5・予感

 定期的に入っていた太志さんからのメールがぱったりとなくなったことに気がついたのは、直人と向き合ってからだいぶたった後だった。夢の中で泣くことを繰り返していた私は、生身の体にも相当疲労が溜まっていたらしく、気をつけなくては再び病院送りにされてしまうような状態となっていた。幸いな事に特に親しくしていた人間も会社にはおらず、私はただ淡々と日常の業務をこなす事を心がけていた。
適当にコンビニで買ったサンドウィッチを机の上へだしっぱなしにして、ほお杖をつきながらぼんやりと窓の外を眺める。
少し元気の無い観葉植物越しに見える空は、薄い雲が所々に浮かび、それでも淡い光が窓からこちらへと伝わってくる。
なんとなく光合成ができるような気がして、目を閉じる。

「百合」

ふわふわとして現実感をともなわない世界に、ひび割れのように現実が入り込む。
それが、太志さんの声だと気がつかないまま目を開ける。

「高谷……、さん」

会社であまりプライベートを晒したくない、そう思ったのは太志さんも同じで、私とのことは極一部の限られた人間しか知らせていない、はずだ。それに伴って当然呼び名ですら、オンとオフを使い分け、お互いを苗字で呼び合うのが常だ。だから突然呼ばれた下の名前に驚き、ましてそれが太志さんからもたらされたものだなんて思ってもみなくて数度瞬く。

「えっと、仕事、でしょうか」

ぎこちない頭をようやくオンへと切り替え、仕事モードで対応をする。だけど、昔見たことがあるような笑顔で太志さんは私の隣の席へと腰を下ろす。
同僚の大半は社員食堂派で、確かにこの時間帯はあまり人はいない。
だけど、こんなことをされるのは初めてで戸惑い以外の感情が追いついてこない。

「メシ」
「はぁ」

ドサリと置かれたビニル袋の中からお弁当を取り出し、食べ始める。

「おまえも食え」
「あの……」

独特の揚げ物の匂いを撒き散らしながら、太志さんはあたりまえのように食べ進める。
戸惑いっぱなしの私は、どうしていいのかわからず、幾人かの視線を感じながらも、とりあえず流されるようにしてサンドウィッチの袋を開ける。

「連絡、悪かったな」
「はぁ」

恐らくここのところメールをしていなかったことを指すのだろうけれども、それは私の方にも言える事で、言いっぱなしで接触を断ち切ったような私の方がより非があるような気がしないでもない。もっとも、そんなことに考えを巡らせる余裕すらなかったのだから、もうどうしようもない。

「この間の男……」
「え?」

どこか現実味を帯びない太志さんとのやり取りの中、私の中で全ての神経がそのことに集中していくことがわかる。
それを悟られたくなくて平静を装い、あまり食べたくも無いそれに口をつける。

「いや、なんでもない」

なんでもない、とはとても言えない表情で、太志さんが黙々と弁当の中身を片付けていく。
冷え切ったインスタントコーヒーを喉に通し、あっけなく終わったそのことに安堵する。

「今日、暇か?」
「いえ、あの。今日はちょっと」

プライベートともオフィシャルとも取れる会話に終始しながら、周囲の様子を探る。
恐らく私が働いている部署では太志さんとのことを知っているのは上司だけで、他のメンバーは直接は知らないはずだ。
会社帰りに待ち合わせをして食事になど行く事もあるので、その辺りで噂になっているかもしれないけれど、元来地味なキャラクターの私ではその話題では盛り上がる事はないだろう。
だから、浮いた噂がほとんどない私の隣に、他部署の人間がかなり親しげな様子で座り込んでいるこの状況は、かなり奇異だ。
注目されることが嫌いで、ひっそりと生きてきた私は、ただそれだけで胃が痛くなりそうになる。

「会社、ですから」

小さく呟いた私の言葉に太志さんは片眉をあげるようにしてこちらを睨む。

「婚約者のところにきて何が悪い」

静まり返っていたオフィスに太志さんの声だけが響く。
わざと、なのかもしれない。
薄っすらと笑った太志さんの顔が、見たことがない人のようで、少し恐い。

「結婚、するんだろ?俺たち」

うん、ともいいえ、とも答えることができなくて、お弁当を食べ終わった太志さんは、さっさと隣から立ち去っていく。
一口だけ齧ったサンドウィッチと、何かを聞きたそうにしている同僚の視線だけが取り残され、私は再びぼんやりと窓の外を眺める。
結婚、する。
その言葉が現実からどんどん遠ざかって、もう私の手ではつかめないところにまでいってしまったような気がする。
もう駄目なのかもしれない。
私の中の何かが悲鳴をあげた。



