるために腕を伸ばした。
     彼らのその行為は、狂気の沙汰としか思えなかった。
     刹那。
     行く手を阻まれた子どもたちが金切り声に近い叫び声を上げる。
    「離せよ!」
    「離して!!」
     子供のものとは思えない強烈な力で抗われ、押さえ込む大人たちは予想もしなかったほどの力を必要とした。ほんの少しでも気を緩めてしまったら、跳ね除けられてしまいかねないほどの決死の力。
     何が彼らをそこまで駆り立てるのか。
     理解できない大人たちが口々に喚く。
    「おまえたち、気でも狂ったのか?」
    「離れなさい。いま近づいたら巻き込まれる恐れが……」
    「余計なお世話だよ、クソジジィ」
    「確かめなきゃならないのよ!」
    「何を………」
     明らかに暴行を受けたと見て取れる少女の口が悲鳴としか聞こえないような声を迸らせる。
    「離してよ! 亮兄ィ! 亮兄ィっ!!」
     頑強な檻のような大人たちの腕の中から逃れようと必死で暴れる子供たちが誰を求めているのかを悟った瞬間、圭の顔色が変わった。そして、久志、春人、香織の顔色も。
     あっては欲しくなかった最悪の事態。
     更なる叫びが彼らの焦燥を煽り立てる。
    「中にいるんだろう? 亮兄ィ! 恭一!!」
     悲壮なその叫びが圭の胸を抉る。
    「恭一って……おい、おまえら、それ本当なのかよ!? 本当にあの中に二人がいるってのか――――」
     掴みかかるような勢いで子供たちに詰め寄った圭を、少女は敵意に満ちた眸で睨み付けた。
    「だからそれを確かめたいって言ってるんじゃない! 邪魔してるのはあんたたちよッ!」
     そして、周囲の大人たちに向かって叫んだ。
    「何黙ってみてるのよ! 役立たず! 亮兄ィに何かあったら死んでも許さないから!」
    「…………」
    「返事しなさいよ、恭一! 返してよっ! 亮兄ィを! あたしたちの亮兄ィを……」
     泣くまいと歯を食いしばった少女の唇から嗚咽が零れる。
     そして、その言葉に恭一を知る町の者達から驚愕と畏怖とを含んだ声があがった。
    「恭一が……?」
     この騒ぎが恭一の仕業だと言うのか?
     ざわめきの只中で、圭は激しく頭を振った。
     ありえない。
     誰よりも強く亮を想う男だからこそ、安心して任せられると。
     そう信じていた。
     何があっても亮を守りきってくれる男だと。
     だから、そんなことはありえない。
     けれども――――
     もしも、子供たちの言葉が真実ならば、なぜこんな事態になっているのかと、信じ難い思いで圭は黒煙を上げ続ける建物を振り仰いだ。
    「どうなってんだよ? コイツらの確めたいことって何なんだよ!?」
    「圭ッ!」
     いつ崩壊してもおかしくはない危険を孕んだビルの中に今にも飛び込んでいきかねない圭の様子に、春人は色を失った。
     絶望的な思いが胸を過ぎる。
     それでも。
     圭に向けて必死で腕を伸ばす。
     駆けつけた警察車両から降り立った四課の長が陣頭指揮を取る中、整然とした包囲網が見る間に完成されていく。
    「離せよ! 春人」
    「亮兄ィ! ねぇ、無事なんでしょ? 亮兄ィ―――」
    「出て来いよ、恭一!!」
    「拡声器を! 早く」
     それぞれの想い。
     それぞれの願い。
     それぞれの祈り。
     計り知れないほどの想いがこめられた幾つもの眸が凝視する中で。
     続けざまに放たれる銃の音が、乾いた空に―――――響き渡った。



    ++++++++++++++++++++



     その頃。
