•  愚者の楽園  
    08 






     崩れそうな身体を震える両足で懸命に支え、美弥は必死で駆けていた。
     玩具のように扱われた己の身体の痛みなど、今は頓着している場合ではない。
     胸の中に渦巻くのはどうしようもない憤りと、押しつぶされそうな不安と恐怖。そして、ジワリと滲み出した疑念。けれども、そのすべては亮のもとへ行けば払拭されるはずだと、必死で自分にいいきかせる。耳障りな雑音のように胸の中でさざめく何もかもを、きっと彼が打ち消してくれる、と。
     泣き叫ぶのはその後だと涙を呑み込み、喘ぐような呼吸を繰り返しながら駆け続けた。
     一週間。
     約束の期日にはまだ少し日があるけれども、きっと彼はそんなことを咎めるようなことはしない。必ず救いの手を差し伸べてくれる。この悪夢のような現実から彼女達を救い出してくれるのは、この地上には彼しかいないのだ。
     だから―――――早く。早く、彼のもとへ。
     一分でも一秒でも早く。
     不規則に乱れる呼吸で必死に酸素を貪りながら、駆けて駆けて駆けつづけて。
     どんなときでも彼女達を迎え入れてくれた教会の門を目にしたときは、涙が出そうになった。その門を震える手で押し開き、黒衣の神父の姿を求めて美弥は、叫ぶ。
    「亮兄ィ! 亮兄ィ!!」
     だが、屋外にその声に応じる人の気配はない。
     ならばここかと、身体ごと飛び込むような勢いで開いた礼拝堂の中で、振り絞るように声を張りあげた。
    「亮兄ィ! 千秋が――――」
     けれども。
     礼拝堂の高い天井に空しく反響するのは喉の奥から迸る己の叫び。
     ひんやりと美弥に纏わりつくのは、背筋が凍るような沈黙だった。
     応える声はない。
     漆黒の衣をまとったやさしい姿も。
     どこにも。
     いつでも自分たちを静かな微笑と共に出迎えてくれていた亮の姿が、そこには――――――見つけられない。
     冷たく静まり返った礼拝堂は、かつて感じたことのなかった居心地の悪さと、他人顔のよそよそしさを漂わせている。
    「ウソ……、どこにいるの」
     突きつけられた現実に、ゾワリ…と全身が総毛立ち、美弥は声にならない声をあげてその場に凍りついた。
     断ち切られた救いの光。
     間に合わない。
     彼しかいないのに。
     なんとかできるのは彼しかいないのに。
     ばっくりと口を開いた傷口。
     ドクドクと溢れて止まらない血。
     ショック症状に震える痩せた躯。
     恐怖に怯える眸。
     助けて。
     ―――死んじゃう。このままじゃ……
     千秋を助けて。
     ―――早く
     お願いだから。
     ―――亮兄ィ
     たすけて……
     ―――タスケテ……
    「亮兄ィィ!! どこにいるのよォォ!?」
     急激に症状を悪化させた病身の美弥の母のために千秋が持ってきてくれた、甘い果物の缶詰。半分を母によそい、残りの果物をさらに二人で分け合って食べ、仕事を拾うために肩を並べて歩いていたその時。
     四方から伸ばされた腕に四肢を封じられ、他所の街の匂いをさせる男達に手ひどい暴行を受けた。力で屈服させられる恐怖。打ち付けられる躯の痛み。今尚全身に生々しく残る、陵辱の跡。
     下卑た笑いを浮かべた男たちの嘲るような言葉が美弥の脳裏を過ぎる。
     ――――恨むなら、恭一を恨め。いや、あの神父もグルだっけか。
     ――――これはあいつらへの制裁なんだよ。
         おまえたちがこんな目にあってるのは、全部あいつらのせいなんだぜ?
     ――――こんな目つっても、おまえら、商売なんだろう?男に突っ込まれるのがさ。
         意外にこれって役得だったりして……な。
     ――――だったらいつもと違う気持ちよさ、教えてやろうか?
     耳朶にねっとりと絡みつくのは、病んだ欲情を伝える言葉。
     狂気を孕んだ眸で恍惚と笑った男の手に閃いた、銀色の光。
     息を呑んだその瞬間に目の前で切り刻まれた千秋の絶叫が鮮烈に蘇り、美弥は身を竦ませた。
     そして―――――
     何と言った?
     あの男は何と?
    『おまえたちがこんな目にあってるのは、全部あいつらのせいなんだぜ?』
     冗談じゃない。
     何で自分たちがこんな目にあわなければならないのか。
     暴力という名の理不尽な力の前に、屈しなければならないのか。
     生きているのだ。
     意志をもった一人の人間として。
     泥に浸かったような現状の中で、それでも、必死で生きているのだ。
     生れ落ちたこの場所が、たとえ、どれほどロクでもない町だったとしても、人としての誇りだけは忘れずに生きていけと教えてくれたのは亮だ。
     ――――全部あいつらのせいなんだぜ?
     そんなはずはない。絶対にない。
     堕ちて行く一方だった自分たちを掬い上げてくれたのは、ほかならぬ亮だ。
     彼がいたからこそ、光を見失わずに生きてくることができたのだ。
     いや、亮自身が自分たちに降り注ぐ光そのものだった。
