35 - 黒猫

 踏んだりけったりとはこのことだ。
お気に入りのパンプスを傷つけ、思い切って買ったバッグを傷つけられた。
そんな厄日は、男に捨てられたばかりのアラサー女にはひどすぎるのではないか、と。
誰に向かって発散させればいいのかわからない怒りを抱えながら、ビールを入れたビニル袋を振り回しそうになる。
寸でのところで推しとどめ、気持ちを落ち着かせる。
これで缶ビールから泡がふきだしたら、あまりの情けなさにきっと泣いてしまう。
男に捨てられたときにだって、泣かなかったというのに。

男との付き合いは八年前にさかのぼる。
割とだらしなくて、それでも人がよかった彼を支えてきたのは自分だと自負している。
遅刻をしないようにモーニングコールをし、倒れないようにバランスのよい食事も用意した。
全てを先回りし、彼が居心地がよいように過ごした八年間を、友人はただのおかんの子育てと評してくれた。
それは、全くその通りだと今ならわかる。
だらだらと同棲をして、全ての家事をこなし、そして彼はよそのお嬢さんと恋愛関係となってしまった。
気がついたときには相手のおなかの中には子供がいた。
そんなある意味べたで、ドラマ的な出来事がわが身に起こるだなんて思いもよらなかった。
拒否権などない。
あっけなく彼の家から放り出され、彼女がその後に居座ったのだろう。
自分が選んだ部屋で、かけたカーテンで、整えた調理器具で暮らしているのかもしれない。
それ以上考えると惨めになりそうで、思考を停止させた。

ふいに、鳴き声がしてあたりを見渡した。
何も見つけられなくて、首をかしげる。
鳴き声はしなくなり、幻聴だと判断する。
歩き出そうとした桃子の足元に、何かが当たった感触がした。

「にゃあ」

ヘーゼルの瞳が、桃子を見つめていた。

「って、猫?ねこ?まじで?」

昔から猫が大好きで、お迎えしたかった自分は狂喜する。
彼が猫嫌いでなければ、とっくの昔に下僕に成り下がっていたはずだ。
こんなところでもまだ彼との生活の切れ端が顔を覗き、うんざりした。

「あらら?野良ちゃんかしら」

すりすりと足に顔を摺り寄せる子猫に話しかける。
まだ子供、と断じてよいほどの小さな黒い猫に首輪が見当たらない。
周囲をもう一度確認しても、親猫も存在していない。

「少し触ってもよいかしら?」

声をかけ、おそるおそる手を差し伸べる。
実家には犬しかいなかったせいで、猫にどうやって触れていいかもよくわからない。
だが、そんな心配は杞憂で、子猫は自ら自分の手の方に擦り寄ってきてくれた。
その暖かで柔らかな感触に、即断してしまった。





「ねー、クロちゃんどこ?」
「日向ぼっこじゃない?」

見当たらない愛猫を探す。
クロは、厄日だと称した日にお迎えした黒猫だ。
その単純なネーミングセンスは、以後のペットたちにも発揮されている。
三毛猫だからミケ、白黒だからパンダ。
猫たちは、どんな名前で呼ばれようとも大して気にしている様子はないのだが。

「あ、いた」

お気に入りの場所で窓の明かりで日向ぼっこをしていたクロを発見する。
クロは桃子を一瞥しただけで、興味がないように寝そべったままだ。
そういうあたりが、猫の猫らしさだ。

「発見したー」
「よかったねー、それより朝ごはんだよー」

夫のやわらかい返事が返ってきた。
共働きで、家事も程ほどに分け合って、そんな結婚生活ができるだなんて想像もしていなかった。
これもきっと、クロのご利益に違いない。
猫を一撫でして、洗面所へとむかう。
手を洗って、食卓へつく。
にこにことした表情の夫を見て、やっぱりご利益だと心の中でクロに手を合わせる。

「いただきます」

微妙にシンクロした台詞に笑みがこぼれた。



再掲載:01.15.2016/9.13.1.2015




Copyright © 2013- 神崎みこ. All rights reserved.