     炎に呑まれはじめた建物の中に、圭が、そして子供たちが希求する二人の姿は確かにあった。
     身に纏うのは血と硝煙の匂い。
     悲鳴をあげる肺に悪態をつき、今にも崩れそうな震える膝を奮い立たせ、肩で息をつきながら互いの無事を確認するために視線をめぐらせる。
     辛うじて致命傷はないものの、どちらも満身創痍。
     仕掛けた亮も、受けた桜井も。
     すべてに決着をつける心積もりで、今日この場に赴いた。
     用意された場は、話し合いの場ではなく殺し合いの場だ。
     終りにするのだ。
     三年前から引きずってきた因縁の何もかもを。
     この街に戻ってきた桜井たちが、亮たちと対峙するための拠点として使用すると予測された建物は四ヶ所。周到に計画を立ててきた亮の手によって、そのすべてに仕掛けられた爆発物。
     そのうちの一つの建物に彼らが足を踏み入れたのを確認した後、タイミングを見計らって押された起爆スイッチ。そして始まった銃撃戦。
     速やかに。
     手際よく。
     爆発と同時に仕掛けた攻撃でどれだけの人数を叩けるかが、すべてを決する鍵となる。だから奇襲をかけた最初の先制攻撃に全力で臨んだ。
     亮も、そして恭一も、長引けば長引くほど不利になるのはわかっていた。
     わかっているからこそ、今、この場に立つ二人の間にジワジワと浸透する焦り。
     何故なら。
     まだ息の根を止めることができないのだ。
     肝心な桜井の。
     叩き潰したいのは蛇の頭だ。尾を切り落とすだけの無意味さを知っている。
     建物に入る姿は間違いなく確認した。
     だが、七割方の人間を叩いたと思われる今も、彼が倒れる姿は確認できていない。
     この中のどこかにいるはずなのだ。
     必ず。
     構えなおした銃身を握り、左右から慎重に歩を進める。
     人の気配。振り向いた。
     その瞬間。
     世界を引き裂く銃声が――――――瓦礫の中にこだました。
     硝煙で煙る視界の先に咲く、鮮血の華。
     桜井の楯となるように付き従っていたふたりの男が正確に放たれた亮の弾丸で眉間と喉を打ち抜かれ、仰向けに沈む。
     そして。
    「亮ッ!」
     傾いだ亮の胸が朱に染まり、床の上に崩れ落ちた。
    「貴様………!」
     左肩を打ち抜かれながらも、狙いを定めて放たれた恭一の弾が楯を失った桜井の頭部を吹き飛ばす。続けざまに銃弾を浴びせられ、壁にたたきつけられた身体が、虚ろに折れて床に沈んだ。
     それは、悲願が叶った瞬間であったはずだ。
     けれども。
     宿敵を倒した感慨も、志を成し遂げた充足感も。
     そんなものはありはしなかった。
     ありはしない。
     あるのはただ、絶望に彩られた虚無感と、足元から這い上がる恐怖感だけだ。 
    「亮っ!!」
     必死の叫び。
     応えはない。
     飛びつくような勢いで駆け寄った亮の身体を抱き起こし、蒼白なその顔の色と滑る血の量に、恭一の全身が凍る。
    「亮! 返事をしろ! 亮!!」
     まだ早い。
     まだ早い。
     まだ逝くな。
     まだ……
    「亮っっ!!」
     魂を揺さぶるようなその叫びに引き戻されたかのように。
     苦痛に歪められた亮の眸が、うっすらと開かれた。
    「――――!」
    「………恭一…」
    「ここにいる」
     そのぬくもりを確かめようとするかのように、頼りなげにさし伸ばされた亮の指をしっかりと握り締める。
     吐息のような亮の声に、滲みそうになる涙を、洩れてしまいそうな嗚咽を、恭一は懸命に堪えた。
     覚悟などとうに出来ていると。
     何故そんなことを思ったのだろう?