     諦めて、捨て去って、そして、見失いかけていたたくさんの事をもう一度思い出させてくれた。
     聞く耳を持たなかった自分たちに、多くの時間を費やして、数え切れないほど多くのことを、教えてくれた。
     この三年、この教会に住まう彼が、どれほど真摯な眸で自分たちと向き合ってきてくれたのかを知っている。
     だから。
     これが亮のせいであるはずがない。
     ならば……
     何故、今、彼らはここにいないのだ?
     亮も、そして、恭一も。
     ――――恭一?
     そうだ。
     この場にいないのは、亮だけではない。
     もう一人、姿の見えない男がいる。
     その事実に気付いた瞬間、美弥は険しい表情で周囲を見回した。
     この教会での平穏な日常の中に、突如として紛れ込んできたあの男は………かつての英雄であると同時に、罪を犯し服役していた犯罪者だ。
     奴等の言葉をそのまま真に受けるつもりはないけれども。
    「まさか本当に恭一が何か………」
     美弥がそう呟いた時。
    「美弥! 大丈夫か? 亮兄ィは…」
     飛び込んできた隼斗の言葉が礼拝堂に響く。
     弾かれたように振り向いた美弥が、こみあげる不安を迸らせるような悲痛な叫びをあげた。
    「いないのよ! どこにも! 亮兄ィも恭一も」
    「いない? どういうことだよ?」
    「あたしが聞きたいわよ! ねぇ、千秋は? 千秋はどうなった?」
    「……………」
     言葉に詰った隼斗の変わりに、遅れて飛び込んできた翼が消え入りそうな声で答えた。
    「………ダメ、だった。どうしても、血が、止まらなくて」
     翼のその台詞に、ガクン、と、美弥は膝をつく。
    「ウソ………」
    「…………」
    「…………」
     蒼白になって震える傷だらけの少女の前で、隼斗と翼は言葉もなく顔を見合わせることしかできなかった。口を開けば悪態ばかりついている少年達の困惑しきった眸が、それがまぎれもない真実であることを語っている。
     己の下肢を伝うヌルリとした感触に、いまさらながらに嘔吐感がこみあげる。
     口元を押さえた美弥に駆け寄ろうとした隼斗が、踏みつけて足を滑らせそうになったものを拾い上げ――――そして、叫んだ。
    「見ろよ、これ―――!!」
     慎ましやかな光を放つ十字を象ったそれは。
     いついかなる時も、亮の胸元で静かに揺れていたロザリオだった。
     彼がこの教会の主であることの象徴でもあったロザリオ。
     そのロザリオが、鎖の残骸を絡ませて、無残にも打ち捨てられている。
    「何でコレ………?」
     明らかに人の手によって引き千切られた跡の残る鎖の形状に、彼らは愕然とする。
     ――――何故………
    「……やっぱり、恭一? 亮兄ィにまで何か―――」
     湧き出した疑念は、ジワジワと広がっていく。それを肯定する根拠がないのと同時に、それを否定する根拠もまた、ありはしないのだ。
     毒を吐くような美弥の言葉を、自信なさげに翼が否定する。
    「そんなはずないよ。だって、恭一は俺たちの英雄じゃん?」
     町で力を振りかざしていたギャング達を一掃したのは、他ならぬ恭一だ。
    「そうだよ。すっげぇ、あったかそうな雰囲気のヤツだったし……」
     ―――アイツが、好きか?
     そう、尋ねた時の恭一の穏やかで力強い眸を、隼斗は忘れることができずにいる。
     だが、そんなふたりの言葉を打ち捨てるように、美弥は激しく言い募った。
    「だったら、何で二人共ここにいないの? このロザリオは一体何なのよ?」
    「…………」
    「…………」
    「…………」
     肌に突き刺さるような沈黙。
     それを破ったのは、しわがれて掠れた美弥の声だった。
    「探すのよ。亮兄ィを……ううん。二人を。そうすれば、真実を知ることが出来る」
     姿が見えないからこんなにも不安なのだ。
     彼らを見つけることが出来れば、この嫌なモヤモヤも立ち消える。
     きつい眸で前方を睨みつけ、そして立ち上がった美弥に隼斗が気遣わしげに声をかけた。
    「美弥、身体は……」

    「そんなヤワにできてないわよ」
     この痛みを一生忘れるものかと美弥は思う。
     握り締めた拳と共に、噛みしめられた言葉。
     許さない、と。
     美弥の胸に激しい炎が湧き上がる。
     何に向けられた呪詛なのか。
     何に対する怒りなのか。
     それが明確な形を成すその前に――――

     ドォォォ―――ン……

     少し離れた場所で炸裂した、腹に響く轟音。
     伝わる振動に弾かれたように屋外に飛び出した三人が目にしたものは、太陽の方角に立ち昇る煙だった。
    「何、あれ?」
    「何なんだよ」
    「……………」


     この瞬間。
     この町のどこかで、何かが―――――弾けて飛んだ。









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