3・視界、遮断

 先ほど直人につかまれた場所に、まだ暖かさが残っているかのような錯覚に陥り、そっと右の手首を左手で包み込む。
テーブルの下で行なわれたその動作は、太志さんには気がつかれることなく、日常会話が続けられる。
曰く、部屋の細細とした設定だの、両親への挨拶だの。たぶん、いつもは私が口うるさいほどにきゃんきゃん吠え立てていた懸案事項を、彼がぽつりぽつりと話し掛ける。それを聞いている私は上の空で、正直なところそれがどうした、と口をついてしまいそうになりぐっとこらえる。
ああ、太志さんは今までずっとこんな気持ちで私の言う事を聞いていたのかと、新鮮なような残念なような気持ちが芽生える。
これが、これから結婚をしようかという女性の代表的な気持ち、であるはずもなく、まだ熱い右手で水の入ったグラスを握る。
ひんやりと冷たい温度がじんわりと掌に広がっていき、私はようやく現実に戻ってきたような気がする。

「太志さんが好きなように」

幾つめかの提案の後、私は恐らく心底興味のないように言い放ってしまった。
しまった、と思ったのも数秒のことで、私はどこかでほっとした気分になる。

「人事みたいだね」
「太志さんが今まで私にさんざん言ってたことと同じだと思うけど?」
「……」

百合が適当に決めておいて、悪いけど忙しいんだ、それって大事なこと?
今まで太志さんにさんざん言い返された言葉を思い出し、私の中の嫌悪感がどんどん膨らんでいく。
どうして二人のことなのにこんなにも人任せにできるのか、どうして相手の親のことなのに私に丸投げをできるのか。思い出せば出すほど腹の立つことばかりで、今までのようにただのマリッジブルーだと言い聞かせる呪文も効いてくれない。
いや、そもそも二人は相性が悪かったのかもしれない。
どこか古風で、その頑固さがいいところだと思ったけれども、裏を返せば融通の利かない堅苦しい男だということだし。真面目と言えば聞こえはいいけれど、それ以外のことがなにもできない応用力のなさ、なのかもしれない。
痘痕もえくぼとはよくいったもので、彼にとっての私もただのそれ、なのかもしれない。
この人に合わせて煙草も吸わない振りをしたし、料理ができるようにもなった、お酒だって嗜む程度にしか飲めない演技をした。
全部全部相手に合わせた自分。
それが楽しかった頃の気持ちは、どこか遠くのほうへと消え去り、もうぼんやりとしか見えなくなってしまった。

「あの男、知り合いだろ?」
「そうだと言ったら?」

隠すようにしていた私の態度で丸わかりだったのかもしれない。
先ほどあった男、藤崎直人について言及する。
だから、どうだというのだろう?
確かに私の機嫌は今まっさかさまに悪いところまで落ちているけれど、それはあの人との過去には関係のない出来事だ。
そう、あれは過去のこと。
今の私には何も関係のない別世界の話だ。

「そんなんじゃ、この話考えなおさないといけないよな」

彼は私が少し彼にとっての我侭を言うと、すぐこの言葉を持ち出してくる。
正式に婚約をして、私の退社予定も決まってからチラチラ聞かせられる言葉は、私にとっては、いや、こういう立場の人間に対してはどうかんがえても脅迫以外のなにものでもない。
だからそのたび、彼の機嫌をとるようにして自分の意見を撤回し、ただひたすら彼の意向に沿うようにやってきた。
今の今まではそれでいいと思っていた。
自分で考えるよりも誰かの考えに乗っかっていた方が楽だし、心地がよい。使わない頭はさび付いてしまうかもしれないけれど、元々たいした容量をもつものでもないし、それはそれで日々の細かい出来事に対応できるだけの能力が残されていればいいと、本気でそう思っていた。
責任をとるのは彼で、私はそれに追随しただけ。
実際に彼が責任をとるかどうかは別として、そう考えていた。
だけど、何かが違う。
そう思ってしまった瞬間、今までのやり取り全てが不快に思え、ぬぐってもぬぐっても消えない染みのような気持ちの悪さがつきまとってくる。

「そう、そう思うのなら仕方がないんじゃない?」

あっさりと、彼の思惑とは違う言葉を吐き出す。
心底驚いた顔をして、彼が私の顔を呆然と見つめる。

「いつまでそんな下らない言葉で思い通りにさせたいわけ?」
「いや、そんなつもりじゃ」
「だったらどんなつもり?」

交際してから初めてこんな風に切り替えした私に彼は途端に弱気になる。
小声でのやりとりもどこかぴりぴりとした雰囲気は周囲には伝わるもので、仲の良さそうなとなりの恋人同士が二人そろってちらちらとこちらを盗み見る。
ずっと握っていたグラスはすでにぬるくなり、私は平常時の体温を取り戻した右手を膝の上へと置きなおす。すかさず従業員がそこへ新たに冷えた水を注ぎ込み、水滴がぽたりとテーブルクロスの上へ落ちるのが見える。

「悪いけど、当分会わない」

それだけを吐き出すようにして答え、彼のほうへと置かれた伝票をつかみとる。

「……おまえは俺と結婚したくないのか?」

左右の拳を握ったままテーブルの上に置きっぱなしの彼は、微動だにせずそれだけを呟く。

「さあ?もうわからなくなっちゃった」

今の気持ちをこれ以上ないほど反映させたものをさらりと彼の上へとこぼし、私は大股で店を出て行く。
大部分の私の気持ちがすっきりとして、だけどどこかで寂しさを抱えた小さな私を宥める。
私には何の関係もないのにぼんやりと見つめていた転職情報雑誌を思い出す。
ああ、とりあえず食べるためには働きつづけなくては、と、私はただそれだけに思考を切り替える。
地下鉄に乗って自分の家へとたどり着き、惰性のようにお風呂に入る。
バスタオルで乱暴に髪を拭きながらバスルームから出た部屋はなぜだかセピア色で、回路の一部がどこかで切れてしまったかのように、やがては真っ暗となった。
私は目を瞑っても開いても真っ暗な部屋の中、一人座り込む。
手探りのようにベッドの位置を確認し、その上へと転がり込む。
直人から切り捨てられたあの時以来初めて、私は本当の意味で私になれたのかもしれない。


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5.10.2008

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