34 - レッドカード

 ちりちりと胸を焦がす音が聞こえる。
痛みがじんわりと体全体に広がっていく。

「ごはんは?」
「あー、わりぃ、食べてきた」

見越して何も作っていない私は、わざとらしく声をかける。
彼は、案の定思ったとおりの台詞を吐き出し、スマホから目を離そうともしない。
その小さな画面を通じて、誰とつながっているのか。
そんな私の怪訝な思考など、まるで意に介さない。顔を見合わせてまともに会話をしたのはいつごろだったのか。
遠く忘れてしまうほど、彼の世界に私は存在していない。
いつからこんな風になってしまったのか。
思い起こせないほどありふれた風景となってしまった彼を、視線のはしに捕らえる。

「実家の猫が具合悪いんだって」
「……ふーん」
「だから、ちょっと帰るね」
「……あ?ああ」

こちらを見上げもせず、彼はどっかりと座ったソファーの上で、画面を操作している。
私はちょっとという言葉とは不似合いなほど大きなスーツケースを玄関へと運ぶ。
こんな非日常なものが目に入らないほど、彼は何かに夢中だ。
それがゲームでも、回線でつながった女の子でも、もう私にはどうでもいいことだ。
私の中の閾値はとっくに越えてしまっている。

「そうそう、ユイさんお元気?」

だるそうに返事をし、ゆっくりと脳に伝わったのち彼がこちらを振り返る。
今日はじめて合わさった視線は、とてもうろたえていた。
同棲をしている恋人に送るものとしては、相応しくないに違いない。

「それ、みたわけじゃないわよ?」

彼のスマホを指差す。
そんなものみなくても、ユイさんは私にことごとくマーキングをしてくれた。
自分の方が、彼に相応しいのだと。
同じ職種でもなく、年上でもない私は黙るほかはない。
彼の仕事を共感はできても、理解はできないのは確かだから。

「そんなんじゃ」
「別に、そんなのでもどんなのでもいいんだけど」

そんな時点はとっくに過ぎ去っている。
届かない声を、どれだけ彼に向かって発してきたのか。
曖昧な返事を繰り返し、彼は私と向き合おうともしてくれなかった。
いまさら、聞いていない、と言われても、失笑しかでない。

「まあ、そういうことだから」
「犬が具合悪いんだろ?」

半分以上私の言葉を聞き流していたことを、しっかりと認識する。どこかでがっかりした気持ちが沸き起こり、それでも期待していた自分にあきれてしまう。

「犬なんて飼ってないけど?」
「え?だって、おまえ」

ごにょごにょと、誤魔化すように語尾がすぼんでいく。

「実家にいる猫が具合が悪いの」
「ああ、そう、猫、猫だ。えっと、お大事に?」
「ありがとう」

事務的な会話を交わし、彼はユイさんの話題からそれたことに安堵している。

「冷蔵庫、全部片付けたから、何か食べたかったら買いに行ってね」
「え?ああ、わかった」
「それと、私のものはもうないと思うんだけど、あっても瑣末なものだから捨ててかまわないから」
「へ?え?」

慌てて周囲を見渡す。
私の持ち物だった整理ダンスやらがなくなっていたことに、ようやく気がついたようだ。
実は、彼が座っているソファも私が購入したものだが、誰が座ったのかもわからないものは諦めることにした。

「ばいばい」

明るい顔で、わざとらしく手を振る。
彼はわけがわからない、という顔で追いかけようとして、着信音でスマホに引き戻される。
結局、彼はユイさんを選んだということだろう。
言い聞かせるようにして、巨大なスーツケースを運びながら小走りする。

どこかすがすがしく、半分以上寂しい気持ちに引きずられながら。



再掲載1.15.2016/9.13.1.2015




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