44 - 昔話

「なんだかんだ言っても、割といい人生だったよなぁ」

まだ四十半ばの夫が、妙なことを呟いた。
思わず周囲に凶器がになりそうなものがないことを確認して、ため息をつく。
何の返事も返さない私に、それでも夫はご機嫌で言葉をつむぐ。
夫と、二人しかいない空間で、私は洗濯物をたたみ、彼はテーブルで晩酌中だ。
それをどうこう言うつもりはもうすでにない。
共働きなのに、などという言葉はすでに言い尽くされて私の中には何も残っていない。
子供たちは大学進学とともにこの家を出て行き、結局夫婦が残される。
今まで、なんとか繋がっていた糸は、ただの思い込みだったようだ。

「おまえも飲むか?」

山ほど残っている家事を目の前にして、気楽に声をかける。
たぶん、きっと、彼に悪気はないのだろう。
私には、ただひたすら頭が悪い人だ、という感想しか湧き出てこない。
むろん、そんな人を選んだ自分がおろかだということも。

「……そういえば、絵美さんお元気?」

お酌する彼の手はぴたりと止まり、器からあふれ出た液体がテーブルに広がっていく。
慌ててそれらをふき取り、夫は私との会話をなかったことにする。
そういう、人だとはわかってはいた。
問題があれば見ないふりをして、小言はただのヒステリーだと聞かないふりをする。
彼の育成関係がそうさせたのかもしれないけれど、それを私が育てなおしするのも限界だ。
昔々の浮気相手の名前にすら動揺する彼は、基本的に小心者でひょっとしたら人はいいのかもしれない。

「そういえば、この前電話がかかってきたのだけど」

小動物が周囲を警戒するように、びくりとした態でこちらを伺う。
たぶん、私は笑っているのだと思う。
すでに神経は磨耗して、私の感覚がおかしいことは私自身が一番よくわかっている。

「まだ仲良しなんですね、絵美さんと」

再び出てきた名前に、彼はあからさまに動揺する。
大して強くもないお酒を煽るように飲む。
酔っ払って、きっとなかったことにして、そしてなんでもない顔をして次の日に「おはよう」と言うのだ。
もしかして、から、やっぱり、と集まってしまった証拠に私が縋っていた気持ちがぷつりと切れた。
あれほど被害者ぶって、泣いて泣いて、けれども情だけは捨て切れなかったというのに。
もっとも、こんなところでぶちまけるつもりはなかったけれど。
彼が私たちの過去を、美化して話したりするから、感情がささくれだってしまった。
もごもごと言葉にならない何かを呟き、ひたすら酒を煽る。
そして、当たり前のように突っ伏して寝入ってしまった。
酒の席での出来事は、次の日にはきれいさっぱり流れてしまうべきだ、というように。
ためいきをついて、洗濯物を仕舞いにかかる。
彼のものは彼のたんすへ。
私のものは私のボストンバッグへ。
予定を前倒しして、せっせと荷造りを済ませる。
あのまま本格的に寝てしまった夫を残して、私は次の居場所へと移動する。
私の通勤時間がおそろくかかり、びっくりするほど彼の実家に近いあの場所へ戻るつもりはない。
昔話で悦に入り、優しい思い出しか残っていないあなただけを残して。


再掲載:04.06.2016/01.28.2016




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