「泊めて欲しい」

ただそれだけを携帯電話で伝えると、千歳は二つ返事で答えてくれた。
明日は土曜日とはいえ、家業の花屋を継いでいる彼女には会社員の感覚を当てはめてはいけない。
直人にふられたときにも、私は幾度かこの友人に世話になった覚えがある。あの時には千歳自体が家業のことや親とのことで問題を抱えていたのに、私はこの友人に頼りっぱなしだ。

「ちょうどいい、私も飲みたかったところ」

そう言って彼女は、私が遠慮しないように、指定のビールを抱えてくるように指示する。
こういう気の使い方が千歳らしくって、私の気持ちが少し軽くなる。

「久しぶり」
「はいはい、さっさと風呂だけ先に済ませとけば?後楽だし」

とりあえず本気で飲む気な千歳は、バスタオルを片手に風呂場へと案内する。
女同士で飲み倒すときにはパジャマが一番、とばかりに夜通し話し倒していた昔を思い出す。
まだ水分を充分に含んだ髪にタオルをあてながら、千歳が用意してくれた料理を眺める。
その料理の横に色違いのマグカップが置かれており、そういえば半同棲なるものをこの友人はしていた事を思い出す。

「ごめん、よく考えたら彼氏は?」
「あーー、じぶんちに帰るように連絡してあるから」
「ほんっと、ごめん、覚えてたけど忘れてた」

千歳と彼氏の付き合いは長い。高校の頃からだから当然私も彼のことは知っている。千歳が先に社会人になっても、二人の付き合いは相変わらずで、口では腐れ縁、などといいながらも仲の良い二人を羨んでいたことを思い出す。
ついでに、誰かさんを入れて4人で遊んだ記憶までが蘇り、私は再び夢の中のように泣き出したくなる。

「百合ちゃんによろしくーーってさ」
「はいはい、私もごめんねーって伝えておいて」

二人用のこたつの上に並べ直された料理はどれもおいしそうで、さっそくあけたビールと一緒に口へと運ぶ。
久しぶりにちゃんとしたものを食べたような気がして、ただそれだけで気分が上昇する。

「で?今日は何?マリッジブルーとか?」
「んーーーーー」

当たらずといえ遠からずの千歳の指摘に、苦笑いをする。
私の中で言葉になっていないぐちゃぐちゃとした思いをどう説明していいのかわからず、とりあえずビールだけを流し込む。

「まあ、結構憂鬱っちゃ憂鬱だよね。準備だって面倒だし」
「面倒、だねぇ、確かに」

何もかも放り投げ出したくなるのは、ただ面倒だというだけでは済まされないだろう。どちらかというとこのまま行方を眩ませたくなる衝動すらある。

「って、あれ?千歳も面倒、なの?」
「え?うーん、えっと、まあ」
「ん?あれあれ?ひょっとして」
「あーーー、ごめん、黙ってたわけじゃないんだけど、今度結婚することになった」
「ええ?っていうかなんで?じゃなかった、おめでとう、だよね、おめでとう」

千歳の想像もしていなかった言葉に、なぜだか私が動揺してしまう。
ああ、千歳が言っていた少しの寂しさ、というものがようやくわかったような気がする。
嬉しい、のに、寂しい。
彼氏のこともよく知っている私がこんなきもちをチラリとでも抱くのだから、ほとんど千歳が知らない男と結婚する、といったときの千歳の気持ちはこれ以上だったのかもしれない。

「ああ、そっか、そっか。とうとう結婚するかぁ。っていうか、もともと千歳の方が先にするんじゃないかって言ってたんだよね、そもそも」

付き合いの長い彼女達は、私たちの中では一番最初に結婚すると思われていた。
大概の予想を裏切って、私の方が先に結婚報告をしたものだから、たいていの友人達からは驚きのコメントを先にもらった覚えがある。

「んーー、ようやく、っていうか、なんか流れでっていうか、まあ、そういうこと」
「いやーー、千歳んところはお似合いだから」
「そっかな?」
「そうそう。猫同士がじゃれあってるみたい」
「それって褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」

苦笑いをしながらも、どこか嬉しさを隠し切れない千歳の顔は、とても綺麗だった。
面倒な事など蹴散らしながら進めていきそうなパワーも感じる。
私が彼女達に結婚報告したときの私は、千歳からみてそうだったのかと考えて、思考が止まる。
私はこんなにも純粋に、それに喜んではいなかったのだと、気がついてしまったから。
太志さんから言われたから結婚する。
ただ、もうそろそろ頃合だから結婚をする。
それだけで安易に頷いた。
私は、太志さんのことを愛していないのかもしれない。
そんな単純で根本的なことに気がついて、ぽっかりと胸に穴があく。
千歳ののろけ話と、私の仕事の愚痴は、午前にさしかかって自然と瞼が落ちてくるころには終了した。
私はもう、夢の中で泣く事はなかった。
ただ、真っ白でなにもない空間に立ち竦んだままの私は、どこへ行くのかすらわからず途方に暮れていた。


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5.29.2008

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