元気よく挨拶して、そして顔を上げながらちらりと奥の机に視線を向ける。
どこかのショップのコーヒーを片手に、難しい顔をしながら液晶画面を見つめているいつもの顔があった。
「……ん」
返事なのかよくわからない返事をよこし、こちらへとは顔を向けない。
彼はいつもそうではある。
だけどそれで仕事に支障をきたしているわけではないから何も言えない。
――本当は、もっと。
そこまで考えて飲み込む。
彼の左手の薬指には「これみよがし」に指輪がはめられている。
「失礼しました」
結局そのまま私は何食わぬ顔をして部屋を後にする。
私には私の仕事がたっぷりと残されている。
こんなところでのんびりしているわけにはいかないのだ。
「……お疲れ様です」
いつもより遅い帰り道、偶然エントランスで「彼」に出会う。
相変わらず無愛想で、けれども少しだけこちらに顔を向けて小さく頷いた。
はっきりとした声を聞いたのはいつだったのか。
もう思い出せないほどこの程度のやりとりしか交わされてはいない。
「あれ?今帰り?」
下げた頭を上げて、それでも少しどうしていいかわからなくなった私に声がかかる。
私はこの空間にいたいのかいたくないのか。
「お疲れ様です」
咄嗟に挨拶をして、玄関先の空を見上げる。
じっとりとした灰色の雲からはぽつぽつと雨が落ちてきていた。
私はさもそれを気にしている風に、空を見て、そしてかばんの中を探す。
「ああ、やっぱり天気予報どおりだったんだねぇ」
かわいくて親しげな声は彼に向かって発せられた。
そして、折り畳み傘を丁寧に広げあたりまえのように彼に手渡した。
かばんを探っているふりをしている間に、彼と彼女は連れ立って帰っていった。
まあ、あたりまえだけど彼女たちは「夫婦」なのだから。
そして結局みつからなかった体をして、私は小走りにエントランスからかけていった。
二人で入るには、小さい折り畳み傘をかばんのなかにしまいっぱなしにしながら。
再録09.22.2023/拍手ボタン