02 - 柔らかく濡れた

 梅雨時に傘もささずに歩いていようとも、周囲の人間は一向に気にしないものだと。
生まれて初めてそんな奇行をやってみて気がついた。
雨に濡れて重くなっていったスーツに、癖毛すら伸びてしまった髪。
それでも雨は容赦なく降り続く。
なんとなく、それすらも気持ちいいと思ってしまうほどに。



「どういうわけ?」
「どういうもなにも」

最近あまり付き合いがよくなかった恋人に呼び出される。
だいたいそういう場合のお決まりかのように、彼の隣には私の知らない誰かがちょこんと座っていた。
華奢で、かわいくて、そしてちらりとこちらを見上げた視線は隠そうともしていない狡猾さが出ている、ような気がした。

「……、いつから?」

にこにこと笑いながら、おなかをさする彼女に視線を向けないようにしながら彼に問う。
どう考えても、これは別れ話で、おそらく隣の彼女が新しい恋人なのだろう。
しかも妊娠中の。
まだ何も言わない彼から、あたりまえのように情報を察し、私のほうから口を開く。
どこかで、こういう自分がかわいくなかったのかもしれない、そんなことを思いながら。

「そんなのもうどうでもいいだろ?」

どこまでも逃げる気でいる彼はふいと、横を向く。
にこにことした彼女が、勝ち誇ったような顔をして私の質問に答え始める。

「えっとー、四月に入社したんですけどー。彼が指導にあたってくれましてー」

だらだらと、つまるところは入社したての新人女性に手を出して、あまつさえ、ということを説明される。
どこかばつが悪いのか、彼のほうは横を向いたままだ。
まあ、確かにたった三ヶ月でそんなことをされれば、会社側にしたっていい気はしないだろう。
なにせ今年度中には産休をとることになってしまいそうだからだ。
制度上、それが違法ではない、とはいえ、良い風には思われないだろう、きっと。
彼が勤めている会社は、どちらかといえば古風な体制だったと記憶しているから。
そんなことまでつらつらと考え、どうして私はこんなアホどものことをかけらほど心配してしまっているのかと、自嘲する。
お人よし、といえば聞こえはいいけれど、こんなものはただの阿呆だ。
間抜けな私の阿呆な恋人が、さらに頭の足りない女に手を出した。
ただ、それだけのことだ。

「わかった、もういいし」

言い訳も謝罪も口にしない彼は黙ったままだ。
ニコニコと、かわいらしくごめんなさい、と口にする彼女は罪悪感などちらりとも感じていなさそうだ。

「じゃあ、お幸せに。あ、それと」

浪費癖やマザコンだったり、ブラコンの妹がいたり。
そんなことを教えようとして、黙る。
きっと、そんなことは全部承知で彼を引き受けるのだろう。
私は学生の頃からのつきあいで、上手く手綱を引いていたと思っていたのだけれど。

「なんでもない、ほんとにさよなら」

自分の分のお茶代だけを置き、喫茶店を後にする。
ドアを開ければ、空からは大粒の雨がしつこく降り注いでいた。
そして、私は鞄に入れっぱなしの折り畳み傘をさそうともせず、一人で歩いてみることにした。

ずぶぬれになった私は、一人きりの部屋に戻りさっさと風呂に湯をためた。
濡れた服をカゴに放り投げ、そしてあちこちにあった彼の痕跡を無造作にゴミ袋へと突っ込んでいった。
最近こなくなったとはいえ、歯ブラシやコップは、彼専用のものが置いてある。
感傷的になりそうな自分を忘れ去りながら、黙々と作業をこなす。
湯がたまった音がして、深く息を吐き出す。
ぽたり、と何かが床に落ちたが、濡れてしまった髪の毛から落ちた、ということにする。
少しぬるめの湯につかり、再び息を吐き出す。

そして、私は始めて自分が泣いていることを自覚した。



次の日はちょうど燃えるゴミの日だった。
運がいい、と私は例のゴミをごっそりとゴミ捨て場へと運んだ。
すっきりして、寂しくて。
けれども私は笑っていられる。
そう思った。



再掲載:11.11.2016/06.28.2016




Copyright © 2013- 神崎みこ. All rights reserved.