向けられた背中にそっと手をそわせる。
同じになった体温は、それでも二人の間にある溝を埋めてはくれない。
ただ吐き出すだけのような行為をして、泥のように眠る。
久しぶりに会えた恋人同士、というには情熱が足りない。
半身をおこし、眠っている彼を見下ろす。
うっすらと浮かんだ目の隈に、彼が仕事が忙しい、といい続けていたことが事実であることはわかる。
――だけど。
不意に浮かんだ彼女の笑顔に、無意識に唇をかみ締める。
いつのまにか鉄の味が口の中に広がり、ためいきをついてその行為を止める。
彼との付き合いは高校時代から続く長いものだ。
大学、社会人を経て、私たちはきっと結婚するのだろう、と思われている。
私も、そんな風に考えていた。
だらだらと続く日常の先に、彼との生活があるのだと。
それが崩れたのはほんの些細なきっかけ。
新しくて、若くて、かわいい彼女が彼の周りにちょろちょろし始めたあたりから。
最初は、気のせいだと思っていた。
けど、そう思おうとした私をあざ笑うかのように、彼女はその跡をみせつける。
彼は知らないのだと思う。
彼女のそんな一面を。
そして、気がついてしまった私の心の変化に。
眠っている彼を起こさないようにベッドを降りる。
綺麗に畳まれた衣類を身につけ、帰り支度を整える。
最後に、しよう。
そんな風に考えては、実行することはできなかった。
まるでぼろぼろになっても手放せないぬいぐるみのように、私は彼に触れれば安心していられたのだから。
ちらり、と、彼女が笑う。
ぎゅっと目を瞑ってその画像を追い払う。
バッグの中身を確認して、座っていたベッドから立ち上がる。
全ては、もう終わったのだと。
何度も何度も決意して、それでも鈍ってきた決心を固める。
その気持ちを砕くかのように、何かが私の左手を強く引きとめた。
「何?」
「何、じゃねーよ、なんで帰るんだよ」
もちろん、そんなことをするのは一人しかいない。
彼は怒った顔をして、私を見上げていた。
彼の上に覆いかぶさるようにして、私はまたベッドの上に戻された。
視線をまともに受ける。
こんなにも感情が振れた彼を久しぶりにみたような気がした。
「離して欲しいんだけど」
何も言わずに黙り込み、そして体の位置が反転された。
今度は私が彼を見上げるようになり、彼が両腕をついて私を捕獲しているような格好だ。
「なんで帰るんだよ」
「……明日も仕事だから?」
まるで嘘ではないけれども、本当でもないことを口にする。
確かに、明日は金曜日なのだから、二人とも仕事があるのはあたりまえだ。
けれども、私の中の本当の理由は別のところにある。
まるで納得しない彼は、私をにらみつける始末だ。
後ろめたい気持ちはあったけれど、こんな風に責められるいわれはない。
どこか勝気で、生意気な私が浮かび上がる。
「彼女、元気?」
少しだけ動いた眉に、彼の動揺がみてとれる。
長年連れ添った夫婦のような関係では、あまり見られなくなった表情だ。
「なんのことだ?」
誤魔化していることがわかりすぎるほどわかる挙動に、思わず笑い出したくなる。
彼は、私にずっと嘘をついてきた。
それがばれていないとでも思っていたのだろうか。
事実以上に、ばかにされてきた、という現実に私の中の何かが崩れていく。
「彼女、かわいいじゃない。ああいう華やかな子は隣につれていて楽しいでしょう?」
私と違って、という言葉は飲み込む。
確かに、私は彼女ほど若くもかわいくもないが、卑屈な言葉は私を惨めにするだけだ。
「……ばかなことを」
ようやく口にした言葉は、否定をしていないことに気がついているのかいないのか。
「そういうことだし、もう私は必要ないでしょ?」
きりきりと掴まれた手首に力がこめられる。
圧倒的な体格差に思わず身震いしそうになる。
彼は男で、私は女なのだという当たり前のことをようやく思い出す。
「二三発ぐらいなら殴ってもいいわよ?それで気が済むのなら」
挑発するような言葉が、勝手に口から走り出していく。
昔も今も、私のこの悪癖は変わっていない。
「なんで、そんなことを言うんだ?」
「なんでって、浮気しておいて、それはないんじゃない?というか、私の方から別れましょうって言ってるんだからありがたい申し出でしょ?」
歯軋りをして悔しそうな顔をする。
新しい彼女もいるけれども、使い慣れた毛布も必要だと、そんな風に考えているのかもしれない。
私がぬいぐるみをなかなか手放せなかったように。
「男か?男ができたのか?」
まるで的外れなことを言う彼に思わず失笑する。
静かに格好をつけてフェードアウトをするよりも、気持ちが片付いた分だけよかったのかもしれない。
「ばかなこと言わないでくれる?あなたじゃあるまいし」
「何を言っているのか、わからないんだが」
両手を離して、彼は手探りでタバコを探す仕草をする。
せわしない手つきで一本を取り出し、かちかちと数度ライターを鳴らして火をつける。
精神安定剤のように、深く煙を吸う。
その一連の流れを、どこか俯瞰したような自分が眺めている。
「全部話す?あかりちゃんから連絡してきて、あかりちゃんから写真もらって、あかりちゃんから別れてって言われたんだけど」
思わず咳き込んだ彼は、ペットボトルの水をあおる。
「いや、あれは」
「まあ、別にどうでもいいんだけど」
まるで悲劇のヒロインに浸っていた私は、この短時間のやりとりですっかり冷め切ってしまった。
百年の恋が冷める瞬間、というのはこの程度のものなのか、と、妙にすがすがしい気分ですらある。
「ああいう子を彼女にするような男に、興味ないんだよね、正直」
好戦的で、かわいくて、たぶん女子力が高くって。
女友達がいない代わりに、かわいいからいじめられるんだよねって勘違いした男友達がたくさんいる。
私の想像の中のあかりちゃんは、そんな女の子だ。
「いや、でも」
「いいわけも思いつかないぐらい気にいってるみたいだし」
誤魔化しの言葉は出るけれど、一向に私に対して言い訳すらしていないことにようやく気がついたようだ。
彼の中のウェイトがどの程度なのかも透けてみえてしまった。
「でも、俺、おまえと結婚」
「黙ってくれる?」
彼の言葉を遮る。
ずっと聞きたかった言葉を、こんな風な状況では耳にしたくはなかったと。
「ということだから、わかってるよね?」
何かを喚いている彼を置き去りにして、その場から逃げ去る。
駅の方へと向えば、あちこちに酔っ払いが気持ちよさそうな顔をして歩いていた。
あらかじめ用意していたホテルへと泊り込む。
ここまで準備して、それでもようやく振り切るようにしてけじめをつけることができた。
シャワーを浴びて、冷たいシーツの上に飛び込む。
まだ乾いてない髪と、どこかからの水分が吸収されていく。
あの人の体温は消え去り、私の体温だけでベッドが温まっていく。
きっと、大丈夫。
ちゃんと、手放したのだから。
05.16.2016再録/02.18.2016