41 - 傷のある背中

「あのう、おねーさん。飛び降りるんならほかをあたってくれませんかね?」

跨線橋の上からぼんやりと電車を眺めていたら、見知らぬ男に話しかけられた。
どこか人懐っこくて、けれども馴れ馴れしくない絶妙な距離で近寄ってくる。

「別に、飛び降りようなんて思ってはいないから」

一瞬だけ振り返り、元のように視線を線路に下ろしながら言い返す。

「いや、そんな風情を背中に漂わせて、おまけにそんな顔で言われても、説得力ないんですけど」

返された言葉に、とりあえず黙りこくる。
確かに、今の私はひどい顔をしているだろう。
いつの間にか流れていた涙を拭いてみれば、案の定黒い染みがハンカチを濡らしてくれた。
完璧を誇ったはずのアイメイクも、物理的な攻撃には弱かったようだ。
しみじみとハンカチを見つけていたら、見知らぬ男がまた一歩近寄ってきた。

「なに?」
「や、別に。おもしろい顔だな、と思って」

パンダのようになっているだろう私を見下ろして、男がのたまう。
ちかっとした痛みが走り、無意識に男にこぶしを当てる。

「あぶなっ!」

男は軽々とそれをかわし、どこからどうみても憎憎しい表情を浮かべる。

「そんなんだからふられるんじゃないっすかね」

何のためらいもなく断言した男の言葉に、行き場を失った右腕がだらりと下がる。
体ごと反対方向を向き、もう一度線路を眺める。

「図星?」

ぐいぐいと精神的な距離をつめ、それでも物理的な距離は一定に保ってくれている微妙な男に追い詰められる。
傷ついて、頭にきて、そして今の私は謎の男にわけのわからない感情にさせられている。
どっぷりと浸っていたときの気持ちからは、かけ離れた今の状態も思い切り謎だ。
恨みがましい気持ちが少しだけ、どこかへいったような気すらしてしまう。

「うまいもんでも食べたらどうっすか?」
「なにそれ?」

線路に向かって素早く突っ込みをいれる。
この男に会う前の精神状態からは考えられない。

「おねーさん、ここから飛び降りてもいいことないって」
「でも、一瞬じゃない?」
「いやー」

そこからなぜかいかにしてそれが迷惑か、非効率的なのかを説明された。

「どうせ、そんなことしたって相手は後悔なんかしませんよ」

悲劇の主人公を気取って今現在の恋愛話の添え物として飾られるだろう、ということぐらいは私でも気がついている。
思い出した顔に、心の中で思い切り悪態をつく。
隣によりそっていた、私とは正反対の女の顔も。

「まあいいや、いつまでもここにいるのも不毛だし」

手すりから手を離し、体の向きを変える。
後ろ側に、例の男がいる気配がする。
微妙な距離で、それでも嫌な気持ちがしないのは、彼の人徳のようなものなのだろうか。

「おねーさん、だいじょうぶっすか?」

ひらひらと右手をふり、振り返らずに歩き出す。
最低にみっともない自分をさらけ出しておいて今更ではあるけれど、私より年若い「男の子」に多少は格好をつける。
まだ、気持ちが片付いたわけじゃない。
私はあんなのでもあれが好きだったし、未練なんて売るほどある。
それでもちょっとだけ、本当に少しだけ気持ちが楽になった。
きっと、明日はいいことがあるかもしれない、そう思える程度には。

その後、どういうわけかその見知らぬ男と酒を酌み交わし、あれ以上ないほどみっともない姿をさらすことになることを、私は知らなかった。



再掲載:03.02.2016/11.25.2015




Copyright © 2013-2016 神崎みこ. All rights reserved.