名前も知らずに、彼女は消えてしまった。
明日も会える、そう思ったまま。
「……それ以上凶悪な面をさらしてどうする気だ?」
固まったまま事務仕事をしていた男は、無視できない声に顔をあげた。
想像通りの人物が人のよい顔をしながら近寄ってくるさまに、慌てて腰を上げる。
反乱軍、と言われていた集団は、今では正規軍となった。それを率いていた人物は当然この国の中心となった。
下げた頭を、苦笑とともにあげるように促される。
「いいかげん、役職についてはくれぬのか?」
元隊長、今では裏方となり国の再建に努めている男は、渋い顔をする。
命を懸けて仕える、と決めた国王を倒すことに決めたのは自分自身だ。
それを間違った判断だと悔いてはいない。
だが、それでも、と、心の中にしこりを残していることは確かだ。
いつのまにか消え去ってしまった少女の面影とともに。
「私には過ぎたるものですので」
控えめに、だが、頑固な姿勢で拒絶を表す。
彼の周りにいた似たような境遇からたどり着いたものたちは、さっさとそれなりの地位を手に入れ、彼と同じように再建に力を注いでいる。
そういう手段をとったほうが効率がいいことも知っている。
与えられた権力によって、影響を与えられる範囲が違うことも理解している。
だが、男はどこか頑なにそれらを拒否し続けている。
賢い王子から愚王に成り下がってしまった元王をみてきたせい、なのかもしれない。
「困ったな、今日は引き受けてくれねば、帰れぬのだが」
どっかりと腰掛けに根付いた元公爵が笑顔を浮かべる。
「ですが」
「そういえば、調査の結果が出たようだ」
唐突に話の矛先が変えられる。
ひょうひょうと、どこかとらえどころのない風な元公爵が真面目な顔をする。
つられて、男も顔を引き締める。
彼と元公爵の間にある共通の話題は国のこと以外には一つだけだから。
「どこにも、なかった」
「……どこにも?」
「ああ、形跡すら」
ユズリハが忽然と姿を消し、彼の手には髪の毛一本すら残されなかった。
だが、彼のそば近くには確かに彼女は存在していたのだと。
国王が狂っていく一端となってしまった彼女のことは、元公爵も関知している。
あの閉鎖された空間から彼女を助け出したことも知っている。
だが、彼女はまるでいなかったかのように、その痕跡を残すことをよしとはしなかった。
「それでも、覚えていた人はいたようだ。聞き取りでは随分と苦労してきたということがわかったよ」
その過去を何も語らなかった彼女のことを、彼は何も知らない。
誰にも適度な距離で接し、その実誰にも踏み込ませなかった少女。
それは彼に対しても同じことであった。
「調査書の方は手配しておいたが」
「……ありがとう、ございます」
今更知ったところで、彼女が帰ってくるわけではない。
彼女はただ気まぐれに巻き込まれてしまっただけだ。その割には被害は大きく、彼女がこの国のことをどう思っているのかを知ることすら恐ろしい。
――だが。
「で、考えてくれたかね?」
「……ですが」
視線をそらし、大男が縮こまる。
「まあ、悪いようにはしないよ。陳腐な言葉だが、彼女のためにも君の力は必要だ」
「……」
「そして、力を振るうにはそれなりの立場が必要だ」
ようやく視線を合わせれば、元公爵の真剣なまなざしと交差する。
「わかってくれるね」
元公爵は笑顔を残し、殺風景な事務室を去っていった。
男に、少女の調査書を残して。
結局、男は国の要職に名を連ねることとなる。
正確な名すら知らぬ少女に、心を捕らわれたまま。
そして、彼女に対する少しでもの手向けになるように、との思いで。
6.20.2016再掲載/03.17.2016
→零れ落ちた花びら