     この期に及んで尚もこの命を留めたいと、気が狂いそうなほど願っている自分がいる。
     愛して止まないこの魂をこの世に留めたいと。
     奪わないでくれ、と。
     連れて行かないでくれと。
     願わずにはいられない。
     けれども。
     愛しているからこそ。
     彼の願いを知っているからこそ。
     走り出した彼を止めることができなかった。
     そんな自分には、他の誰にも譲ることのできない役目がある。
     自分以外の誰の手にも委ねることなどできない役目が。
    「残っているのは、俺たち、だけか?」
    「ああ」
    「桜井は?」
    「死んだ。終わったんだ、全部……」
     その言葉に小さく微笑んだ亮は、力の入らない首を振るような素振りをみせた。
    「まだ、だ……」
    「亮」
    「まだだよ、恭一」
     漆黒の眸に宿る、強い光。
     こんな時ですら、凛とした表情を崩さない亮に、恭一の胸が、鋭い切先で抉られたように軋む。
    「幕引きは、おまえに……まかせたから………」
     たまらず、血に濡れた身体を抱きしめた恭一の耳元で亮は睦言のように囁いた。
    「約束、覚えてるよな?」
     どこか悪戯っ子のような笑いを浮かべた亮をまっすぐに見つめる恭一は、「ああ」と短く頷いた。
    「すぐに行く。そう待たせはしない」
    「あたりまえだ、馬鹿」
     ひどく穏やかに微笑んだ亮だったが、次の瞬間、苦しそうに身体を折り曲げて激しく咳き込んだ。
    「――――!」
     ごふっ、と。
     亮が吐き出した大量の血には、体内の組織と思しき何かが混ざり合っている。
     たまらずその背を掻き抱いた恭一とは対照的に、亮はうっすらとした笑みを浮かべたまま、ひどく愛しげに目の前の男の名を呼んだ。
    「………恭一」
    「もう、喋るな」
     辛そうに眉を歪めた恭一に、亮は額に汗を浮かべて皮肉に笑った。
    「肉を抉られるってのは、思った以上に苦しいモンだな」
    「馬鹿が……」
     流れ出る血液。
     低下する体温。
     壊れる体組織。
     一秒、時が経過するごとに、指の隙間から命が零れ落ちていく。
     愛している者の命が、儚くかき消えていく。
     亮の手を握り締める恭一の指に力がこもる。
     腕の中に抱えるように抱きしめ、そしてその手を握り締め、せめて、そうすることで体温を分け与えることができればいいと。苦痛を和らげることができればいいと。
     切に願う。
     本当はもう、離れたくなどないのだ。
     いっそこのまま時が止まってしまえばいい。
     そして、なにもかもから解き放たれてしまえばいい。
     痛みからも苦しみからも。
     抱きあったまま、永遠に。
     けれども。
    「行こう、恭一」
    「――――!」
     もう、そんなにはもたないからと、震える恭一の唇に亮はゆっくりと唇を寄せた。
    「子供たちに教えてやってくれ」
     人の命の重さを。
     犯罪の愚かさを。
     力で奪われることの痛みを。
     人の世で生きることの意味を。
     それは、今、この瞬間の自分たちにしか出来ない使命だと思う。
     そして、強烈な痛みを焼き付けられた子供たちを、彼ならば正しく導いてくれるだろう。
     そう。
     圭になら伝わるはずだ。この想いが。
     自分たちが果たそうとしていることの意味が
     だからこその、三年前の約束がある。
     未来を託せる者がいる。
     だから、迷いなく進むことができる。
     自力で立ち上がろうとする亮を制して、恭一が腕に抱えて立ち上がった。
     どこかぎこちなさを伴うその動きに、亮が呟いた。
    「悪いな、おまえも……」
    「気にするな」
     亮の言葉を掠め取った恭一は、もう一度、深く唇を重ねた。
     永遠の静寂の中で共に眠るための、誓いの儀式であるように。
     傷を負っているのは亮一人ではない。
     恭一の背中からも肩からも。
     破れた皮膚からおびただしい量の血液が流れていた。
     だが、たとえこの腕が折れようとも。
     腕の中の恋人を決して離すまいと、恭一は己に誓う。
     最期のその瞬間まで。
     この腕に抱かれたまま、夢見るように安らかに眠りに落ちてくれればいいと。
     そう、願った。







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