32 - 初めての嘘

「お慕い申し上げております」

そう、ゆっくりと言葉を紡ぎ、私は彼を見上げる。
彼は満足そうに私を見下ろし、そして形式に固めつくされた社会で、私の頭に口づけをおとす。
がちがちに固めつくされた社会で、最低限で最上級の愛情表現を。
彼は、表も裏もなく、ただ自然と当然として行動にうつす。
自分は婚約者をこんなにも愛しているし、遇している、という証拠として。
そこに、邪な気持ちは確かにない。
彼の親もしているし、多分私の親もしている。
違和感など覚えるはずもない。
私は異質で、頭が悪く、ただ表層だけがたいそう美しいだけの女。
そう自分に言い聞かせながら、私は彼に微笑む。



時は流れ、私が自分の子供を身ごもっても、身二つになったとしても、内心は何も変化が訪れなかった。
彼は鷹揚に私をほめ、そして私たちの子供にはしゃいでみせている。
真実なのかも、演技なのかもわからないそれは、周囲には本当に喜んで見せている父親に見えている、らしい。
私は、どこか欠けているのかもしれない。
それを見せないように、私はこの人を愛している。
そして二人の子供を愛している。
繰り返し繰り返し、言い聞かせるようにつぶやく。
じわじわとその言葉は浸透していき、たぶんきっと、私以外の誰の目にも私は、この世界では珍しいぐらい愛情深い「母親」となっている、はずだ。



やがて、彼のそば近くに、「誰か」の存在を感じ取ったとしても、それは私にとっては関係のないこと。
私と、二人の子供たちさえいれば、まあどうでもよかった。
正直なところ、この子供たちですら、私にとっては重要な何か、ではなかったのだけれど。
じわじわと、彼がいない世界が広がっていき、適当に距離を置いた子どもたちは十分に立派に育っていく。
私のような浅慮で、底の浅い女が口うるさく言わない方が、良い方向に行くのかもしれない。


父親に言われるように生きて、その通り嫁ぎ、言いなりのようにのらりくらりと生きてきた。
淑女の誉れ、のような誉められ方にも曖昧に返したまま。
私の中ではそれは、この社会で都合のよう女、に違いないのだけれど。
そんなことを声高に叫ぶほど、私は強くはない。
彼はどこかの女に傾倒し、そして私たちの息子は、その彼を断罪する。
ぼんやりとしたまま。彼が落ちていく姿を見守る。
伸ばしたその手を、掴もうとも、振り払おうともせずに。


私は、もうこの世界から旅立つのか、落ちていくのか。
いつのまにか増えた家族たちに見守られ、私は嘘をつく。
初めてのうそのように、私は幸せだったと。



お題配布元→capriccio
update:04.13.2024/再掲載:05.31.2024




Copyright © 2013- 神崎みこ. All rights reserved.